6 中島飛行機と亜細亜航空機関学校

亜細亜航空機関学校と飯沼金太郎

亜細亜航空機関学校は、1933(昭和8)年4月、亜細亜航空機材研究所(※1)を母体として同研究所内に設立された。同校は国内初の独立した民間の航空機関士養成学校であった。
1935(昭和10)年、板橋区石神井関町1丁目33番地(現在の練馬区関町南1丁目1番地)に移転し新校舎を建設。その規模・設備は国内でもトップクラスであった。なかでも発動機実習工場は、航空専門誌によると東洋一といわれた。
この亜細亜航空機関学校を設立したのは、中島飛行機東京工場からの多大な経済支援を基盤に、民間航空界人材育成を志した飯沼金太郎である。

※1 亜細亜航空機材研究所の当初の名称は「航空機研究所」だが、ここでは「航空機材研究所」とする。所在地は豊多摩郡井荻町上井草1595(現在の杉並区上荻4丁目)

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 杉並の人々>知られざる偉人>飯沼金太郎>2.航空学校・航空機関学校の設立

亜細亜航空機関学校。亜細亜航空機材研究所内に設立(写真出典:杉並区所蔵)

亜細亜航空機関学校。亜細亜航空機材研究所内に設立(写真出典:杉並区所蔵)

飯沼金太郎と中島知久平の親交

亜細亜航空機関学校設立者の飯沼金太郎は、千葉県佐倉市出身で日本の航空黎明期の操縦士だった。1920(大正9)年に開催された飛行競技会に参加するが、天候悪化による墜落事故により重傷を負い、操縦士を断念し航空界から退く。その時期に、かねてより親交があり、飯沼の人柄を愛していた中島知久平が、彼の生活の面倒を良くみたのである。いわば師弟関係にあったといえよう。
その後、飯沼は操縦士仲間の墜落事故死を契機として、中島知久平に航空界復帰を相談する。知久平はそれを喜ぶと共に杉並に来るように誘い、多大な支援を行なった。飯沼は当初、杉並町馬橋2番地(現在の杉並区梅里)に飯沼金太郎商店を開業。1932(昭和7)年には中島飛行機東京工場前に、航空界復帰の方策として亜細亜航空機材研究所を設立した。同研究所は、中島知久平の計らいで中島飛行機東京工場から出る大量の金属の切削屑(※2)を無償で一手に引き受け、これを他に転売し多大な利益を得る。その利益を元に、飯沼は民間航空学校の設立に備えたのである。そこには、操縦士の養成学校だけでなく、国内初となる独立した民間航空機関学校を設立する計画があった。

※2 切削屑(せっさくくず):金属を切り削ることにより出る屑

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飯沼金太郎(写真提供:大谷妙子さん)

飯沼金太郎(写真提供:大谷妙子さん)

亜細亜航空機材研究所と飯沼(写真提供:大谷妙子さん)

亜細亜航空機材研究所と飯沼(写真提供:大谷妙子さん)

航空機関整備の人材育成を図る

当時、国内では、逓信省が委託して機関学生を養成する官立の学校(※3)以外に、独立した民間の航空機関学校はなかった。大方の民間飛行学校の中には機関科を設けているところもあったが、その規模は小さかった。
飯沼金太郎が国内初の独立した機関学校の設立に至った理由は定かではないが、次のようなことが考えられる。かつて飯沼は、帝国飛行協会(※4)の操縦練習生の時に、飛行練習ばかりでなく機体製作、発動機の分解組立作業にも従事している。一方の中島知久平は海軍機関学校出身で、機体・発動機製作の技術者であり、かつ操縦士ライセンスを取得していた。2人は、航空機の安全運航にとって操縦経験と航空機関の双方に熟知することが重要であるという認識を持っていた。そのためには航空学校だけでなく、航空機関整備の高度な技術と知識を持った人材を養成する独立した機関学校の設立が必要である。中島知久平は、同じ航空人として飯沼金太郎の良き理解者であり、自らも機関整備の重要性を認識していたことから、多額の資金が必要な機関学校設立を支援したものと考えられる。

国内初の独立した航空機関学校が誕生
1933(昭和8)年4月、亜細亜航空機関学校を亜細亜航空学校と同時に設立。ここにおいて、国内初となる独立した民間航空機関学校が杉並区に誕生することになった。
機関学校は亜細亜航空機材研究所内にある100坪ほどの工場で実習などを実施。後にこの工場を160坪に増設して機体工場とし、また別に85坪の発動機工場を新築している。しかし、同研究所との共用も手狭になったため、新たに校舎を建設することになった。なお、同研究所内には、両校など(※5)の事務所と相互間の緊密化、円滑を図るため総本部が置かれていた。

※3 1924(大正13)年逓信省は、航空機関士養成に関する諸規則を制定。逓信省委託航空機関生の養成所として、東京府立工芸学校(現在の都立工芸高校)に委託。当時、もっとも充実した航空機関士養成組織であった

※4 帝国飛行協会:1913(大正2)年4月発足。社団法人で気球、飛行船、飛行機等の航空事業及び自動車等の普及・発達を図ることを目的とした民間機関。現在の日本航空協会の前身

※5 「など」とは、設立目前に実現できなかった亜細亜水上航空学校、亜細亜滑空学校を指す

青梅街道側から見た建設中の校舎。右側が工場(写真提供:大谷妙子さん)

青梅街道側から見た建設中の校舎。右側が工場(写真提供:大谷妙子さん)

