阿佐谷北の町境で昭和発見ウオーキング

阿佐谷北5丁目の屋敷林。2021(令和3)年4月撮影

阿佐谷北5丁目の屋敷林。2021(令和3)年4月撮影

どこか懐かしい雰囲気が残る阿佐谷北の町並み

JR阿佐ケ谷駅の北側は、昭和の雰囲気があちこちに残るエリアだ。長年営業を続ける飲食店が軒を連ねていたり、大きな屋敷林が残っていたりと懐かしさが感じられる。またこの地域には陸軍用地だった歴史を持つ場所もあり、今でもそのことを示す遺物が町角に残っている。そんな阿佐谷北エリアで昭和の面影を見つけるため、駅北口から阿佐谷北1~6丁目の町境の外周をぐるっと一巡りする約5㎞の散歩に出掛けた。
まずは、風情あるジャズライブハウスや雀荘(じゃんそう)の看板を見ながら、阿佐谷北口駅前スターロード商店街を西に進む。世界最大級の蓄音機が自慢の名曲喫茶「ヴィオロン」など個性的な店が立ち並ぶ商店街だ。

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住宅街の路地で見つけた四角い石は陸軍用地の遺物だった

住宅街の路地で見つけた四角い石は陸軍用地の遺物だった

阿佐谷北1~6丁目の境界線。皇居外周とほぼ同じ約5㎞のコースを歩いた

阿佐谷北1~6丁目の境界線。皇居外周とほぼ同じ約5㎞のコースを歩いた

阿佐谷北3丁目で昭和時代にタイムスリップ

商店街を5分ほど歩き、中央線沿いから離れて天沼1丁目と阿佐谷北2丁目の町境を北へ約500m進んだところで、レンガ敷きの曲がりくねった桃園川緑道を横切った。1965(昭和40)年前後まで、ここには西から東に桃園川が流れていた。住宅街の合間を縫うように蛇行する遊歩道を見ていると、川があった頃の風景が思い浮かんだ。
さらに北に進んで右折し、町境から少し外れて阿佐谷北3丁目の路地を散策した。この周辺には、昭和時代に建てられた都営住宅やアパートが多く残っていて、行き止まりの路地も多い。子供たちが石蹴りをしたチョークの跡もあり、懐かしさを味わった。
歩いていると、アパートのブロック塀の隙間や保育園の門の前などで、複数の軍用地境界標石を見つけた。1889(明治22)年から戦後間もない時期まで、現在の中野駅北口から西側、杉並区立馬橋公園を含む一帯は現日本大学第二中学校・高等学校の場所まで陸軍用地だった歴史を持ち、この石は軍用地の境界を示す目印として使われていた。昭和初期の地図を見ると、この辺りから馬橋公園まで現在の住宅街を貫くような形で、軍用地の中を広い道路が敷かれていたことがわかる。今もなお町に点在する標石から、阿佐谷北の人々が地域の歴史を大切に残してきた様子が伝わってきた。

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桃園川緑道。暗渠(あんきょ)化されるまで、天沼弁天池を水源として中野区まで桃園川が流れていた

桃園川緑道。暗渠(あんきょ)化されるまで、天沼弁天池を水源として中野区まで桃園川が流れていた

アパートの塀を作る際、軍用地境界標石を残すようにブロックが組まれている。「陸軍」の文字がはっきり確認できた 

アパートの塀を作る際、軍用地境界標石を残すようにブロックが組まれている。「陸軍」の文字がはっきり確認できた 

1931(昭和6)年頃発行の「杉並町勉強商工者案内地図」。現日本大学第二中学校・高等学校の場所まで陸軍用地だったことがわかる(資料提供:原田弘さん)

1931(昭和6)年頃発行の「杉並町勉強商工者案内地図」。現日本大学第二中学校・高等学校の場所まで陸軍用地だったことがわかる(資料提供:原田弘さん)

中野区との区境で古い地名の名残を発見

寄り道ついでに阿佐谷北4丁目の「rustica洋菓子店」で焼き菓子を購入した後、中野区との区境を歩く。今ではにぎやかな早稲田通り近辺も杉並区が誕生した1932(昭和7)年ごろは、うっそうとした森林があったという。『杉並風土記』によれば、現在の杉並区立杉森中学校のある一帯は「お伊勢(いせ)の森」と呼ばれる阿佐ヶ谷神明宮の旧社地だったそうだ。兵士が森の中でラッパの練習をしていたので「ラッパの森」ともいわれていた。古い地名の名残を阿佐谷北6丁目の区境にある「お伊勢の森」という名のバス停留所に見つけた。
区境に沿って歩いていると、路面に境界を表すマークが並んでいることがわかる。中には区境を示す古い石が、家と家の間に埋め込まれている場所もあった。

