内田秀五郎さん【中編】

井荻町土地区画整理組合の記念写真。前列左から3人目が内田秀五郎(出典:『区画整理事業写真帖』)

井荻町土地区画整理組合の記念写真。前列左から3人目が内田秀五郎(出典:『区画整理事業写真帖』)

井荻町土地区画整理事業

杉並区の地図を見ると、区の北西部の区画が碁盤の目状になっていることがうかがえる。これは、内田秀五郎が中心となって行った土地区画整理事業によるものである。

急激な郊外の発展
1919(大正8)年に発布された「都市計画法(旧法)」を受けて、井荻村は1922(大正11)年に都市計画区域に設定された。「当時の井荻村は、城西の一農村にして、戸数僅かに六百余戸、宅地田畑を通じ六百八十余町歩、山林原野にて百五十余町歩を占め、武蔵野の俤を偲ぶに足る、長閑な村落であった。」(『傳』)ところが、翌年の関東大震災を契機に、東京市内から郊外への移住者が激増。「昨日の畑に今日は家が建つ」といわれる状況となった。

井荻村土地区画整理組合の設立
秀五郎は「今のうちに道路を整備拡張しておかなければ、悔いを百年後に残す」と考え、無秩序な宅地開発が進まないよう、土地を整理して宅地化を進める井荻村全村の土地区画整理を計画し、村会議員や有力者に提案した。しかし、耕地の減少や工事費の負担金を危惧する反対者が多く、中には「「内田村長を殺せ」と村役場に押しかけて来て、計画の中止を求める人もいた」(『杉並区史探訪』)という。だが、秀五郎は将来必ず村全体の利益になるという信念で反対者の説得に飛び回り、ようやく法定数に達する地主の賛成を得、1925(大正14)年9月24日に「井荻村土地区画整理組合」(後に「井荻町土地区画整理組合」に改称)の設立認可にこぎ着けた。

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右側の質素な建物が井荻町土地区画整理組合事務所。奥の建物は井荻町町役場庁舎(出典:『事業誌』)

右側の質素な建物が井荻町土地区画整理組合事務所。奥の建物は井荻町町役場庁舎(出典:『事業誌』)

区画整理前の井荻地区俯瞰(ふかん)図(出典:『事業誌』)

区画整理前の井荻地区俯瞰(ふかん)図(出典:『事業誌』)

紆余曲折(うよきょくせつ)の船出から事業完了まで
ところが、認可が下りた直後に、上荻窪地区から脱会の申し入れがあった。この地域は西荻窪駅付近にあり、区画整理をしなくても買い手や借り手に不自由しておらず、工事期間中に土地の売買を制限されたくないという理由などからであった。やむなくこの地区を除外し、区画整理地域を六工区に分けて、1926(大正15)年11月に工事に着手した。
工事は関係者の協力で順調に進捗(しんちょく)し、「日が経つにつれて、台地は削られ、湿田は埋め立てられて平坦となり、起伏錯綜した農地は、碁盤の目のように縦横に走る道路で整然と区画され、美しい住宅地に変わって行った」(『杉並郷土史会会報第57号』)。この状況を目の当たりにした上荻窪地区から1928(昭和3)年に再加入の申し入れがあり、第七、第八工区に追加して工事を続行した。
1935(昭和10)年1月、第八工区を最後に全工区の工事が竣工(しゅんこう)。同年3月の換地処分(※1)をもって井荻町全域の区画整理事業はおおむね完了した。土地の減少率は5%(※2)で済み、『杉並区史探訪』によると、心配された工事費の負担金は組合保有地の売却金で賄われ、地主は一銭も出さずに済んだという。
その後も、「換地の登記や清算が進められて、最終的には1941(昭和16)年3月の組合会で解散の議決が行われた。同年12月28日付の内田秀五郎組合長の挨拶文がついた清算残務終了の報告が12月31日に全組合員に対してなされた」(『研究』)。

上段:区画整理直後の第一工区(現荻窪2-43付近)(出典:『事業誌』)<br>下段:井荻信用組合本店屋上より見た区画整理直後の井荻町西部方面(出典:『内田秀五郎翁』)

上段:区画整理直後の第一工区(現荻窪2-43付近)(出典:『事業誌』)
下段:井荻信用組合本店屋上より見た区画整理直後の井荻町西部方面(出典:『内田秀五郎翁』)

