内田秀五郎さん【前編】

都立善福寺公園の上の池のほとりにたたずむ内田秀五郎像。喜寿を記念し、有志により1953(昭和28)年6月に建てられた

都立善福寺公園の上の池のほとりにたたずむ内田秀五郎像。喜寿を記念し、有志により1953(昭和28)年6月に建てられた

杉並発展の基礎を築いた郷土の偉人

杉並区の歴史を語る上で欠かせない先人がいる。「私心なき実行家」といわれ、地域の発展のために、ある時は私財をなげうち、またある時は命を懸けた取り組みにより、今日の区の発展の礎を築いた井荻村の村長(のちに井荻町の町長)・内田秀五郎(うちだ ひでごろう 1876-1975)である。
大正末期から昭和初期にかけて実施した井荻村(のちに井荻町)全域の土地区画整理事業をはじめ、電灯の敷設、金融機関の設立、西荻窪駅や中島飛行機東京工場、西武線3駅の誘致、水道等のインフラ整備、教育の充実、風致協会の設立など、偉業は多岐にわたる。
2022(令和4)年10月に杉並区区制施行90周年を迎える機会に、秀五郎の功績と生涯をたどってみたい。

※本記事は主に『内田秀五郎翁』(以下、『翁』)、『内田秀五郎傳』(以下、『傳』)、『米寿秀五郎翁』(以下、『米寿』)、『東京農業の今昔』(以下、『今昔』)、『井荻町土地区画整理の研究-戦前期郊外の形成事例として-』(以下、『研究』)を参考に、独自取材を加え執筆・編集した
※内田秀五郎の関連資料には、資料ごとに記述が異なる部分がある

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 杉並区区制施行90周年 関連記事リンク集

還暦を迎えた頃の内田秀五郎(出典:『事業誌』)

還暦を迎えた頃の内田秀五郎(出典:『事業誌』)

秀五郎の還暦・喜寿・米寿の時に発行された3冊の伝記など、本記事の参考にした書物

秀五郎の還暦・喜寿・米寿の時に発行された3冊の伝記など、本記事の参考にした書物

生い立ち

秀五郎は1876(明治9)年11月1日、東京府武州多摩郡上井草村の内田藤吉とトリの長男として生まれた。内田家は篤農家(※1)として知られ、村民からの信頼も厚かった。父親は地主兼自作農として三町歩(約3㏊、約9,000坪)ほどを経営し、大麦・小麦・陸稲・藍葉・養蚕・製糸・製茶など、のちには沢庵(たくあん)作りまで手広く営んでいた。
幼い頃はひ弱で母親に心配をかけた秀五郎だが、やがて負けず嫌いで元気な子供に育っていった。1883(明治16)年、桃井学校(※2)に入学。尋常科4年、高等科4年の課程を修了後、家業を手伝った。
1896(明治29)年9月、父親が42歳(数え年)で急逝し、秀五郎は19歳(満年齢、以下同じ)で一家を背負うことになった。その働きぶりは「星を戴いて出で、月を踏んで帰るという、涙ぐましい程の家業のいそしみ方であった」(『翁』)という。

秀五郎の生家(出典:『米寿秀五郎翁』)

秀五郎の生家(出典:『米寿秀五郎翁』)

杉並の旧20カ村

杉並の旧20カ村

日本一若い村長

1905(明治38)年5月、村の長老たちの推挙により28歳で井荻村の収入役に就任する。
その頃の村の財政は非常に貧弱で乱脈を極めており、やがて村長が不祥事で辞職。1907(明治40)年5月、収入役として事務に精励し、模範的な執務ぶりと町村関係法規の勉学などを評価された秀五郎が、30歳6カ月という若さで村長に就任した。当時、村長に就任するには30歳以上という年齢制限があり、秀五郎は「日本一若い村長」といわれた。村長就任を母親に話すと「(日露戦争の)兵隊をのがれたのだから、一期だけはいいだろう(※3)」(『今昔』)と言われたという。だが、結果として1928(昭和3)年に井荻町町長を退任するまで、21年間、村長と町長を続けることになった。晩年、「思いがけない収入役への出馬が、自分の後半の生涯を決めてしまった」(『今昔』)と語っている。
村長就任の際に収入役は退いたが、農会長との兼職であったため忙しさは続いた。それでも家業を人任せにせず、出勤前と退勤後には作業服姿で畑仕事にいそしむ毎日であった。

