飯沼金太郎さん 2.航空学校・航空機関学校の設立

飛行機仲間の墜落事故死で航空界復帰を決意

1927(昭和2)年、米国のリンドバーグが大西洋横断単独無着陸飛行に成功すると、日本でも太平洋横断飛行の機運が高まり計画された。その飛行機には後藤勇吉が搭乗することになり、飯沼は支援などのため一足先に渡米を予定した。しかし、後藤がその後の長距離飛行の練習中に佐賀県で墜落事故死したため、飯沼の渡米も中止となった。
すでに、仲の良かった山懸豊太郎や1期先輩で尾島飛行場出張中に世話になった佐藤要蔵も墜落事故死している。飯沼は相次ぐ仲間の墜落事故死に心を痛め、「志半ばで倒れた彼らの遺志を継がなければならない。それは、後進のパイロットを育てることではないか」との思いを強くした。そこで彼らの志を継ぐため、画筆を置き、民間航空の操縦士を養成する学校の設立を目標に航空界復帰を決意する。

亜細亜航空機材研究所1階事務所と飯沼

亜細亜航空機材研究所1階事務所と飯沼

山縣飛行士の慰霊碑(写真提供:小暮達夫さん)

山縣飛行士の慰霊碑(写真提供:小暮達夫さん)

飯沼商店開店と中島飛行機東京工場の完成

民間航空学校・機関学校の設立には、施設や設備などにかかる莫大(ばくだい)な費用の捻出や、航空行政との絡みもあり、相応の政治力を要する。飯沼は、航空界復帰の目的と必要な資金の捻出などについて中島知久平に相談した。知久平は、かねてから親交のある飯沼の航空界復帰を喜び、多大な支援を行うのである。
それに先立ち、中島飛行機製作所は1925(大正14)年11月、豊多摩郡井荻町上井草(現在の杉並区桃井3丁目)に東京工場を完成。東京工場長に中島喜代一、支配人に佐久間一郎らが就任していた。どちらも飯沼とは旧知の間柄だ。その縁や中島飛行機東京工場との利便性を考え、飯沼は1929(昭和4)年、東京工場にほど近い杉並町馬橋2番地(現在の杉並区梅里)に屑鉄業・飯沼金太郎商店を開店した。業務は、中古や解体した飛行機及び自動車の売買、付属部品の修理と販売である。

飯沼金太郎商店の広告(帝国飛行協会発行『飛行』より)

飯沼金太郎商店の広告(帝国飛行協会発行『飛行』より)

中島知久平は、東京工場から大量に出る金属の切削屑(※1)を飯沼金太郎商店に引き受けさせ、無償で譲渡した。これを飯沼は加工業者に転売し、多大な利益を得ている。さらに世の中の情勢が飯沼金太郎商店を後押した。1931(昭和6)年9月に満州事変が勃発。金屑(※2)が高騰して、商店を一層潤したのであった。

亜細亜航空機材研究所設立と中島飛行機東京工場の発展

飯沼は商店で得た利益を元に、1932(昭和7)年1月頃、中島知久平の誘いもあって中島飛行機東京工場前(青梅街道を挟んだ向かい)に亜細亜航空機材研究所を設立する。この事業は、次に計画している航空学校などの設立を念頭に置いたものであった。内容は機体の製作・修理組み立て、発動機の分解手入れ及び機材の売買・廃品部品の解体で、作業従業員60余名という大きな工場であった。

亜細亜航空機材研究所(出典:「航空時代」第7巻4号)

亜細亜航空機材研究所(出典:「航空時代」第7巻4号)

一方の中島飛行機製作所は、1931(昭和6)年12月、合資会社から株式会社に改組し、事業体制の強化を図った。新たな中島飛行機株式会社の社長には中島喜代一、常務取締役に中島乙未平、取締役に中島門吉、監査役に佐久間一郎、栗原甚吾などが就任した。いずれも飯沼と旧知の顔ぶれである。当時の東京工場は、国産発動機第一号を完成するなど大企業に発展する兆しを見せ始めていた。亜細亜航空機材研究所の設立は、東京工場の発展途上期にあたり、引き受ける金属切削屑が増したことなどから双方の関係は一層深まったといえる。両社の関係は、後に東京工場の技師、前川正男が著書『中島飛行機物語』で「亜細亜飛行学校(原文ママ)というのがあって、そこのトラックが毎日中島の工場(東京工場のこと)の不良品やキリコ(切削屑)を満載して出ていくのを見た。」と、頻繁に搬送が行われていた様子を記述しているところからもうかがえる。

亜細亜航空機材研究所のあった場所(東京交通社発行「大日本職業別明細図 昭和8年当時」より)

亜細亜航空機材研究所のあった場所(東京交通社発行「大日本職業別明細図 昭和8年当時」より)

亜細亜航空機材研究所の全景と飯沼

亜細亜航空機材研究所の全景と飯沼

民間航空学校・機関学校設立の準備

この時期に、飯沼は民間航空学校・機関学校の設立の準備をしていた。そのことを知る中島知久平(※3)や中島喜代一、佐久間一郎らが面倒を良くみてくれたので飯沼の顔も広くなった。また飯沼自身、そうした人脈を十二分に活かす才覚と行動力を持っていたため、東京工場以外にも航空局、陸海軍、各飛行機工場などから処分器材を引き受けることができた。飛行機についても、陸海軍と交渉して旧式機を払い下げてもらうなど、航空学校などの設立前に10数機揃えるという手回しの良さであった。こうして得た機材を整備、貯蔵して、飯沼は次の計画に備えたのである。