亜細亜航空機関学校全景(写真上部)。中央の道路は青梅街道。写真右側が荻窪方面。中央下の二階建てが新町事務所(写真提供:大谷妙子さん)

亜細亜航空機関学校全景(写真上部)。中央の道路は青梅街道。写真右側が荻窪方面。中央下の二階建てが新町事務所(写真提供:大谷妙子さん)

東洋一の発動機実習工場を建設

1935(昭和10)年12月、亜細亜航空機関学校は、青梅街道沿いの板橋区石神井関町に新校舎を建設。学校広告によると事務所を杉並区新町(※6)に設置している。翌年の2月には高等機関専門学校に昇格し、名実ともに国内トップクラスの機関学校となった。
校長は飯沼金太郎。教官5名、講師6名(※7)。在校生徒数は、開校5年目の1938(昭和13)年度の生徒募集広告によると亜細亜航空学校を含め採用人員200人とある。この人員から当年前後の採用人員を合わせると、相当数の生徒が在校していたと考えられる。敷地面積は約1千坪以上といわれているが、詳細は定かではない。校舎は木造2階建で、1階には飛行機学教室、発動機学教室と学生控室があり、2階は職員室、研究室と講堂があった。校舎の延べ坪数は約百坪。発動機実習工場は鋸刃形(のこぎりばがた)屋根の鉄筋、鉄骨コンクリート建築で、建坪240坪である。
工場内には、各種の発動機150台が併列されていた。また、陸軍92式偵察機1機が置かれ、翼の内部その他の構造がわかるようになっていた。その他に板金焼入工場1棟、作業場兼倉庫2棟、食堂兼休憩室1棟が建設された。このような大規模な近代的工場が、青梅街道沿に中島飛行機東京工場に続いて出現したのである。

亜細亜航空機関学校の廃止
1939(昭和14)年後半から国は戦局に備え、全国の民間航空学校に対し、学校の廃止と施設の明け渡しを求め始めた。亜細亜航空機関学校も他の民間航空学校と同様、学校の閉鎖を余儀なくされ、同年10月廃止。亜細亜航空機関学校は、国策によりわずか数年をもって閉校となった。その後は、機関学校の設備を利用し、亜細亜航空機器製作所(※8)となり、中島飛行機製作所の下請け工場として発動機部品の製作を行うことになった。同製作所は所長が飯沼金太郎、職員は亜細亜航空学校・機関学校の教職員、工作従業員150名の構成により新たな道を歩む。

※6 現在の杉並区善福寺4丁目、練馬区関町南2丁目との区界あたり

※7 『昭和11年度版航空年鑑』による

※8 同製作所内に亜細亜航空機青年学校が設置された

亜細亜航空機関学校校舎前に並ぶ生徒(写真提供:大谷妙子さん)

亜細亜航空機関学校校舎前に並ぶ生徒(写真提供:大谷妙子さん)

発動機実習工場内部(写真提供:大谷妙子さん)

発動機実習工場内部(写真提供:大谷妙子さん)

中島飛行機東京工場が果たした役割

航空専門誌によると発動機実習工場の建設費は4万円余りを要したとある。当時の一流企業の大卒初任給が60円程度といわれており、そこから建設費を現在の金額に換算すると億単位となる。これ以外に亜細亜航空学校の諸施設、設備などを合わせれば、莫大(ばくだい)な建設費が必要であった。このような事業を成し得たのも、同研究所に対する中島飛行機東京工場の多大な経済支援にある。いわば、中島知久平と飯沼の深い親交を基盤に中島飛行機東京工場から民間航空界人材育成のための養成学校へ賛助的な資金であったともいえよう。
亜細亜の両学校は700から800名ともいわれる卒業生を輩出し、民間航空界人材育成に貢献したが、中島飛行機も間接的に大きな役割を果たしたといえる。おそらく、亜細亜航空機関学校と中島飛行機東京工場とは相互交流もあり、同工場への就職者もいたと思われるが詳細は定かでない。

※本文中、敬称略

DATA

  • 出典・参考文献:

    「空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校」小暮達夫(AIRFORUM『航空と文化』)
    「ひとすじのヒコーキ雲 ―飯沼金太郎の生涯-」小暮達夫(『さくらおぐるま』佐倉市教育委員会発行)
    『日本民間航空史話』財団法人日本航空協会
    『飛行家をめざした女性たち』平木國夫(新人物往来社)
    『巨人中島知久平』渡部一英(鳳文書林)
    『日本航空史・明治大正編』財団法人日本航空協会
    『佐倉市史 巻4』佐倉市・佐倉市史編さん委員会
    『航空時代 第7巻4号』航空時代社
    『練馬区史』編集兼発行者 東京都練馬区
    『中島飛行機物語』前川正男(光人社)
    『日本飛行機物語・首都圏編』平木國夫(冬樹社)
    『富士重工業30年史』30年社史編纂委員会・社史編簿室
    『中島飛行機エンジン史』中川良一・水谷惣太郎共著(酣燈社)
    『生きている航空日本史外伝(上巻)日本のルネッサンス』中村光男(酣燈社)
    『生きている航空日本史外伝(下巻)日本の航空ミレニアム』中村光男(酣燈社)
    『戦前という時代』山本夏彦(文藝春秋)
    『航空博物館とは何か?』水嶋英治(星林社)

  • 取材:佐野昭義
  • 撮影:写真提供:大谷妙子さん
  • 掲載日:2015年11月30日