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桐の木横町

著:伊馬春部(河出書房『新選現代戯曲 第四巻』に収録)

脚本家・伊馬春部(いま はるべ)の作で、1933(昭和8)年、ムーラン・ルージュ新宿座(※1)で大ヒットした芝居の演目。
東京郊外の新興住宅地。横町の入口から、大家さんの家、病院の代診の家、学威院の先生の家、若い男女の共同生活の家、ダンサーたちの家。
子どもたちが横町の小径の敷石を跳びながら石の数当て遊びをしている。秋季皇霊祭(※2)で、午前中で仕事を終え帰宅した学威院の先生。自分の娘だけでなく横町の子どもたちも連れて、多摩御陵参拝と称し高尾山に遠足に出かけることになる。
ご近所さん同士のうわさ話、夫婦の会話、大家さんと住民の会話、共同生活の二人の仕事帰りの会話、たまに姿を現す郵便屋…、横町の小径で起こる日常が、スケッチ風にユーモアと風刺を交えて、ときに哀愁も漂わせテンポよく展開する。
ダンサーたちの勤め先の劇場が火事にみまわれたり、事件も起こるが、横町の住民たちは協力して乗り越えていく。

おすすめポイント

脚本は、伊馬が荻窪駅北口からほど近い天沼の横町に暮らしていた時期(※3)に書かれ、天沼の新興住宅地の住人たちの日常が反映されている。横町の家々には桐の木が植えられており(※4)、そのさまから芝居のタイトルとした。上演されるや、はやりの郊外生活を送る層、ことにマイホーム主義、自由恋愛主義といった新しい価値観を持つ学生、サラリーマンを中心に好評をはくし、伊馬の暮らす横町は、桐の木横町と呼ばれるようになった。「桐の木横町」に次いで、天沼の住人たちをモデルにした「かげろふは春のけむりです」も好評。伊馬は脚本家としての実績を積み上げた。戦後はラジオドラマの台本を書き、「向う三軒両隣り」、「本日は晴天なり」など、数多くの名作を手がけ、人々を楽しませ続けた。

▼関連情報
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※1 ムーラン・ルージュ新宿座:1931(昭和6)年、創立された小劇場。1951(昭和26)年、閉館するまで、数多くの俳優、演劇関係者を輩出した。公演は、芝居とダンスなどのバラェティショーで構成された。屋上の赤い風車がシンボル、新宿駅東口かいわい、甲州街道近くにあった

※2 秋季皇霊祭:戦前、歴代天皇、主たる皇族の忌日とされ休日だった日。学校では午前中、行事が行われた。現在は秋分の日となっている

※3 天沼の横町に暮らしていた時期:伊馬は、学生時代から天沼内を転々とした。荻窪駅北口近くの家は、師事した井伏鱒二の家が隣町、清水にあり、頻繁に訪問した。ムーラン・ルージュ文芸部への就職は、井伏の紹介によるものだった。伊馬は、井伏の家で、同世代の太宰治、小山祐士らと知り合い親交を深めた。太宰の家は、伊馬の家から歩いてすぐの至近距離にあった

※4 桐の木が植えられており:伊馬は、「大きな桐の木がこれらの平屋建ての屋根より三倍も高く、並んで聳え立っていた」(「青い花」より)、井伏は、「家主が一軒に一株ずつ桐の木の苗を植えるのが作法だとされていた」(『荻窪風土記 』「天沼の弁天通り」より)と記している

※本書は絶版となっているが、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる

ムーラン・ルージュ新宿座での「桐の木横町」公演の様子(『新喜劇叢書2 桐の木横町』西東書林 より)

ムーラン・ルージュ新宿座での「桐の木横町」公演の様子(『新喜劇叢書2 桐の木横町』西東書林 より)

桐の木横町のあったかいわいの現在の様子

桐の木横町のあったかいわいの現在の様子

DATA

  • 取材:井上直
  • 掲載日:2026年02月09日