村長時代の秀五郎。30歳代前半と思われる。(出典:『内田秀五郎翁』)

村長時代の秀五郎。30歳代前半と思われる。(出典:『内田秀五郎翁』)

1889(明治22)年に「市制・町村制」が施行されて杉並地区は4つの村に再編された

1889(明治22)年に「市制・町村制」が施行されて杉並地区は4つの村に再編された

財政の確立と道路整備

収入役の頃から秀五郎が一貫して力を注いだのは村の財政の確立と道路整備である。

財政の確立
あまり大きな村ではないので、村の財政は乏しく、村政も乱れていた。そこで、まず実行したのは節約であった。特別な収入がない農村では、できるだけ支出を制限すること以外に財政を確立する方法はないと判断したからであった。
また、農家の経済的安定のため、1908(明治41)年に「井荻村勤倹貯金組合」を創設した。同年10月に官報により発布された戊申詔書(※4)に「国民は等しく勤倹貯蓄して、家業に励むべき」と述べられており、これを記念して村一同で設立したのである。

区画整理前の井荻村(出典:『内田秀五郎翁』)

区画整理前の井荻村(出典:『内田秀五郎翁』)

1908(明治41)年10月14日付の官報 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

1908(明治41)年10月14日付の官報 (出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

道路整備
道路の改修は、農産物の出荷に必要不可欠であった。
当時、村内には青梅街道、所沢道(現早稲田通り・旧早稲田通りの一部)、戸塚吉祥寺線(現通称女子大通り)の三つの府道が通っていたが、梅雨時や秋の長雨時には泥道になり、荷車の車輪がぬかるみにはまりひどく悩まされていた。また、里道の大部分は荷車など通れない道ばかりであった。そこで、村の土木委員と連携して、地区ごとに道路保持員を選出したり、他村町の道路を視察したりして、道路改修への機運を村内に高めていった。そして、砂利代を村費と地区とで折半し、労務は各地区で担当するという方法をとり、数年がかりで雨の日でもなんとか荷車が通れる道になった。
1919(大正8)年に道路法が発布施行されると、村内の道路の実測を行い、203路線を村道に認定した。「こんなわけで、私は村長になりたては、道路の改修に熱心だったものですから、村の人たちから”道路村長”というあだ名を頂戴しました」(『今昔』)。

大正期の井荻村(出典:『井荻町土地区画整理の研究-戦前期東京郊外の形成事例として-』)

大正期の井荻村(出典:『井荻町土地区画整理の研究-戦前期東京郊外の形成事例として-』)

教育の振興と慈善事業

井荻村教育会
教育にも熱心な秀五郎は、村内の有志と協議し、就学児童への支援・援助、就学の奨励、教育の普及などのため、1911(明治44)年「井荻村教育会」を創立し、会長に就任した。その後、教育会は17年間にわたり、就学児童の学用品の共同購入や貸与、生活の苦しい保護者に対して義務教育費の援助、成績優秀児童への賞品の授与など、教育の普及発展に力を尽くした。後年、秀五郎は「教育は村づくりの土台です」(『今昔』)と語っている。

井荻村慈善会
また、1912(明治45)年3月、村内有志の協力を得て「井荻村慈善会」を創設し、積極的に困窮する村民の救済に乗り出した。「その救済対象は、村民にして疾病に罹り生活困難なる者、不幸なやもめ暮らしの人、孤児および災害に遭遇した人など不幸せの人々を援助するほか、井荻村外の者と雖も村内に立入り、救助の必要があると認めた時は、これが救済に努めたのである」(『米寿』)。村内に物乞いが横行していたことから治安対策という意味合いもあった。

産業組合(※5)の設立(28名の先駆者組合)

