1.これが杉並メダカだ

絶滅危惧種のメダカは「杉並メダカ」と名づけられた

東日本型DNAを持つ最後の野生メダカ
荻窪生まれの須田孫七さん宅で60年以上飼育されている上井草・四宮の田んぼ生まれのメダカは2007年12月、東京都の野生生物保全センターのDNA検査により東日本に生息した純血種のDNAを持つ貴重なメダカであることが判明。学術的に衝撃を巻き起こした。

「荻窪メダカ」ではなく「杉並メダカ」と名づけた理由
限定された産地から呼称をつける際、行政区分の「杉並」ではなく旧来呼ばれる地名の「荻窪」と名づけるのが通例である。しかし須田さんはあえて「杉並」を選んだ。実は「荻窪」という地名は他にも存在し、唱歌「めだかの学校」のモデルとなった川も神奈川県小田原市の荻窪という場所で、現地には歌碑も存在するため、日本で一ヶ所しか存在しない「杉並」を貴重なメダカたちに名づけたのだ。

飼育により生き残った純血種のメダカは都内でここ杉並区だけ
発見された貴重なメダカは都内の研究施設で厳重な管理の下「種の系統保全」のための飼育がされている。野生生物保全センターの調査により、都内全域の絶滅危惧種のメダカを調査した結果、東京都内では杉並区の須田さん宅で飼育されていたメダカと世田谷・調布の各一ヶ所が純血種と判明。
杉並メダカの一部は系統保全のため、都内の研究施設(非公開)で飼育中。杉並メダカは今や貴重な国の財産として保護されている。

▼関連情報
童謡「めだかの学校」のモデルについて
小田原市役所(外部リンク)

メダカ飼育のきっかけは戦時中の防火用水のボウフラ退治

第二次大戦の戦況悪化が見え始めた昭和19年頃、井の頭自然文化園水生物館では空襲に備えた防火用水槽のボウフラ退治用にメダカを繁殖させ各地に供給していたが、やがて親メダカが不足する事態となった。当時、都立農芸学校1年に通う12歳の須田少年はその事業に協力するため友人と連日親メダカ採集をしていた。採集地は井草川流域の四宮にある学校の開墾実習の水田付近の用水路である。当時の四宮は沼地で、湧水もあり、水生生物の宝庫であった。

終戦後メダカは不要に
昭和20年、終戦を迎えると防火用水槽は不要となり、同時にメダカも不要となった。それまで繁殖させていたメダカの大半は井の頭池に放したが、昆虫少年だった須田少年はメダカの一部をトンボのえさ用に持ち帰り、自宅で飼いはじめたのだった。

井草川付近

井草川付近

戦後の高度成長、杉並区内の自然の池や川のメダカはいなくなった

須田少年は終戦後、不要となった防火用水のボウフラ退治用のメダカを川に戻さず自宅の庭で飼い続けることにした。昭和30年代の高度成長期を迎えると杉並は急激な宅地化が進み、区内の水田と用水路は次々と埋め立てられてしまった。
急激な開発は下水道の不備と相まって水辺環境は汚染され、悪臭放つどぶ川ばかりになり、豊かだった水生生物は姿を消し、再びボウフラの大量発生を招いた。この状況ではメダカによるボウフラ退治は到底無理で、やがて杉並区内の小川の多くは蓋をされ暗渠となってしまったが須田少年の自宅の池で飼育されたメダカは無事生きのびることができたのだった。

土管の埋設工事(昭和28年1月撮影場所不明)

土管の埋設工事(昭和28年1月撮影場所不明)

杉並メダカは「自然淘汰」されることで屋上池に適正な生息数を保ち60年間「種の系統保存」を維持し続けた

須田さんに、現在の杉並メダカの飼育状況についてうかがった。
「この貴重な杉並メダカは「自然淘汰」され屋上の池に適正な生息数を保ち60年間「種の保存」を維持し続けることができたのです。屋上の池には天敵除けの網を張る以外は本来の生息場所の自然環境に極力近い状態を維持するための努力もしています。」
「屋上の池で使う道具と下の庭の池で使う道具は共用しない、別の池を触るときは手をきちんと洗い、卵が池を移動しないようにする。新しい水草を池に入れる際は別の水槽で約1週間隔離して、余計な生物や病気を持ち込まないようにする、人工のエサは必要最小限しか与えないなど専門的な見地から細心の注意を払って飼育しているのです。」

個人宅の池ゆえ交雑することなく60年間生きながらえた
「杉並メダカの存在が報道され、多くの方から譲ってほしいという話がありますが「種の系統保存」の見地からお受けできません。須田さん宅で保存され生き延び続けた杉並メダカは都内の研究施設で厳重な管理の下、後世まで伝え続けるべき貴重な遺伝子資料として飼育されています。須田さん宅では自宅の水槽で育つ適正な個体数を『自然淘汰』という形態で飼育しています。」

須田さん宅での飼育の様子

須田さん宅での飼育の様子

DATA

  • 取材:藤山三波、小泉ステファニー
  • 掲載日:2012年06月01日
  • 情報更新日:2020年12月22日