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プレーンスコーンなど素朴な焼き菓子が人気の「rustica洋菓子店」

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「お伊勢の森」の名が残るバス停留所

「お伊勢の森」の名が残るバス停留所

家と家の間にある杉並区と中野区の境界石。この隙間に区境がある

家と家の間にある杉並区と中野区の境界石。この隙間に区境がある

陸軍用地から防災公園へ姿を変えた馬橋公園

中野区との区境から早稲田通りを渡って、約2万㎡の広大な敷地を持つ区立馬橋公園に向かった。公園東側入り口の近くには、陸軍用地だった証としてここにも軍用地境界標石が残っていた。「陸軍」の文字がはっきり刻まれているが、小さくて見過ごすところだった。写真を撮っていると鬼ごっこをしていた子供たちがやってきて、「初めて気付いた」と言いながら興味深そうに標石をなでていた。また、この一帯が公園となる前、1980(昭和55)年まで気象研究所として利用されていたことを示す看板も見つけた。
区民が憩う馬橋公園は災害時の一時避難地に指定された防災公園でもある。敷地内には「四季の広場」「水辺の広場」など防災機能を併せ持つ6つの広場があった。一段低く設けられた扇形の「多目的広場」は、雨水が地下に浸透・貯りゅうする仕組みを完備。その他、園内に「震災対策用応急給水施設」が設置されているなど、至るところに防災の工夫が施されていた。

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東側入り口近くにある軍用地境界標石。礎石の上に、高さ15㎝の標石が据えてある

東側入り口近くにある軍用地境界標石。礎石の上に、高さ15㎝の標石が据えてある

園内には、ゲートシャワー・スプリンクラー・震災用備蓄倉庫などの防災設備が設置されている

園内には、ゲートシャワー・スプリンクラー・震災用備蓄倉庫などの防災設備が設置されている

園内にはシイノキ、シラカシ、タブノキなどの防火樹林がそびえる

園内にはシイノキ、シラカシ、タブノキなどの防火樹林がそびえる

阿佐ヶ谷文士も歩いた?屋敷林のある一角

馬橋公園から阿佐ケ谷駅に向かって歩く途中、屋敷林がトンネルのようになった小道を通った。阿佐谷北1丁目、5丁目は屋敷林が多く残る場所で、区が指定する「杉並らしいみどりの保全地区」に選ばれている。駅に戻る道すがら、他にも杉並区保護樹木に指定された巨木が青々と葉を茂らせた場所を見かけ、美しい風景にウオーキングの疲れも吹き飛ぶようだった。
阿佐谷北は、かつて詩人の北原白秋が晩年に居を構えるなど、阿佐ヶ谷文士たちが闊歩(かっぽ)した地でもある。文士たちも駅まで同じ道を歩いたかもしれないと思いながら、約2時間20分に及ぶ昭和発見ウオーキングをフィニッシュした。

▼関連情報
杉並区ホームページ>杉並らしいみどりの保全地区(外部リンク)
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の文士たち>杉並の文士たち(概要)

屋敷林のある幻想的な小道。木漏れ日が美しい

屋敷林のある幻想的な小道。木漏れ日が美しい

DATA

  • 最寄駅: 阿佐ケ谷(JR中央線/総武線) 
  • 出典・参考文献:

    『杉並風土記』中巻 森泰樹(杉並郷土史会)
    「杉並の地図を読む―描かれたもの隠されたもの―」展示図録(杉並区立郷土博物館)
    「杉並町勉強商工者案内地図」(所蔵:原田弘さん)
    『阿佐ケ谷時代の北原白秋』野北和義(砂子屋書房)
    「すぎなみ景観ある区マップ 荻窪北・下井草編」(杉並区役所都市整備部みどり公園課)

  • 取材:赤荻千恵子、篠田洋江(区民ライター講座実習記事)、内藤じゅん
  • 撮影:赤荻千恵子、篠田洋江、内藤じゅん
    取材日:2020年12月23日
  • 掲載日:2021年05月10日