国の富国強兵政策と資本主義の台頭で、農家の生活は苦しくなるばかりであった。農家の救済は村政と共に農家相互の扶助にあると考えた秀五郎は「勤倹貯金組合の経験を生かして、まずわたくしどもの大字である旧上井草内の原、寺分、新町の三部落内に第一井荻信用購買販売組合(※6)をつくることにしました。組合員は、たった二十八人という小組合でした。話にきくイギリスのロッチデール先駆者組合の創立者が二十八人の職工さん達です。いみじくも、わたくしの組合の創立者と同数というわけです。この組合は、明治四十三年十二月(一九一〇年)に設立され、大正七年十一月まで、十年間つづき、わたくしは、ずっとその組合長をつとめておりました」(『今昔』)と語っている。
1916(大正5)年1月、出席した東京府の産業組合講習会で、産業組合が産業振興上いかに必要な役割を果たすかを痛感し、試験的に運営してきた第一井荻信用購買販売組合を解散して、村全区域に広めることを決意。1918 (大正7)年11月に「井荻信用購買販売利用組合」を設立、1944(昭和19)年に組合長を退任するまで農家の営農支援と生活の向上に尽力した(※7)。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 歴史>歴史資料集>有限責任 井荻村信用購買販売利用組合定款

1934(昭和9)年5月竣工(しゅんこう)の「井荻信用組合」本店。『杉並風土記 上巻』によると「当時は信用組合が銀行より立派な建物を建てたと評判になった」そうである(出典:『内田秀五郎翁』)

1934(昭和9)年5月竣工(しゅんこう)の「井荻信用組合」本店。『杉並風土記 上巻』によると「当時は信用組合が銀行より立派な建物を建てたと評判になった」そうである(出典:『内田秀五郎翁』)

1951(昭和26)年11月、信用金庫法に基づき組織を変更して「東邦信用金庫」と名称変更した(出典:『内田秀五郎傳』)

1951(昭和26)年11月、信用金庫法に基づき組織を変更して「東邦信用金庫」と名称変更した(出典:『内田秀五郎傳』)

村のインフラ整備

電灯敷設
1921(大正10)年ごろの井荻村は、戸数672戸、人口4,443人で、城西の一農村にしか過ぎなかった。荻窪駅前付近も当時はまだ市街地化しておらず、肥料商が点在するのみで、数人が電灯を引きたいと希望してもかなわない状態であった。秀五郎は村の将来の発展を考えて、全村規模での電灯敷設に取りかかった。数十回にわたる「東京電燈株式会社」との交渉を経て、近隣の村に先駆けて1年ほどで全村の敷設を完了。「1921 (大正10)年11月15日に電燈がついたわけですが、パッと電気がついた時の騒ぎは大変なもので、消灯するのに、口でプーッと吹いても消えないので、またひと騒ぎしたものです」(『今昔』)。

荻窪郵便局・荻窪電話局の開局
同時期、井荻村は中野郵便局の集配区域に属しており、一部を除いて集配は1日1回、電信(電報)は翌日配達と不便だった。住民と郵便局の必要性を訴えていた村の高尾安郎氏が秀五郎に働きかけて、1922(大正11)年8月26日に荻窪駅元大踏切の北側(現杉並区上荻1丁目)に新築の「荻窪郵便局」が開局された(※8)。
その後、村民から電話敷設を望む声が上がってきたため、秀五郎は有志らと協議し逓信省(※9)へ要請したところ、回線費用として1万円の寄付を求められた。そこで、加入希望者1人100円の寄付承諾を条件に募集を開始すると、申込者がたちどころに100人以上集まった。この結果に意を強くし、1922(大正11)年荻窪郵便局内に電話設置を申請。翌1923(大正12)年5月逓信省に認可承認されると、同月秀五郎は自らを組合長とする「荻窪特設電話加入者組合」を設立し、翌6月同省へ1万円の納付を完了した。
荻窪郵便局の2階に交換台を設置して、1924(大正13)年3月26日に電話が開通。「(かつては)電灯もなかった村に、チリンチリンと電話のベルがなりわたるようになりました」(『今昔』)(※10)。

