1.杉並の養蚕の歴史

はじめに

毎年、小正月になると杉並区立郷土博物館に子供たちの作った「まゆだんご」が飾られる。杉並で養蚕が行われていた頃の農家の行事を再現したものだ。農業が主要産業であった昔の杉並では養蚕も収入源の一つで、蚕を「おこさん」と呼びながら大切に育ててきた。また、現在蚕糸の森公園となっている場所には、1980(昭和55)年まで農林省蚕糸試験場があり、国の重要な研究機関として生糸生産の発展に貢献してきた。
明治・大正時代の養蚕農家や蚕糸試験場のありし日の姿と、区内の子供たちが学ぶ授業などの取材を通して、杉並の養蚕の昔と今をまとめてみたい。

蚕の繭

蚕の繭

明治時代に普及した杉並の養蚕業

明治から戦前の日本において、養蚕は輸出額の半分近くに関わる重要な産業であった。1909(明治42)年の生糸生産高は世界1位である。
杉並でも、明治初年度に出された養蚕激励政策に応じて、多くの農家が蚕の飼育を始めた。『杉並区史 中』には「養蚕は明治30年代以降にかなり普及した。」と書かれている。ただ、「他の地域と比べると杉並区域での普及は一歩遅かった。」とのこと。同書に、1885(明治18)年11月に東京府知事(※1)が阿佐ヶ谷村を視察した「巡回記」が載っており、養蚕に関する記述がある。
「上下井草ノ辺ハ養蚕ノ道モ開ケ居レトモ此村辺ハ否ラス。畑ノ端ニ桑樹アル所多ケレトモ、之レハ養蚕ノ利益アルコトヲ知リテ飼養ヲ試ルコト年々ナリシ故ナリ。(中略)近村人民モ亦養蚕ノ利益ヲ知ル。故ニ飼養ノ心アルヲ以テ桑ヲ植ル。」
養蚕の利益を知って、村のあちこちに蚕のエサにする桑を植え始めた様子がわかる。だが、蚕は病気になることが多く繭の収穫も不十分で、「良結果ヲ得シコトナシ。」と評されている。そのため、ほとんどの農家では養蚕は小遣い稼ぎの副業に留まっていた。
それでも努力を続けた養蚕家もおり、1887(明治20)年に開催された東京府他9県連合での繭糸織物共進会で「下高井戸村の富小路治直が六等で入賞し、褒奨金として金一円もらっている。」との記録が残っている。また、『豊多摩郡誌 大正4年(※2)』の調査では、井荻村の養蚕が「郡中一位に居り飼育戸数二百戸に超え」たとある。
だが、そのような例を除き、杉並区域の農業は明治後期頃から生鮮野菜中心に切り替わっていく。「キュウリ畑の収穫価の方が、同じ広さの桑園で飼育する蚕の繭の売価よりも2倍半も高かった。」(『杉並区史 中』)とあれば、都市近郊畑作地帯であった杉並区域の当然の選択と言えよう。
戦後、日本の生糸生産量も、農業人口の減少と化学合成繊維の開発によって大幅にダウンした。1967(昭和42)年には輸入高が輸出高を超え、以降完全な輸入国となっている。

※1 東京府:現在の東京都にあたる地域。1868(明治元)年から1943(昭和18)年までの日本の府県の一つ。
※2 豊多摩郡:現在の杉並区・中野区・渋谷区・新宿区の一部が含まれる地域。

「まぶし」という枠の中で繭を作る蚕

「まぶし」という枠の中で繭を作る蚕

繭を煮て糸をとる

繭を煮て糸をとる

豊多摩郡一の養蚕村、井荻村と弘進社

杉並全体として見るとさほど奮わなかった区内の養蚕業だが、大正時代の井荻村は大きな収益を上げていた。『東京府豊多摩郡誌梗概 明治四十一年九月』の蚕業の説明に、「熱誠斯業ノ改良発達ニ意ヲ傾クルモノ井荻村ニハ弘進社アリ」と書かれている。井荻村で蚕の改良が行われていたというのだ。
「弘進社」は井草の大沢初蔵氏が主催した養蚕組合である。大沢氏は、繭の収穫量は蚕種紙(※3)の良し悪しにあると考え、全国各地から蚕種紙を取り寄せて杉並の風土に適するものを発見した。その結果、収益は従来の倍以上になり、村民からも蚕種紙の斡旋を頼まれるようになる。1895(明治28)年に大沢氏の主催で弘進社が設立されると、井荻村の養蚕は飛躍的に発展。豊多摩郡一の養蚕村へと成長した。
この弘進社が1898(明治31)年に奉納した繭の献上額が、荻窪白山神社と井草民俗資料館にある。組合員が生産した繭玉が納められた珍しい額で、当時の繭の状態が見られるほか、養蚕の発展を願う人々の思いを感じとることができる。
1912(明治45)年に原蚕種製造所(後の蚕糸試験場)が作られ、技術員による指導が開始されると、弘進社は徐々に自然休止状態になっていく。1921(大正10)年に大沢氏が亡くなると、郡中一位を誇っていた井荻村の養蚕は廃れ、主要農産物も野菜や沢庵漬けに変わっていった。

