1962(昭和37)年の住居表示改定により町名から消えた「馬橋(まばし)」。江戸の昔から地域の人になじみのあるその名は、今も「馬橋稲荷(いなり)神社」や「馬橋小学校」などに残されている。高円寺と阿佐谷の中程にある杉並区立馬橋公園もその一つである。
1985(昭和60)年に開園した緑あふれる公園は、コブシや桜、ユリノキ、ナツツバキなどの花々や、秋の紅葉も美しく、四季折々の景色を楽しめる。
公園中央には大きな流れがある。上流は目にも涼やかな渓流の趣。下流は広場になっており、子供がのびのびと水遊びを楽しめる人気のスポットだ。流れの先には樹木に囲まれた池があり、コイやカメ、カルガモやオナガガモなどの水鳥の姿も見られる。のんびりと池の周りを散歩したり、あずまやで一休みするのもいいだろう。そのほか、遊具のある疎林広場、野球やサッカーが楽しめる多目的広場、ゲートボールができる四季の広場もあり、区民に親しまれている。
また、災害時には一時避難地となる防災公園として、樹木スプリンクラー・放水銃・ゲートシャワーなどの散水装置や、防災倉庫、シイノキ・シラカシ・タブノキなどの防災樹林を設けている。さらに、多目的広場を周辺より一段低くして雨水を地中に浸透・貯留するしくみで、雨水流出抑制対策もとられている。
現在は人々でにぎわう公園となった当地だが、これまでさまざまな歴史を刻んできた。まだこの辺りが馬橋村と呼ばれていたころ、村には桃園川が流れ、田畑が広がっていた。しかし、1889(明治22)年に陸軍用地となり、鉄道隊、気球隊、電信隊などが駐屯。1926(昭和元)年には陸軍通信学校が開校する。その後、同校が移転すると、陸軍気象部が置かれた。この施設は戦後も気象庁気象研究所として残っていたが、1980(昭和55)に茨城県つくば市へ移転し、跡地が公園に整備されることとなった。
公園の東側には早稲田通り~青梅街道~五日市街道を南北に結ぶ「馬橋通り」がある。これは幻となった中央線「馬橋駅」開設に向け開かれたもの。馬橋通りを南に進むと、かつて村を流れていた桃園川の暗渠(現桃園川緑道)に架かる「旧馬橋」がある。また、公園から徒歩15分ほどのところに位置する高円寺の氷川神社には、陸軍気象部内にあった日本で唯一の気象神社が祀(まつ)られている。歴史をたどりながら公園とその周辺を散歩してみるのも面白そうである。
▼関連情報
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『杉並風土記』森泰樹(杉並郷土史会)