上段:区画整理直後の第八工区(現西荻南4-12付近)(出典:『事業誌』)<br>下段:区画整理直後の放射六号(青梅街道)(場所の詳細は不明)(出典:『事業誌』)

上段:区画整理直後の第八工区(現西荻南4-12付近)(出典:『事業誌』)
下段:区画整理直後の放射六号(青梅街道)(場所の詳細は不明)(出典:『事業誌』)

全国屈指の大規模な土地区画整理事業
井荻町土地区画整理事業は、組合設立からすべての換地処分の完了まで約10年、清算の完了まで約16年に渡っての壮大な事業であった。区画整理の総面積は約880町歩(約880ha)におよび、「単一町村独自で行った事業としては、全国屈指の大規模なもので、街づくりとしてもすぐれたものであった」(『杉並区の指定登録文化財』)。
1935(昭和10)年3月、区画整理事業の完成を記念して刊行された『事業誌』の巻頭言(かんとうげん)で東京府知事・横山助成は「後年、全国土地区画整理事業史を編むの時あらば、地域の濶大にして用意の周到なる、且つ進程の速やかなりしこと、本組合に於けるが如きは宜しく特筆して、光輝ある其の成果を表彰すべきなり」とその偉業をたたえた。1940(昭和15)年5月、井草八幡宮東参道北側の境内に、井荻町土地区画整理組合によって井荻町土地区画整理碑が建てられた。碑の正面には区画整理事業の経過が、裏面には整理組合の役員132名の名が刻まれている。

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区画割図(出典:『事業誌』 ※挿図に加工)

区画割図(出典:『事業誌』 ※挿図に加工)

井荻町土地区画整理碑。総高7.2mと区最大の記念碑。杉並区登録文化財 有形文化財(古文書)(撮影協力:井草八幡宮)

井荻町土地区画整理碑。総高7.2mと区最大の記念碑。杉並区登録文化財 有形文化財(古文書)(撮影協力:井草八幡宮)

同時期に展開された各種事業 

土地区画整理事業と前後し、インフラ整備をはじめ、井荻の発展につながるさまざまな事業が行われた。本記事の前編では、先行して実施された電灯敷設、郵便局・電話局、西荻窪駅を取り上げた。ここでは、整理事業と平行して展開した四つの事業を紹介する。

①井荻町営水道の敷設
秀五郎は「区画整理で道路を整備され、下水溝ができても、上水道がなければ、仏作って魂入れずだ」(「杉並郷土史会会報第57号」)と、1928(昭和3)年9月に善福寺池畔を水源とした町営水道建設案を町議会に提出した。しかし、どの家にも井戸があるので水道を引く人はいない、財政に余裕がない、という時期尚早論が大半を占めた。
1928年5月に町長を辞めて、当時東京府会議員の秀五郎は、反対派の町会議員に会い「井荻町は近い将来、東京市内に編入され、発展が予約されている。将来のことを考えてくれ」(同会報)と水道の必要性を説いた結果、同年9月の町議会で工事費65万円の水道実施計画案が全会一致で可決された。直ちに水道敷設委員会を作り、自ら委員長となって、国へ水道工事施工の認可と起債の許可、補助金の交付申請を行った。
だが、大蔵省から起債の許可が下りる直前の1929(昭和4)年7月に政変が起こり、田中立憲政友会内閣が倒れ、浜口立憲民政党内閣が成立した。秀五郎は浜口内閣の反対党の立憲政友会所属の議員だったため、申請は不許可となった。

1927(昭和2)年、旧井荻水道敷設のため善福寺池畔にて水量試験中の秀五郎(左端)(出典:『内田秀五郎傳』)

1927(昭和2)年、旧井荻水道敷設のため善福寺池畔にて水量試験中の秀五郎(左端)(出典:『内田秀五郎傳』)

善福寺池畔より杉並浄水場(旧井荻水道)を望む(昭和11年頃)(出典:『内田秀五郎傳』)

善福寺池畔より杉並浄水場(旧井荻水道)を望む(昭和11年頃)(出典:『内田秀五郎傳』)