※3 蚕種紙:さんしゅし。蚕の卵が産みつけられた紙

■荻窪白山神社
住所:東京都杉並区上荻1-21-7
電話:03-3398-0517

荻窪白山神社にある弘進社の繭額

荻窪白山神社にある弘進社の繭額

荻窪白山神社。事前に連絡すれば、神楽殿にある繭額を見学することが可能

荻窪白山神社。事前に連絡すれば、神楽殿にある繭額を見学することが可能

大沢初蔵氏のひ孫、大澤俊氏の話

下井草にある大澤家には、弘進社の活動状況などをはじめ、幕末から明治にかけての井荻地域の養蚕業について書かれた資料94点が残されている。大沢初蔵氏のひ孫の大澤俊(たかし)氏から、養蚕についての話を伺った。
「私が生まれたときには初蔵は亡くなっていましたが、立派な人物だったと聞いています。交通が発達していない時代に、馬に乗って長野まで蚕種紙を買いに行ったこともあったそうです。我が家の庭には、昨年まで蚕屋が残っていました。近年はたきぎ小屋に利用していましたが、養蚕を行っていた時代は養蚕専用に使われていた小屋です。屋根は麦わらで、床は竹をひいて縄で編んでありました。寒さに弱い蚕を温めるために下から煙をたいて育てていたのでしょう。」
大澤家にはさまざまな古民具も保管されており、蚕の卵を入れていたという棚も残っていた。俊氏は貴重な文書や民具を守りながら、自治会会長等を務め、村の発展に尽くした初蔵氏同様、地域貢献に励んでいる。

大澤俊氏と、自宅前にある文化財案内柱

大澤俊氏と、自宅前にある文化財案内柱

所蔵文書の一つ『明治七年 蚕事』。「種よしあしの事 種小つぶでも手ざわりして落ちないのがよい。大つぶでも重ね生み手ざわりして落ちる種は悪い」ということが書かれている

所蔵文書の一つ『明治七年 蚕事』。「種よしあしの事 種小つぶでも手ざわりして落ちないのがよい。大つぶでも重ね生み手ざわりして落ちる種は悪い」ということが書かれている

蚕の卵を保管していた棚。当時は保温のため内部に詰め物がされていた

蚕の卵を保管していた棚。当時は保温のため内部に詰め物がされていた

DATA

  • 出典・参考文献:

    『新修杉並区史 中』東京都杉並区役所
    『杉並区の歴史』杉並郷土史会(名著出版)
    『杉並風土記 上』森泰樹(杉並郷土史会)
    『杉並風土記 中』森泰樹(杉並郷土史会)
    『杉並歴史探訪』森泰樹(杉並郷土史会)
    『杉並区史探訪』森泰樹(杉並郷土史会)
    『東京府豊多摩郡誌』東京府豊多摩郡役所(名著出版)
    『東京府豊多摩郡誌 明治四十一年九月』東京府豊多摩郡役所
    『東京府豊多摩郡誌梗概』
    『杉並郷土史会会報合冊 』杉並郷土史会
    『すぎなみの散歩道』 杉並区教育委員会
    『日本蚕糸業史分析』石井寛治(東京大学出版会)
    『蚕糸業の発達に寄与した主な試験研究業績』 蚕糸試験場
    『蚕糸試験場創立50周年記念 研究業績沙録集』蚕糸試験場
    『試験場の生い立ちと90年の歩み 蚕友文化26号(2000年)』栗林茂治
    『農林水産省蚕糸試験場の沿革とそのルーツをたどる 岡谷蚕糸博物館紀要 第7号』小林勝利
    『まちものがたり 第1巻 蚕がつくったまち』 杉並区まちづくり公社
    『祈りと願いー杉並の絵馬ー』杉並郷土博物館
    『杉並区郷土博物館 常設展示図録』杉並郷土博物館
    『せたがやの養蚕ー卵から繭までー』世田谷区教育委員会
    『織るー繭から織物までー』世田谷区教育委員会教育部管理課民家園係
    『井口家の長屋門』 杉並区教育委員会
    『東京府統計書 大正10年』東京府
    『シルク大国インドに継承された日本の養蚕の技』山田浩司(ダイヤモンド社)
    『たのしい理科 3年』大日本図書

  • 取材:西永福丸
  • 撮影:西永福丸
  • 掲載日:2015年01月26日