2-2.蚕糸試験場 証言集

【証言1】蚕糸試験場についてのヒアリング

蚕糸試験場についての話を聞くために、当時勤務されていた3名の先生に集まっていただいた。それぞれ場長や所長という重任にあった方々ならではの興味深いエピソードをたくさん伺うことができた。
(2014年12月18日 荻窪にて)

財団法人大日本蚕糸会でもご活躍の先生方。左から河上清先生、小林勝利先生、井上元先生

財団法人大日本蚕糸会でもご活躍の先生方。左から河上清先生、小林勝利先生、井上元先生

思い出の地、蚕糸試験場と蚕病研究-河上清先生

私の本籍(戸籍)は蚕糸研究で世界一の蚕糸試験場があった場所(杉並区高円寺、現在和田3丁目)です。当時、住んでいた試験場の官舎の住所を今も本籍にしているのです。子供たちもここで育ったのでとても懐かしい思い出の場所です。
試験場からは毎年10月になると、妙法寺の御会式の盛大な万燈行列がとてもよく見えて、特等席で楽しめました。また、今も蚕糸の森公園に残る大きなプラタナスの木は、1959(昭和34)年頃に植えられた木です。この木とハリグワ、シダレグワ、イチョウ、ヒノキの何本かは当時のまま残されています。なお、試験場本館は重厚な特徴ある建物だったので、正門から本館の車寄せのあたりは映画の撮影に使われたこともありました。
私は1957(昭和32)年に蚕糸試験場に入り、蚕の硬化病やコウジカビ病(いずれもカビの寄生によりおこる病気)とそれらの防除法の研究をしました。のちに蚕には害がなく桑の害虫にだけ寄生するカビを発見し、これを利用した害虫防除法を開発しました。生物農薬というのですが、日本で初めての糸状菌製剤として農薬登録され、今も市販され使われています。
私は当初(蚕の)育種部に採用されたいと願っていました。昔は蚕の研究と言えば、まずは品種優先という雰囲気で、病理部に採用された私は小さくなっていました(笑)。でもやがて、品種だけでは繭生産はうまくいかないことがわかってきました。どんなに優秀な品種の蚕でも病気になったら繭をつくらず大損失ですからね。品種と病理とは車の両輪です。病理研究の重要性が認識されて、1958(昭和33)年には蚕糸試験場の4支場に病理研究室が設置され、病理研究が強化されました。
話は変わりますが、私は退職後インドに派遣されて、6年間にわたり蚕糸技術協力のリーダーを務めました。日本の蚕糸技術は大変に喜ばれて現地の農家を豊かにすることに大きく貢献しました。今なおアフリカなど30か国もの国々が日本の蚕糸技術を教えてもらいたがっています。しかし、日本では蚕糸業の衰退とともに蚕糸技術の継承が困難となり、専門家の派遣は大変に難しい状況です。蚕糸技術を伝える受け皿が日本になくなるのは寂しいことです。「蚕糸の森公園」は当時のよすがを残す貴重な場所です。

【プロフィール】
蚕糸試験場病理部硬化病研究室長
蚕糸・昆虫農業技術研究所生産技術部長、企画連絡室長、所長
JICAインド二化性養蚕プロジェクトリーダー
(財)大日本蚕糸会評議員、褒賞等選考委員長
瑞寶中綬章受賞、蚕糸・恩賜賞
農学博士

