
「江戸名所 百人美女 堀の内祖師堂」(三代豊国 安政四年 上州屋金蔵版)(杉並区立郷土博物館所蔵)
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(※1)の影響もあり、2025(令和7)年は全国各地でさまざまな浮世絵展が開催された。杉並区立郷土博物館にも、葛飾北斎の高弟である魚屋北渓(ととや ほっけい)の板絵(レプリカ)や、区内の名所・堀之内妙法寺を描いた3点の浮世絵(複製)が常設展示されている。
その一つ「江戸名所 百人美女 堀の内祖師堂」は、江戸時代後期の歌川国貞(三代豊国)の作品だ。妙法寺にお百度参りに来たと思われる女性と、「名物 粟(あわ)の水あめ」という木札が添えられた樽(たる)が描かれている。実はこのあめ、江戸時代から約400年続く新潟県上越市の髙橋孫左衛門商店で現在も作られているというから驚きだ。
杉並区立郷土博物館元館長・寺田史朗さんと、十四代髙橋孫左衛門さんの協力のもと、浮世絵に描かれた妙法寺と「粟の水あめ」について、前・後編に分けて紹介する。
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並の寺社>堀之内妙法寺
日蓮宗 本山 やくよけ祖師 堀之内妙法寺(外部リンク)
髙橋孫左衛門商店(外部リンク)
すぎなみ学倶楽部 歴史>杉並名品復活プロジェクト>妙法寺参詣の浮世絵に描かれた「粟の水あめ」【後編】
堀之内妙法寺は日蓮宗(にちれんしゅう)の本山の一つ。日蓮の直弟子・日朗上人作の日蓮像をまつる祖師堂を中心に、広い境内に伽藍(がらん)を構える杉並区内屈指の寺院である。
元は真言宗の尼寺であったが、元和(1615-1623)の頃に日蓮宗に改宗し、山号を日圓山(にちえんざん)、寺号を妙法寺とした。1699(元禄12)年に身延山久遠寺の直末(※2)となり、目黒碑文谷の法華寺(現天台宗円融寺)より日蓮上人の祖師像が移されると、祖師像の霊験が現れ、以来「厄除祖師(やくよけそし)」として将軍家から庶民まで広く信仰を集め、にぎわうようになった。
当時の参詣について、江戸時代後期の地誌『武蔵名勝図会』に「参詣群衆すること浅草の観世音に並べり」と記されており、歌川広重も浮世絵に描いている。また、古典落語「堀の内」の舞台としても知られた。
妙法寺は、江戸の西郊三里(12km)ほどの地にあった。参詣者は内藤新宿の追分(分岐点)から青梅街道を西下し、鍋屋横丁(現中野区)で左折し、野道をたどって堀之内村の妙法寺に向かう「堀之内道(妙法寺道)」を利用した。
江戸の町医者が記した随筆『塵塚談』には、参詣道について「新宿より寺の門前まで水茶屋、料理茶屋其外酒食の店、数百軒簷をならぶ」と記されている。中でも、のっぺい汁が名物の「しがらき」は江戸中に名が知られ、その繁盛ぶりは「誠に大流行にて大賑合也、凡人数をかぞへ見しに、三百七拾人程有しなり」(『江戸見草』)というほどであった。
だが、明治に甲武鉄道(現JR中央線)が開通すると、中野駅から妙法寺に向かう「堀之内新道」が開かれ、「堀之内道」は廃れていった。現在「堀之内道」は、商店街の中程に位置する和田帝釈堂の名をとって「和田帝釈天通り」として親しまれている。
「江戸名所 百人美女」は、1857(安政4)年11月から1858(安政5)年5月にかけて出版された美人画のシリーズ。大判(※6)の錦絵(※7)の中央に歌川国貞が美人画を、門人であり国貞の三女の婿でもある歌川国久がこま絵(※8)を担当している。描かれた女性は吉原の遊女から大名家の姫君まで多彩で、当時の女性の風俗を知る資料としても興味深い。
その一つ「江戸名所 百人美女 堀の内祖師堂」のこま絵には、妙法寺の祖師堂が描かれている。『江戸名所図会』の「堀の内妙法寺」と見比べると、こま絵は楼門から祖師堂屋根を狙った構図と思われる。さらに、同書には「都鄙の貴賤日毎に、ここに詣して、百度参等、片時絶る事なし」との記述があり、これと絵の中央に描かれた女性の様子とを照らし合わせると、お百度参りをしている姿であることが分かる。お百度参りとは、寺の門から祖師堂や本堂をお参りし、再び門まで戻ることを百回繰り返すもの。そうすれば願い事がかなうといわれており、妙法寺は特に霊験あらたかで人気があった。
女性が手に持っているのは銭緡(ぜにさし)である。本来は、銭の穴に通して百文にまとめるための藁紐(わらひも)だが、百本単位で売られていたのでお百度の回数を数えるために当時はよく使われていたようだ。
女性の髪型は、既婚者が結う代表的な丸髷(まるまげ)で、青々とそったばかりの眉とお歯黒をしている姿から、結婚間もない若妻と思われる。着物は網代(あじろ)模様、帯は藍染めの亀甲型に鶴模様と地味ないでたち。首には長数珠(ながじゅず)をかけ、草履が脱げないように鼻緒は赤い布で縛り、まさにお百度参りにふさわしいつつましい装いの美女がけなげに描かれいる。