亜細亜航空機材研究所の工場での発動機整備実習風景

亜細亜航空機材研究所の工場での発動機整備実習風景

亜細亜航空学校・亜細亜航空機関学校の設立

飯沼金太郎商店の開店から約3年半、飯沼は中島知久平や中島飛行機東京工場などの多大な支援で培った資力をもとに、念願の計画を実行した。
1933(昭和8)年4月21日、亜細亜航空機材研究所を母体として、亜細亜航空学校、亜細亜航空機関学校を設立。「亜細亜」の名称は、飯沼が中島知久平のアジア主義に共鳴して名付けたもので、日本以外のアジアからも広く生徒を受け入れて亜細亜一の学校にするという意志を表している。両校の事務所は同研究所に置かれ、機関学校も同一敷地内に設置された。こうして、杉並区に国内有数の民間航空学校の拠点施設が誕生したのである。
後に、地元建設業者の山崎組などが、中島飛行機東京工場と亜細亜航空機材研究所及び両校の指定請負業者であることを、誇らしげに広告掲載している。そのことからも、研究所と両校は、中島飛行機東京工場とその規模・信用度において同列に扱われていたことがうかがえる。

PDF:亜細亜航空学校・機関学校の開校(765.4 KB )

山崎組の建築請負広告(『航空時代』より」)

山崎組の建築請負広告(『航空時代』より」)

1934(昭和9)年11月、東北地方の凶作が社会問題となる。亜細亜航空学校がサインネットを飛行機に取り付け東京市外を飛行し、東北地方の救済を呼びかけた

1934(昭和9)年11月、東北地方の凶作が社会問題となる。亜細亜航空学校がサインネットを飛行機に取り付け東京市外を飛行し、東北地方の救済を呼びかけた

亜細亜航空学校開校式の新聞報道と航空ページェントの開催

1933(昭和8)年5月22日の亜細亜航空学校開校式には、来賓として井上幾太郎陸軍大将、衆議院議員の中島知久平などそうそうたるメンバ―が出席した。来賓からは、規模や設備、整然と並んだ10機の飛行機などに、驚きと賞賛の声が上がった。翌23日の朝日新聞の見出しには「亜細亜航空学校生る -校長に返りさく飯沼君-」とあり、飯沼と式典風景の写真入りで記事が掲載された。記事は、学校長として再起を果たした飯沼の人柄とその開校について好意的に書かれている。

実習中の教官と航空学生

実習中の教官と航空学生

行事などに着用したものと思われる法被(はっぴ)

行事などに着用したものと思われる法被(はっぴ)

6月4日には、亜細亜航空学校の施設がある洲崎飛行場で、航空知識普及協会主催、航空局・帝国飛行協会などの後援により航空ページェントを開催。同校の飛行機の曲技に観衆5万余りは大いに沸いた。同ページェントには、井上幾太郎陸軍大将などが出席している。
飯沼にとって、開校式とこの航空ページェントは航空界復帰にふさわしく華々しい幕開けとなったが、その心中はいかばかりのものであったろうか。

※記事内、敬称略
※1 切削屑(せっさくくず):金属を切り削ることにより出る屑
※2 金屑:金属製品を作る時に出る屑
※3 当時は衆議院議員。既に中島飛行機製作所の社長を退いていたが、社員から「大社長」と敬意を持って呼ばれるなど大きな影響力をもっていた

洲崎飛行場における亜細亜航空学校の格納庫と練習機

洲崎飛行場における亜細亜航空学校の格納庫と練習機

亜細亜航空学校格納庫と飛行場(現江東区豊洲)

亜細亜航空学校格納庫と飛行場(現江東区豊洲)

DATA

  • 出典・参考文献:

    「空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校」小暮達夫(AIRFORUM『航空と文化』)
    「ひとすじのヒコーキ雲 ―飯沼金太郎の生涯-」小暮達夫(『さくらおぐるま』佐倉市教育委員会発行)                   
    『日本民間航空史話』財団法人日本航空協会
    『飛行家をめざした女性たち』平木國夫(新人物往来社)
    『巨人中島知久平』渡部一英(鳳文書林)
    『日本航空史・明治大正編』財団法人日本航空協会
    『佐倉市史 巻4』佐倉市・佐倉市史編さん委員会
    『航空時代 第7巻4号』航空時代社
    『練馬区史』編集兼発行者東京都練馬区
    『中島飛行機物語』前川正男(光人社)
    『日本飛行機物語・首都圏編』平木國夫(冬樹社)
    『富士重工業30年史』30年社史編纂委員会・社史編簿室
    『中島飛行機エンジン史』中川良一・水谷惣太郎共著(酣燈社)
    『生きている航空日本史外伝(上巻)日本のルネッサンス』中村光男(酣燈社)
    『生きている航空日本史外伝(下巻)日本の航空ミレニアム』中村光男(酣燈社)
    『戦前という時代』山本夏彦(文藝春秋)
    『航空博物館とは何か?』水嶋英治(星林社)

  • 取材:佐野昭義
  • 撮影:写真提供:大谷妙子さん、小暮達夫さん
  • 掲載日:2015年11月30日
  • 情報更新日:2023年04月01日