しかし、秀五郎が「水道事業は、住民の保健衛生上欠くことのできない都市施設で、政党、政派を超えて許可されたい」と根気強く運動した結果、翌年10月に工事の認可と、577,700円の起債が許可された。
『井荻町第一期水道抄誌』によると1931(昭和6)年2月、工事着工。4月善福寺池西岸の畔に集水井戸を掘り、ポンプで浄水場へ揚水する工事を行い、1932(昭和7)年3月から一般家庭への給水が開始された。
後年、秀五郎は当時を回想し「これまでポンプ井戸やつるべ井戸で骨を折っていたのに、栓を一つひねればヂャーッと水が来るのですから、大変なものです。さきにはランプが電燈になり、いままた井戸が水道に代わる。このよろこびはひとしおのものがあります」(『今昔』)と語っている。
1932年10月1日、井荻町が東京市に編入されると共に、井荻町営水道も東京市水道局に引き継がれ、杉並浄水場と改称。23区内唯一の地下水源として周辺の地域に給水していたが、2016(平成28)年12月28日より運用が停止されている。

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杉並浄水場(2022年5月撮影)

杉並浄水場(2022年5月撮影)

②西武鉄道の開通と3駅設置

1926(大正15/昭和元)年、土地区画整理の工事中に、西武鉄道村山線が井荻村の北部を通ることとなった。『杉並風土記 上巻』によると、当時この路線は村山急行と呼ばれ、急行の性質上、駅間の距離は1マイル(約1.6km)以上とする建設内規があったことから、当初井荻駅のみが設置される予定であったという。
秀五郎は、距離の内規から外れるが、町内に3駅の設置を要望したところ、西武鉄道側から乗降客が少なく採算が取れないと断られる。そこで「遊園地などを造って行楽客を誘致すれば、採算がとれるだろう。その敷地を提供するからどうか」と交渉。その案が受け入れられ、2.4kmの区間に上井草、井荻、下井草の3駅が開設された。なお、駅の敷地は三町(約330m)以内の地主から寄付され、関係地主も少なからぬ犠牲を払ったと『翁』などに記されている。
西武鉄道村山線の始発駅は高田馬場だったが、1952(昭和27)年に新宿まで延長され、路線は西武新宿線と改称された。

西武新宿線下井草駅(1953(昭和28)年)。初期の駅舎は西向きだった。電車は2両編成程度で、ホームもそれに合わせて短かった(杉並区立郷土博物館所蔵)

西武新宿線下井草駅(1953(昭和28)年)。初期の駅舎は西向きだった。電車は2両編成程度で、ホームもそれに合わせて短かった(杉並区立郷土博物館所蔵)

井荻ー下井草間を走る西武電車(1953年頃)(杉並区立郷土博物館所蔵)

井荻ー下井草間を走る西武電車(1953年頃)(杉並区立郷土博物館所蔵)

上井草球場
『杉並風土記 上巻』によれば、整理組合は3駅設置の見返りに、上井草の整理組合保有地から18,000坪の土地を、営利を目的としない公共事業にのみ使用することを条件に西武鉄道に提供した。1927(昭和2)年、西武鉄道はここに、トラックやプールなどを有する遊園地(※3)を造成したが、利用客が少なく、野球場を造ることに方針を転換した。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      
1936(昭和11)年8月、敷地面積約13,600坪、収容人数約3万人の上井草球場(当初の正式名称:東京球場)が完成した。だが、翌年に後楽園スタヂアム(のちの後楽園球場、現東京ドーム)が誕生すると、以後、東京での職業野球は後楽園を中心に行われるようになった。
戦後、東京都は西武鉄道から土地を買い取り、1967(昭和42)年に都立上井草総合運動場を建設。その後、杉並区に移管され、現在は上井草スポーツセンターとして利用されている。

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平成15年度特別展「上井草球場の軌跡」展示図録(杉並区立郷土博物館)

平成15年度特別展「上井草球場の軌跡」展示図録(杉並区立郷土博物館)

③中島飛行機東京工場の設立

現在、「区立桃井原っぱ公園」がある桃井3丁目付近には、1925(大正14)年から1945(昭和20)年まで中島飛行機東京工場があり、井荻地域はこの工場建設により更なる発展を見せた。
中島飛行機は、1917(大正6)年、中島知久平(なかじま ちくへい)が群馬県太田町(現太田市)に立ち上げた航空機メーカーである。東京進出を図り、1923(大正12)年秋以降、東京郊外で交通の便が良い青梅街道沿いの中野や成宗付近で土地を探したが、住民の反対に遭い、次に候補となったのが井荻村であった。
当時、村長であった秀五郎は、地主らと群馬県の太田工場を視察したところ、工場による悪影響は見られず、むしろ太田町の大きな財源となっているのがわかった。こうした状況から、村議会は工場誘致に傾きつつあったが、地域住民から公害や騒音などを懸念する声が上がった。そこで秀五郎は、中島に対して「溶鉱炉を使用井戸水を枯渇せしめず、太田工場より大なる煙突を作らず、音響により桃井尋常高等小学校に支障を与えず、毒物を下流に流さず」(『翁』)という四つの条件を提示した。この条件を中島は承認し「村当局に対し一札入れる(※4)ことも承諾した」(『翁』)のであった。大正年代にこういった公害防止に関する協定を結んだことは画期的なことであった。
1925(大正14)年11月に工場は完成し、発動機生産を開始。「開所当時おける徒弟職工の募集にあたっては、井荻在住者を優先入所せしめ、その後拡張に拡張相次ぎ、二千に余る従業員を擁し、その敷地は宿町の大半、二万六千有余坪を算した」(『翁』)という大工場に成長して行った。(※5)このため、雇用が創出され、工場の周辺に貸家や住居、商店が開かれ、市街化が促された。

