飯沼金太郎さん 1.大空に翔(かけ)た夢

航空界の人材育成に邁進(まいしん)した飯沼金太郎

飯沼金太郎といっても、特段の航空ファンを除けば、その名を知っている人は少ないだろう。
飯沼金太郎(以下、飯沼)は千葉県佐倉市出身、日本の航空黎明(れいめい)期の操縦士だった。しかし、1920(大正9)年に参加した飛行競技会にて天候悪化のため墜落、重傷を負い航空界から退くことになる。

飯沼金太郎

飯沼金太郎

その後、期するところがあり、航空界に復帰。中島知久平(※1)の支援をうけ、1932(昭和7)年1月頃、中島飛行機東京工場正門前の豊多摩郡井荻町上井草1595(現在の杉並区上荻4丁目)に、亜細亜航空機材研究所(※2)を設立。この研究所を母体に、翌1933(昭和8)年4月、亜細亜航空学校と亜細亜航空機関学校を設立した。同研究所と両校は、三位(操縦、整備、機材)一体をなしていることと、飛行場の規模・設備・所有機数などの点から、日本の3大民間航空学校(※3)の1つに挙げられている。
飯沼金太郎とは、杉並区に活動の拠点を置いて、国内有数の民間航空学校・機関学校を設立し、校長として日本民間航空界の人材育成に貢献した人物なのだ。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 歴史>【証言集】中島飛行機 軌跡と痕跡

亜細亜航空機関学校校舎

亜細亜航空機関学校校舎

憧れの飛行機操縦士に

飯沼は1897(明治30)年、千葉県印旛郡佐倉町(いんばぐん、現佐倉市)に生まれる。父は佐倉連隊所属の陸軍軍人、母方の実家は清酒「甲子正宗(きのえねまさむね)」で有名な飯沼本家(印旛郡酒々井町)である。佐倉中学校(現、県立佐倉高校)時代から非常に飛行機が好きで、模型飛行機を飛ばすのも学校で一番うまかった。そして友達と模型飛行機の研究をしているうちに、やはり自分で飛びたいとの思いが強くなり、卒業時には操縦士になることを決心する。両親に相談したところ、父は当初、当時の飛行機が危険な乗り物と考えられていたことなどから反対したが、母の説得の後押しもあり了承した。

佐倉中学校時代の飯沼

佐倉中学校時代の飯沼

1915(大正4)年に佐倉中学校を卒業すると、父のつてもあって、臨時軍用気球研究会(※4)所属の澤田秀陸軍中尉の書生となる。そして1917(大正6)年、飯沼20歳の時、念願の帝国飛行協会(※5)第3期飛行機操縦練習生に採用され、翌年5月、晴れて飛行機操縦修業証書を授与。同年11月には、同協会研究生を命ぜられ、以後飛行機の製作や操縦技術の研鑽(けんさん)に取り組むこととなった。

飯沼と中島式3型複葉機

飯沼と中島式3型複葉機

尾島飛行場に出張。中島知久平の知遇を得る

飯沼は、帝国飛行協会に所属していた1919(大正8)年9月から翌年4月までの8ヶ月間、群馬県にある中島飛行機製作所(※6)が開設した尾島飛行場(現太田市)に出張を命ぜられた。その主な任務は、尾島飛行場に帝国飛行協会専用の格納庫を建設するための工事監督であった。任務のかたわら、尾島飛行場で佐藤要蔵飛行士の指導のもと中島式飛行機の操縦を教わり、また中島飛行機付属の飛行学校(※7)の助教官として操縦教育の手伝いをしている。

飯沼は、この尾島飛行場の出張期間中に、社長の中島知久平の知遇を得たが、後に知久平を「オヤジ」と呼ぶほど親交を深め、知久平の人物と信条に感服、共鳴する。また、同製作所には、中島知久平の弟の門吉(後の監査役)と技術者の佐久間一郎(後の取締役・東京工場支配人)、栗原甚吾(後の取締役)が設立時からいた。その後相次いで、知久平の弟の喜代一(後の社長)、乙未平(きみへい・後の副社長)が入所してきた。知久平はもとより、いずれ中島飛行機の要職を占める人物達と親交を深めたことは、飯沼にとって何ごとにも代え難い財産となった。後に、航空界に再起するために要する莫大な資金捻出や機器調達などの人脈づくりにおいて、大きな力になったことは言うまでもない。

東京・大阪間無着陸周回飛行競技への参加と事故

1919(大正8)年12月、帝国飛行協会が中島飛行機に製作を依頼した「在米同胞号」(※8)が、翌年2月に完成。3月に同協会に引き渡された。飯沼は同協会として同機の受領と、試験・練習飛行を行なっている。
帝国飛行協会は、東京・大阪間無着陸周回飛行競技を1920(大正9)年4月21日に実施することを決定した。飛行競技には6名が参加予定であったが、機材の都合や事故などがあり、飯沼と山縣豊太郎(やまがたとよたろう)の2人だけの競技となった。