今回の取材では、杉並区立郷土博物館が所蔵する現物を見せていただいた。髪の生え際まで丁寧に描かれた筆致や、着物の柄の美しさと深みのある色彩に、感銘を受けた。
当時この展示図録を担当した寺田さんは、展示後も調査を続け、東京大学総合図書館所蔵『捃拾帖』(※9)に掲載された「粟飴 高橋孫左エ門」の商品ラベルの中に、「出店 堀之内清水久保 高橋屋音吉」という記載があることを見つけている。この清水久保(窪)は和田村と中野村との村境にあり、道沿いには湧水があり湿地を形成していたといわれている。
また、寺田さんは、髙橋孫右衛門商店の髙橋家に「武州(多摩)郡中野村」との書付が残っていることから、「高橋屋出店は「清水窪」の東側、中野村に所在していたのであろう。この場所は、(先述の)広重の「東都名所之内 堀乃内千部詣」に描かれた場所(画面左手の原が“清水窪”)に当たり、「高橋屋」も絵に描かれたこのような形で商いをしていたものと考えられる」と、髙橋家への書簡「高橋孫左衛門・粟飴屋出店を巡って」に書き記している。
かつての妙法寺参詣の様子が描かれた『堀之内妙法寺記』(※10)を見ていると、清水窪の出店(でみせ)から、さらに妙法寺の境内に出店(しゅってん)していたのであれば、まさに「江戸名所 百人美女 堀の内祖師堂」のような場面が展開されていたのではないかと思われる。
※1 「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)〜」:2025(令和7)年放送のNHK大河ドラマ第64作。多くの本や浮世絵を出版した「江戸のメディア王」こと蔦屋重三郎の生涯を描く
※2 直末(じきまつ):総本山直属の末寺のこと
※3 庫裏(くり):元々は寺院の台所を意味するが、現代では住職や僧侶が居住する場所を指すことが多い
※4 お会式(おえしき):日蓮上人の命日(10月13日)等に行う法要
※5 千部会(せんぶえ):日蓮宗における千部会は、法華経の一部を千回読誦(どくじゅ)することから「法華千部会」と称される法会
※6 大判:浮世絵の判型(サイズ)。大奉書(おおぼうしょ)の全紙判を半分に切った大判(約39×26~27cm)が主流だった
※7 錦絵:明和年間(1764-1772)以降に発展した、多色で刷られた精巧な浮世絵版画
※8 こま絵:浮世絵の隅に描かれる小さな絵で、メインの絵を補足する役割を持つ。「江戸名所 百人美女」の場合は江戸の名所が描かれている
※9 『捃拾帖』(くんしゅうじょう):男爵・田中芳男が、1859(安政5)年から1916(大正5)年までに収集した商品のラベル・包装紙・案内状などの印刷物をまとめたスクラップ帖
※10 『堀之内妙法寺記』:内藤新宿から堀之内妙法寺に至るまでの参詣道が描かれている。玉泉斎春山(藤原好成)筆。江戸末期文政ごろの作と推察される
『平成12年度特別展「霊宝開帳と妙法寺の文化財展」展示図録』杉並区立郷土博物館
「高橋孫左衛門・粟飴屋出店を巡って」寺田史朗
『絵解き「江戸名所百人美女」 江戸美人の粋な暮らし』山田順子(淡交社)
『面白いほどよくわかる浮世絵入門』深光富士男(河出書房新社)
『杉並郷土史会会報 第101号』森泰樹(杉並郷土史会)
『杉並郷土史会会報 第303号』寺田史朗(杉並郷土史会)
『杉並郷土史会会報 第304号』寺田史朗(杉並郷土史会)
『続江戸名所図会を読む』川田壽(東京堂出版)
『杉並の通称地名 文化財シリーズ37』杉並区教育委員会
『中野をめぐる道』中野区立中央図書館
『武蔵名勝図会 新装』植田孟縉・片山迪夫(慶友社)
『堀之内妙法寺記』玉泉斎春山(藤原好成)
『江戸見草』小寺玉晁
「杉並区>妙法寺」
https://www.city.suginami.tokyo.jp/s113/7533.html
「杉並区>妙法寺参詣道(堀之内道)」
https://www.city.suginami.tokyo.jp/s113/7559.html
「日蓮宗 本山 やくよけ祖師 堀之内妙法寺」
https://www.yakuyoke.or.jp/
「浮世絵に聞く!>江戸名所百人美女」
http://ukiyoe.cocolog-nifty.com/blog/cat24192605/index.html
「国書データベース>堀之内妙法寺記」
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100172932/1?ln=ja
「東京大学総合図書館>電子展示『捃拾帖』」(高橋屋音吉で検索)
https://kunshujo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/
協力:寺田史朗氏