1932(昭和7)年竣工の荻窪電話局。建築家・山田守による建物で、現存(出典:荻窪電話局開局記念絵葉書、杉並区立郷土博物館所蔵)

1932(昭和7)年竣工の荻窪電話局。建築家・山田守による建物で、現存(出典:荻窪電話局開局記念絵葉書、杉並区立郷土博物館所蔵)

現在のNTT東日本荻窪ビル

現在のNTT東日本荻窪ビル

西荻窪駅の開設と耕地整理事業

西荻窪駅の開設
新宿と八王子を結ぶ甲武鉄道(後のJR中央線)には、開業2年半後の1891(明治24)年12月に荻窪駅が開業されたものの、荻窪から先は吉祥寺まで駅がなく、中間地区の地元民からは新駅を望む声が強まっていた。
鉄道省が荻窪~吉祥寺間の新駅設置計画を立てていると伝え聞いた井荻村では、秀五郎を先頭に、新駅誘致の一大運動を展開することとなった。駅用地の寄付は最も苦心する問題だったが、「内田村長を始めとした二、三土地有力者の大口篤志寄付に併せ付近関係者の寄付により、苦心数か月の結晶は遂に予定資金調達に成功し、ここにおいて早速敷地四百二十九坪の寄付を上申し」(『米寿』)、1922(大正11)年7月、西荻窪駅が開業した(同時に高円寺駅、阿佐ケ谷駅も開業)。
西荻窪駅の開業をきっかけに村はその姿を大きく変えていった。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 歴史>記録に残したい歴史>杉並中央線誕生物語2:中野~西荻窪

40代の秀五郎(出典:『米寿秀五郎翁』)

40代の秀五郎(出典:『米寿秀五郎翁』)

1922(大正11)年に開設された西荻窪駅。写真は南口ができた1938(昭和13)年以降と思われる(杉並区立郷土博物館所蔵)

1922(大正11)年に開設された西荻窪駅。写真は南口ができた1938(昭和13)年以降と思われる(杉並区立郷土博物館所蔵)

井荻村第一耕地整理事業
開業した西荻窪駅は、畑の真ん中に孤立し、駅に通じる道路は満足なものはなく、不便を極めていた。秀五郎が道路の開削を計画していたところ、井草八幡神社付近の有志から駅に通じる道路を作る話が出て、その実行方法について秀五郎に意見を求めた者があり、これを契機に井荻村第一耕地整理組合創立の機運が高まった。
秀五郎は関係地主と協議を重ねたが「耕地整理をすると、道路用地として耕地が減少する。耕地の減少は収入の減少であり、その上工事費の負担金まで出すのでは、生活上の脅威だ」(『杉並区史探訪』)と反対する意見が多く、なかなかまとまらなかった。そのため「道路が良くなれば農作業が楽になる。土地の利用効率が高くなるから減少分はカバーできる。負担金は心配するな」(同書)と夜通し議論することも度々あったという。しかし、秀五郎の誠意ある説得の結果、1922(大正11)年10月(※11)、字上井草の一部地域を対象とする「井荻村第一耕地整理組合」が設立された。
その後4年間で、秀五郎は組合長として、西荻窪の北西方向に敷地面積12万2千坪(約40.3㏊)の宅地造成を実施し、道路網も整備した。
そして、この耕地整理事業の先行実施を踏まえて、全国でも屈指の大規模な「井荻町土地区画整理事業」が実施されたのである。(中編に続く)