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中島飛行機東京工場(1936(昭和11)年)。写真の紹介文に「本邦に於ける軍需工場の王者」とある(出典:『躍進の杉並(昭和11年度版)』杉並区立郷土博物館所蔵)

中島飛行機東京工場(1936(昭和11)年)。写真の紹介文に「本邦に於ける軍需工場の王者」とある(出典:『躍進の杉並(昭和11年度版)』杉並区立郷土博物館所蔵)

中島飛行機附属病院(1936)。戦後、規模を拡大して総合病院の荻窪病院となった(出典:『躍進の杉並(昭和11年度版)』杉並区立郷土博物館所蔵)

中島飛行機附属病院(1936)。戦後、規模を拡大して総合病院の荻窪病院となった(出典:『躍進の杉並(昭和11年度版)』杉並区立郷土博物館所蔵)

④教育施設の充実

小学校の増設
区画整理開始前の井荻村の学校は、桃井第一尋常高等小学校(現区立桃井第一小学校)と、その分教場があるのみであった。
関東大震災の影響から移住者がにわかに激増したため、大正末期から昭和初年にかけて、住民から学校増設を望む声が増していった。当時の財政では、収入の約6割を教育費に充てており、住民の教育への関心も高かった。小学校の新設にあたっては、公平に方策を講じないと集落間の抗争になりかねなかった。そこで、秀五郎は将来の地域発展を考慮の上、井荻全図に円形を描いて通学区域を何度も検討し、五校制とする案を立てた。1927(昭和2)年10月、これを町議会に諮ったところ、「実に名案なりと聊かの異論もなく満場一致の賛成を得た」(『米寿』)。
翌1928(昭和3)年には第二、第三、1932(昭和7)年には第四、1934(昭和9)年には桃井第五尋常小学校が新設された。

桃井第一尋常高等小学校(昭和初期)。1925(大正14)年に2階建ての校舎が建てられた(出典:『躍進の杉並(昭和11年度版)』杉並区立郷土博物館所蔵)

桃井第一尋常高等小学校(昭和初期)。1925(大正14)年に2階建ての校舎が建てられた(出典:『躍進の杉並(昭和11年度版)』杉並区立郷土博物館所蔵)

桃井第五尋常小学校(1934年)。1903(明治36)年桃井小下井草分教場として開校。1934(昭和9)年、下井草4丁目の現在地に独立開校した(出典:『桃五小50周年誌』)

桃井第五尋常小学校(1934年)。1903(明治36)年桃井小下井草分教場として開校。1934(昭和9)年、下井草4丁目の現在地に独立開校した(出典:『桃五小50周年誌』)

府立農芸学校移転と昇格拡張
現在、杉並区今川にある東京都立農芸高校は、1900(明治33)年に「中野町外13ケ村組合立農業補習学校」として中野町に創設された。
その後、組織変更により豊多摩郡立農業学校となったが、学校付近の発展に伴い敷地が手狭になり、1925(大正14)年東京府会において、府中農蚕学校と合併し、府中に移る議案が上がった。当時、府会議員であった秀五郎は、在校生の通学などを考慮して、合併論に真っ向から反対した。最終的に秀五郎の郡内移転案が通り、校名を東京府立農芸学校と改め、1929(昭和4)年に現在地への新築移転を完了した。
その後、秀五郎は同校を乙種3年制から甲種5年制に昇格させるため当局と折衝し、1933(昭和8)年3月、甲種実業学校に昇格させた。また、昇格と同時に同校の大拡張のために奔走し、予算20万円をもって3カ年継続事業の施行を府議会で議決し、校地拡張と建築を進め施設の充実を図った。
1943(昭和18)年、都制施行により東京都立農芸学校と改称。1950(昭和25)年、現在の東京都立農芸高等学校に校名を変更した。創立以来、東京の都市農業および関連産業に従事する優れた人材を輩出し、現在も多くの卒業生が活躍している。(後編に続く)