河上清先生

河上清先生

河上先生の恩賜賞

河上先生の恩賜賞

蚕糸の森公園に残るプラタナスの大木

蚕糸の森公園に残るプラタナスの大木

原蚕種製造所をスタートに-井上元先生

私は前橋にあった養蚕部に1年いて、1967(昭和42)年に本場(高円寺の蚕糸試験場)へ移ってきました。河上清さんと同じ病理部で、蚕のウイルス病の研究をしていました。その頃は蚕の伝染性軟化病ウイルスが猛威を振るっていて農家に甚大な被害を与えていましたので、蛍光抗体法による病気の早期診断技術を開発しました。当時の農林省がこの技術の普及を支援してくれたのは嬉しいことでした。
本場には男子寮と女子寮があって、私も結婚する前に3年ほど寮に入っていました。夜遅くまで実験したり勉強したりするのに便利でした。本庁舎を立て替えたときに、旧庁舎を取り壊さないで同じ敷地内に移して、職員宿舎に利用していましたね。テニスコートもあって、杉並で光化学スモッグが発生したのを知らず昼休みにテニスをやりながら、「何か今日は息苦しいな」って思っていました。4月の科学技術週間には一般公開を行い、蚕のほかに繭から糸を取るところを見せたり、シルク製品の即売会をしたりの一大イベントでした。この一般公開は現在もつくばで開催しています。
私が本場にいたのは13年ほどですが、そのうちの1年はアメリカへ昆虫病理の研究で留学し、2年はインドネシアへ養蚕の技術協力に行っていました。インドネシアから戻ってきたのは試験場がつくばに移転したあとで、明かりもつかずガランとした建物に一抹の寂しさを感じました。つくばに移ってからは蚕の細胞培養の研究を進め、後に蚕糸・昆虫農業技術研究所の最後の所長を務めました。
2011(平成23)年に河上清さんが実行委員長となって、蚕糸試験場創立100周年記念OB会がつくばで開催されました。この100年というのは原蚕種製造所の設立からの100年で、農林水産省における蚕糸試験場の歴史はもっと長いのです。それは内務省蚕業試験掛における蚕病研究を源流に、1884(明治17)年、農商務省に蚕病試験場が設置された経緯があるからです。では、なぜ私たちが蚕糸試験場のスタートを原蚕種製造所からにしているのかと言いますと、初代の加賀山所長が「ここから始まる」と決意を語られ、 その心意気を歴代の場長と所長が尊重してきたからと伝聞しています。つくば移転後の蚕糸・昆虫農業技術研究所の所長室には、加賀山所長の胸像が飾ってありました。

【プロフィール】
蚕糸試験場病理部蚕ウイルス病研究室主任研究員、蚕遺伝研究室長
蚕糸・昆虫農業技術研究所細胞工学研究室長、企画科長、遺伝育種部長、昆虫機能研究官、所長
(独)農業生物資源研究所理事
(財)大日本蚕糸会蚕業技術研究所長・理事
瑞寶中綬章受賞
農学博士

井上元先生

井上元先生

歴代所長名簿

歴代所長名簿

つくばにある初代・加賀山所長の胸像(提供:農業生物資源研究所)

つくばにある初代・加賀山所長の胸像(提供:農業生物資源研究所)

100万頭の蚕を用いて脳ホルモンを発見-小林勝利先生

私は九州大学大学院特別研究生時代から昆虫の変態と脳の関係について関心がありました。当時、数種類の昆虫で脳がホルモンを分泌する機能が明らかにされていましたが、なぜか蚕の脳にはそのような機能がないと、日本でもフランスでも否定されていました。私は蚕の脳の機能が他の昆虫と異なることに疑問を持ち、1951(昭和26)年に蚕糸試験場の生理部に採用されてから、毎年、数種類の蚕品種を用いて蛹になる時期に脳の摘出実験を繰り返していました。そして3年後に、ある蚕品種、日122号X支115号という名前の蚕ですが、蛹になった直後に脳を摘出した除脳蛹が3ヶ月も蛾にならなくて、あたかも休眠した状態になることを発見しました。ちなみに通常、蚕の蛹の期間は約12日です。この発見は脳から変態に関係するホルモンが出ていることを示すものでした。そこで、研究室の皆さんにお手伝いいただいて大量の蛹から脳を取りだし、休眠状態の蛹を生物検定に用いながら、脳からのホルモンの抽出とその働きと化学的な分析研究を開始しました。そして、1969(昭和44)年に脳ホルモン(別名:前胸腺刺激ホルモン)が糖蛋白であることを解明することができたのです。この過程では徹夜の作業もあり、お手伝いいただいた皆さんにご苦労をおかけしました。
貞明皇后さまが養蚕振興に尽くされ、また、皇居の紅葉山には御養蚕所があって、歴代の皇后さまは蚕を飼育され繭を収穫しておられます。このような関係で皇族方や、科学技術関係では外国の著名な科学者が来訪されますので、当時の蚕糸試験場にはそれ相応の貴賓室がありました。
1859(安政6)年の横浜開港のころ、輸出する品目の中で蚕糸類(生糸と蚕種)が総輸出額の83%を占めていました。近代日本の繁栄の源は「カイコさん」とも言われます。蚕業あって蚕糸科学が発達し、蚕糸科学技術で蚕糸業が発展した。まさに産・学・官の連携の大切さを教えています。目先の利益追求ではなく、基礎科学の大切さをこの間に垣間見ます。その意味で、杉並区は蚕糸試験場を通じて国の発展に寄与したと言えると思います。