※1 篤農家:農業に携り、その研究・奨励に熱心な人
※2 桃井学校:『今昔』を引用。『杉並区教育史 上巻』によると1882(明治15)年に「桃井小学」に改称。現在の区立桃井第一小学校
※3 当時の徴兵制度には、官吏や戸主・嫡子といった各種の免役条件があったが、時代が下るに従って、そうした特権は廃止されていった
※4 戊申詔書(ぼしんしょうしょ):国民に勤倹節約と国体尊重を徹底する目的で1908(明治41)年(戊申の年)10月13日発布された詔書。教育勅語とともに明治期発布された国民教化の二大詔勅
※5 産業組合:1900(明治33)年の産業組合法によって設立された日本の協同組合。現在の農業協同組合、信用金庫、信用協同組合、生活協同組合の母体となった
※6 『今昔』には「第一井荻信用購買販売組合」と記されているが、『翁』『傳』『米寿』ではその記述がなく、設立を1909(明治42)年12月とする「井荻信用購買組合」が記されている。設立年は1年違うものの、設立時の組合員数、在任期間(1918(大正7)年11月まで、10年間)を勘案すると同一組織と判断されるため、ここは秀五郎が著書の『今昔』の記述に従った
※7 1934(昭和9)年に組織及び名称を「井荻信用組合」と改めた後、1951(昭和26)年11月に「東邦信用金庫」と改称。現在は「西武信用金庫」となっている
※8 その後、1927(昭和2年)に、荻窪駅南側の現在の荻窪4丁目に新築移転。1936(昭和11)年12月、荻窪駅前郵便局に改称
※9 逓信省(ていしんしょう):かつて日本に存在していた郵便や通信行政を管掌した中央官庁。1949(昭和24)年、郵政省と電気通信省に分離した
※10 その後、加入者の増加により、1932(昭和7)年に「荻窪電話局」が荻窪3丁目(現荻窪4丁目)に新築開設された
※11 『井荻町土地区画整理の研究-戦前期郊外の形成事例として-』によると、東京市資料「都市計画道路と土地区画整理事業」には設立認可は1923(大正12)年となっているため、1922(大正11)年は発起人会の設立と思われる、とある

PDF:「井荻第一耕地整理事業の諸元」と「井荻村第一耕地整理地区国有地図面」(出典:『井荻町土地区画整理の研究-戦前期東京郊外の形成事例として-』)(206.4 KB )

区画整理中の上荻窪。1924(大正13)年撮影とあることから、井荻村第一耕地整理と思われる(杉並区立郷土博物館所蔵)

区画整理中の上荻窪。1924(大正13)年撮影とあることから、井荻村第一耕地整理と思われる(杉並区立郷土博物館所蔵)

区立井荻小学校近くの善福寺川に架かる「耕整橋」。井荻村第一耕地整理事業の架橋といわれている

区立井荻小学校近くの善福寺川に架かる「耕整橋」。井荻村第一耕地整理事業の架橋といわれている

DATA

  • 出典・参考文献:

    『内田秀五郎翁』須田愼六(内田秀五郎翁還暦祝賀協賛会) 
    『内田秀五郎傳』井口泰吉(内田秀五郎翁喜寿祝賀会) 
    『米寿秀五郎翁』鈴木市太郎(内田秀五郎翁米寿祝賀会) 
    『東京農業の今昔』内田秀五郎(協同組合通信社)
    『井荻町土地区画整理の研究-戦前期東京郊外の形成事例として-』高見澤邦郎(南風舎)
    『杉並区史』(杉並区)
    『新修 杉並区史』中巻・下巻(杉並区)
    『杉並・まちの形成史』寺下浩二(寺下浩二)
    『杉並区史探訪』森泰樹(杉並郷土史会)
    『杉並風土記』森泰樹(杉並郷土史会)
    『杉並郷土史会会報第295号』(杉並郷土史会)
    『目で見る杉並区の100年』郷土出版社
    『事業誌』井荻町土地区画整理組合(井荻町土地区画整理組合)
    『杉並区教育史 上巻』(東京都杉並区教育委員会)
    『評伝 内田秀五郎』寺下浩二(はこだて町並み資料館)
    『新興の郊外 井荻町誌』玉井廣平(社会基調協会)
    「官報 第七千五百九十二号」(明治41年10月14日)
    「官報 第二千九百七十七号」(昭和11年12月3日)
    国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/

  • 取材:進藤鴻一郎
  • 撮影:進藤鴻一郎
  • 掲載日:2022年09月28日
  • 情報更新日:2022年10月04日