2.「鉄腕アトム」の誕生とテレビアニメのはじまり

日本初の国産アニメーション

『日本のアニメ全史』によると、「アニメーション Animation」はAnimateの名詞系で、その語源はラテン語のAnimaからきており、「生命を与える」「生き返らせる」などの意味がある。
1895(明治28)年、フランスのリュミエール兄弟によって映画が発明された。やがて実写と区別するため、フィルムの上で1枚1枚描画して「動き」を表現していたものをanimated cartoonと呼ぶようになり、現在ではanimationとなった。
世界で最初にアニメーション映画が登場したのは1906(明治39)年。アメリカのジェームズ・スチュアート・ブラックトンが黒板にチョークで少しずつ絵を描き、それをコマ撮り(※1)した「愉快な百面相」だった。
日本でも明治40年代には輸入作品が上映されていたが、国産のアニメーションが制作されたのは大正時代になってからのこと。1917(大正6)年、漫画家・下川凹天(しもかわおうてん)が自作漫画をアニメ化した「芋川椋三(いもかわむくぞう) 玄関番の巻」が日本初の国産アニメーションとされている(残念ながらフィルムは現存しない)。海外から技術が伝わっていたわけでもなく、当初は見よう見まねの手探り状態。また、その後もアニメーションは制作されるが、主として教育映画、政党や企業の宣伝映画などの一形態として制作されていたにすぎなかった。

※1 コマ撮り:物体を少しずつ動かしながら撮影することによって動きを表現する技法

現存する日本アニメの最古のフィルム『なまくら刀』(1917年、幸内純一監督)<br>(東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵)

現存する日本アニメの最古のフィルム『なまくら刀』(1917年、幸内純一監督)
(東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵)

「白雪姫」と「白蛇伝」

大正末期から昭和初期になると人気漫画がアニメ化されるようになり、子供向けのアニメーションも登場。1933(昭和8)年には、当時、荻窪に暮らしていた田河水泡原作「のらくろ二等兵 教練の巻」が公開された。
太平洋戦争終戦後、1950(昭和25)年に米国ウォルト・ディズニーの長編映画「白雪姫」が日本でも一般公開され、大ヒットとなる。これを機に、商業としてのアニメーションの価値が注目されるようになり、国産のアニメ制作も本格化。1956(昭和31)年には、日本初の商業目的によるアニメーション制作を目指した東映動画(現東映アニメーション)が練馬区大泉学園に設立される。同社の長編アニメ第1作「白蛇伝」(1958)は日本初の全編カラーによるフルアニメーション(※2)としても話題となった。その後、劇場用長編アニメの分野で実績を積んでいくが、1963(昭和38)年よりテレビアニメを制作。「魔法使いサリー」をはじめとした魔法少女シリーズを手がけたのも東映動画である。

※2 フルアニメーション:1秒間に必要な24コマの映像全てに、少しずつ異なる絵を描くことで、動きをスムーズに見せる。ただし、「白蛇伝」は12コマでのフルアニメーション作品

▼関連情報 
すぎなみ学倶楽部>ゆかりの人々>知られざる偉人>田河水泡さん

テレビアニメ「鉄腕アトム」誕生

1962(昭和37)年、漫画家・手塚治虫さんが練馬区富士見台に虫プロダクション(以下、虫プロ)を設立。翌年、テレビアニメ「鉄腕アトム」(フジテレビ系)を制作、放映される。毎週1回30分の連続放映アニメは、国内はもちろん、世界初の試みだった。「それまでの手法では、30分のアニメを作るのは大変な作業だったので、アトムが毎週放映になるなんて信じられない世界でした。」と話すのは、杉並アニメーションミュージアムの鈴木伸一館長。「鉄腕アトム」は、制作期間が長くとれないため、通常1万5000~2万枚の絵を必要とするところ、10分の1の1500~2000枚にするなど、制作には徹底した省力化が図られた。「手塚さんはリミテッドアニメといって、口だけパクパク動かすなど、極力省略して作っていったんですね。ストーリーがしっかりしていて、そこにセリフと音楽が付けば、それほど動かなくてもいいという考えだったんです。それがテレビアニメだと。」
東映動画のフルアニメーションに対し、極端に省力化された「鉄腕アトム」だが、その後、同じ手法のテレビアニメが続々と制作され、現在では日本アニメの手法の一つとして定着している。