【プロフィール】
蚕糸試験場生理部蚕形態研究室長、九州支場長、病理部長、企画連絡室長
中国農業試験場長
(株)ロッテ中央研究所常務取締役所長
(財)大日本蚕糸会理事、(財)日本農業研究所理事
紫綬褒章、勲三等瑞宝章、蚕糸・恩賜賞
農学博士

小林勝利先生

小林勝利先生

農林省蚕糸試験場 要覧。1971(昭和46)年出版

農林省蚕糸試験場 要覧。1971(昭和46)年出版

1970(昭和45)年5月、高松宮殿下、常陸宮殿下ご夫妻のご来訪<br>(提供:農業生物資源研究所)

1970(昭和45)年5月、高松宮殿下、常陸宮殿下ご夫妻のご来訪
(提供:農業生物資源研究所)

【証言2】戦争と日野桑園−西村美紗子さん

証言1で語られている蚕糸試験場の様子よりも少し前の時期のことを、研究者のご家族に伺った。
(2014年11月16日 日野市にて)

父、原田忠次は、戦前に高円寺の本場で蚕の雌雄を見分ける研究などをしていました。やがて戦況が厳しくなり、本場の機能は職員ごと福島の支所に疎開。父は体が弱く、試験場で戦争に関わる研究をしているということもあって、徴兵から外されたようです。絹糸は戦争当時、落下傘に使われる貴重品でした。
終戦後に東京へ戻ってきましたが、高円寺ではなく桑が豊かな日野桑園に移りました。職員と家族が住む官舎もできましたが、官舎と言っても桑園の農具小屋をひとまず改良したものです。なお、絵本『ぐりとぐら』の作者、中川李枝子さん・山脇百合子さん姉妹のお父さま大村清之助博士が蚕糸試験場に勤めていらしたので、親しくしていただきました。のちに大村博士は高円寺の場長になられています。日野桑園には第1から第6まで蚕室がありました。私は当時小学6年生で、父の研究のため、蚕の繭をメスで切る手伝いなどをしていました。
本場が高円寺に戻ったあとも父は日野に残り、後進国の指導のためインドなどに行きながら研究を続けました。76歳で亡くなった後に正五位旭日双光章をいただいて、私と弟がつくばまで受けに行ったのですが、生きているうちに渡してあげられればなお良かったと思っております。

日野桑園の蚕室の前にて。右前が原田忠次先生、右後が西村美紗子さん。1950年頃に撮影(提供:西村家)

日野桑園の蚕室の前にて。右前が原田忠次先生、右後が西村美紗子さん。1950年頃に撮影(提供:西村家)

1961(昭和36)年9月30日の国際遺伝学会議の様子(提供:西村家)

1961(昭和36)年9月30日の国際遺伝学会議の様子(提供:西村家)

DATA

  • 取材:西永福丸
  • 撮影:西永福丸、TFF
  • 掲載日:2015年01月26日