工場内の「在米同胞号」

工場内の「在米同胞号」

飛行競技当日、中島式7型「在米同胞号」に搭乗した飯沼金太郎、伊藤式「恵美号14型長距離機」搭乗の山縣豊太郎は、洲崎(※9)埋立地を離陸する。だが、飯沼の「在米同胞号」は洲崎を離陸して30分後、天候悪化のため神奈川県丹沢山系大山の西方の山林に墜落し、機体は大破。奇跡的に命は助かったが、左右両大腿骨(だいたいこつ)上部骨折などの重傷で病院に入院する。約10ケ月に及ぶ療養生活を送ったものの、左足が不自由となった。
飯沼は、この事故で飛行機を操縦することを断念。退院後の1921(大正10)年2月、帝国飛行協会に辞表を提出し、航空界から退くことになる。

飯沼墜落事故の新聞報道

飯沼墜落事故の新聞報道

ボヘミアンと噂(うわさ)された飯沼、意外な才能を発揮

失意の飯沼は、しばらく山梨県下部温泉で療養生活を送った後、かねてから親交のある千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所所長の伊藤音次郎のもとに身を寄せる。そこでは、飯沼と帝国飛行協会時代の同期生の後藤勇吉が客員教官として指導するなか、かつての仲間や、後に日本女性飛行操縦士第1号になる兵頭精(※10)が操縦訓練に果敢に挑戦している姿が見られた。訓練に励む仲間を見ているうちに、飯沼は飛べない寂しさが増してきたのか酒の量が多くなった。
その折に、飯沼が絵を描く趣味があったことを知る中島知久平から誘いがあった。知久平は、飛ぶことに命をかけた豪胆で明朗な飯沼の人柄を愛しており、絵を描く道具一式を用意して群馬の尾島飛行場に招き、良く彼の面倒を見たといわれる。1922(大正11)年から1928(昭和3)年の春頃まで、飯沼は主として油絵を描いて暮らしていた。その間、世間では「ボヘミアンのような生活をしているらしい」などと伝えられたが、いつしかそうした噂も途絶えた。飯沼が航空界に復帰することはあり得ないと思われていたからだ。

画家を志す飯沼

画家を志す飯沼

しかし、飯沼はその期間に、歩きながら聞ける「ラジオ傘」を1926(大正15)年7月頃に考案。それを日本橋の柳川商店から売り出したところ、かなり流行したといわれており、多才な一面を見せている。

※記事内、敬称略
※1 中島知久平(ちくへい):中島飛行機の創立者で「飛行機王」「巨人」とも称された。衆議院議員、近衛内閣時の鉄道大臣、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣時の軍需大臣、商工大臣を歴任する
※2 亜細亜航空機材研究所:当初の名前は「航空機研究所」だが、ここでは「機材研究所」とする。
※3 3大民間航空学校:当時の航空専門誌による評価。日本飛行学校、名古屋飛行学校、亜細亜航空学校を指す
※4 臨時軍用気球研究会:1909(明治42)年7月設置。陸海軍合同の監督下で、気球及び飛行機に関する研究を行う事を目的とした機関
※5 帝国飛行協会:1913(大正2)年4月発足。社団法人で気球、飛行船、飛行機等の航空事業及び自動車等の普及・発達を図ることを目的とした民間機関。現日本航空協会の前身
※6 中島飛行機製作所:当時は日本飛行機製作所。1919(大正8)年12月中島飛行機製作所に改称
※7 後に、水田嘉藤太を校長とする水田飛行学校となる
※8 在米同胞号:在米日本人の寄付金により製作された飛行機
※9 洲崎(すさき):深川区洲崎埋地。現江東区豊洲
※10 兵頭精(ひょうどうただし):1919(大正8)年11月、伊藤飛行機研究所入所。1922(大正11)年3月、三等飛行機操縦士免状交付。1980(昭和55年)4月、2年越しで入院していた杉並区の救世軍ブース記念病院で逝去

ラジオ傘と飯沼(前列左から2人目)

ラジオ傘と飯沼(前列左から2人目)

DATA

  • 出典・参考文献:

    「空のパイオニア・飯沼金太郎と亜細亜航空学校」小暮達夫(AIRFORUM『航空と文化』)
    「ひとすじのヒコーキ雲 ―飯沼金太郎の生涯-」小暮達夫(『さくらおぐるま』佐倉市教育委員会発行)
    『日本民間航空史話』財団法人日本航空協会
    『飛行家をめざした女性たち』平木國夫(新人物往来社)
    『巨人中島知久平』渡部一英(鳳文書林)
    『日本航空史・明治大正編』財団法人日本航空協会
    『佐倉市史 巻4』佐倉市・佐倉市史編さん委員会
    『練馬区史』編集兼発行者東京都練馬区
    『航空時代 第7巻4号』航空時代社
    『中島飛行機物語』前川正男(光人社)
    『日本飛行機物語・首都圏編』平木國夫(冬樹社)
    『富士重工業30年史』30年社史編纂委員会・社史編簿室
    『中島飛行機エンジン史』中川良一・水谷惣太郎共著(酣燈社)
    『生きている航空日本史外伝(上巻)日本のルネッサンス』中村光男(酣燈社)
    『生きている航空日本史外伝(下巻)日本の航空ミレニアム』中村光男(酣燈社)
    『戦前という時代』山本夏彦(文藝春秋)
    『航空博物館とは何か?』水嶋英治(星林社)

  • 取材:佐野昭義
  • 撮影:写真提供:大谷妙子さん
  • 掲載日:2015年11月30日
  • 情報更新日:2023年04月01日