杉並アニメーションミュージアムの鈴木伸一館長

杉並アニメーションミュージアムの鈴木伸一館長

虫プロでのアニメづくり

当時の虫プロはどんな様子だったのか。虫プロ出身で、現在、阿佐谷にあるアニメーション制作会社スタジオM2の代表取締役を務める丸山正雄さんに話をうかがった。
「大学を卒業して就職せずにふらふらしていたら、知人に“手塚さんのところで人を探しているから手伝ってこい”と言われて、アニメーションの会社とも知らずに入社しました。仕事はなんでもやりましたね。絵を描くのはうまい人がいっぱいいるので任せておいて、僕は食事係とか、一番得意なのは掃除でした。」
忙しかったけど、遊びの延長線上で仕事をしていた気がするという丸山さん。「絵を描いたり映画を作ったりするのが好きな人たちの集まりなので、大変だからといって、面白いことはあっても、イヤだと思うことはありませんでした。当時はアニメーションを作るといっても、みんなどうやったらいいのかわからない中で作っていたので、それが面白かったですね。そのまま50年も業界にいるんですから、水が合ったんでしょうね。」そう笑顔で語る丸山さんはとてもうれしそうだ。

スタジオM2代表取締役の丸山正雄さん

スタジオM2代表取締役の丸山正雄さん

トキワ荘とスタジオゼロ

「鉄腕アトム」は大ヒットし、各テレビ局もこれに続けとばかり次々にテレビアニメを放映。同時にアニメ制作会社も続々と設立される。手塚治虫さんをはじめ著名な漫画家たちが住んでいた伝説のアパート、トキワ荘(※3)。1963(昭和38)年、そのトキワ荘の仲間によって設立されたのがスタジオゼロだ。
杉並アニメーションミュージアムの鈴木館長もスタジオゼロ設立メンバーの一人である。トキワ荘に住んで漫画家を目指していた鈴木さんは、1956(昭和31)年、アニメ制作会社「おとぎプロダクション」にアニメーターとして入社。国内初のテレビアニメシリーズ「インスタントヒストリー」などを制作した。その後、同社を退社し、藤子・F・不二雄さん、石ノ森章太郎さん、藤子不二雄(A)さん、つのだじろうさんらと共にスタジオゼロを設立。少し遅れて赤塚不二夫さんも参加することとなった。「スタジオゼロはもともと中野にありましたが、手狭になったので新宿の、今、都庁がある辺りに引っ越しました。辺りはまだ野っぱらで、淀橋浄水場があった時代ですね。」
スタジオゼロでは新番組の企画や作画の下請けなどをしていたが、アニメだけでは運営できず、雑誌部を設立し漫画雑誌も制作していたという。「当時は子供たちがサインをもらいによく来ていましたね。雑誌にスタジオゼロに来るなら何曜日の何時までと書いていました。」1966(昭和41)年、スタジオゼロのアニメ第1作となる「おそ松くん」(毎日放送系)を放映。その後、「パーマン」「怪物くん」などを制作するが、それぞれ漫画の仕事が忙しくなり、1971(昭和46)年、解散することとなる。

※3 トキワ荘:豊島区椎名町5丁目(現南長崎3丁目)にあった木造2階建てのアパート。昭和を代表するマンガ家が若手時代に暮らしていた。1982(昭和57)年、老朽化のため取り壊された

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1967(昭和42)年頃のスタジオゼロとゼロのスタッフ(写真提供:鈴木伸一さん)

1967(昭和42)年頃のスタジオゼロとゼロのスタッフ(写真提供:鈴木伸一さん)

DATA

  • 出典・参考文献:

    「杉並アニメ物語」大地丙太郎監修(広報すぎなみ)
    『日本のアニメ全史』山口康男編著(TEN-BOOKS)
    『日本アニメーションの力 85年の歴史を貫く2つの軸』津堅信之(NTT出版)
    『アニメーション学入門』津堅信之(平凡社新書)

    協力:杉並アニメーションミュージアム

  • 取材:坂田、みやうちえいこ
  • 撮影:坂田、写影堂
    写真提供:鈴木伸一さん
  • 掲載日:2016年12月14日