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※1 換地処分:区画整理事業によって、従来その区画に土地を所有していた人に新しく割り当てられる土地を「換地」といい、土地所有者に換地を割り当てることを「換地処分」という
※2 森泰樹は『杉並区史探訪』に、土地の減少率は「実測7%(区史では5%)」と書いているが、髙見澤邦郎氏は著書『井荻町土地区画整理の研究』で「森の7%の根拠あるいは類似の既述を見出すことができなかった」としていることから、本記事における土地の減少率は、『杉並区史』記載の「5%」に準じた
※3 『上井草球場の軌跡』には、遊園地ではなく「上井草競技場」を造ったと記されている
※4 保証・約束・謝罪などの意を示す文書を書いて相手方に差し出すこと
※5 元従業員の証言によれば、「1943(昭和18)年頃の荻窪工場(東京工場を名称変更)の従業員数は5、6,000人に増えていた」という(『中島飛行機 軌跡と痕跡』)

新築された東京府立農芸学校本館正面(1929(昭和4)年)。(写真提供:東京都立農芸高等学校)

新築された東京府立農芸学校本館正面(1929(昭和4)年)。(写真提供:東京都立農芸高等学校)

1938(昭和13)年の校舎全景(写真提供:東京都立農芸高等学校)

1938(昭和13)年の校舎全景(写真提供:東京都立農芸高等学校)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『内田秀五郎翁』須田愼六(内田秀五郎翁還暦祝賀協賛会) 
    『内田秀五郎傳』井口泰吉(内田秀五郎翁喜寿祝賀会) 
    『米寿秀五郎翁』鈴木市太郎(内田秀五郎翁米寿祝賀会) 
    『東京農業の今昔』内田秀五郎(協同組合通信社)
    『井荻町土地区画整理の研究-戦前期郊外の形成事例として-』高見澤邦郎(南風舎)
    『杉並区史』(杉並区)
    『新修 杉並区史』中巻・下巻(杉並区)
    『むかしの杉並 古老座談会 文化財シリーズ1』(杉並区教育委員会)
    『杉並区の指定登録文化財』(杉並区教育委員会)
    『井荻町第一期水道抄誌』井荻町役場(井荻町役場)
    『すぎなみの地域史Ⅲ 井荻』(杉並区立郷土博物館)
    「上井草球場の軌跡」(杉並区立郷土博物館)
    『杉並区史探訪』森泰樹(杉並郷土史会)
    『杉並風土記 上巻』森泰樹(杉並郷土史会)
    「杉並郷土史会会報第57号」(杉並郷土史会)
    『事業誌』(井荻町土地区画整理組合)
    『事業報告書』(井荻町土地区画整理組合)
    『区画整理事業写真帖』(井荻町土地区画整理組合)
    『東京都市計画物語』越沢明(日本経済評論社)
    『杉並・まちの形成史』寺下浩二(寺下浩二)
    『評伝 内田秀五郎』寺下浩二(はこだて町並み資料館)
    『荻窪の記憶 Ⅳ 清水・桃井・今川の歴史』(荻窪地域区民センター協議会)
    『中島飛行機 軌跡と痕跡』(杉並区区民生活部産業振興課)
    『中島飛行機の技術と経営』佐藤達男(日本経済評論社)
    『巨人中島知久平』渡部一英(鳳文書林)
    『躍進の杉並』昭和11年発行(躍進の杉並刊行会)
    『目で見る杉並区の100年』(郷土出版社)
    『百年史』(東京都立農芸高等学校)
    『学校要覧』(東京都立農芸高等学校)
    『桃五小50周年誌』(桃井第五小学校)
    杉並区>内田秀五郎のしごと
    https://www.city.suginami.tokyo.jp/suginamishoukai/90th/5storys/1073409.html
    国立国会図書館デジタルコレクション
    https://dl.ndl.go.jp
    中島飛行機 物語
    https://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/nakajima/naka-cont.html

  • 取材:進藤鴻一郎
  • 撮影:進藤鴻一郎、TFF
    写真提供:杉並区立郷土博物館、東京都立農芸高等学校
  • 掲載日:2022年10月31日