太宰治の愛した「ステッキパン」

太宰治とステッキパン

大正末期から昭和の初めにかけて、杉並では多くの作家や芸術家たちが創作活動に励んでいた。その暮らしぶりはどのようなものだったのか、特に食生活に目を向けてみたところ、太宰治の好物が出てくる文書を発見。もはや存在していないその食べ物を、太宰ゆかりの荻窪の地で再現した。

杉並時代の太宰治ひいきの店は、意外にも荻窪のパン屋であった。このパン屋、太宰の無二の親友、伊馬春部作の芝居の脚本に実名入りで登場する。
久丸(伊馬春部)が、転地療養のため船橋に移っていた太宰(太宰治)と初代(小山初代)夫妻を訪ね、「荻窪の小沢のパン…」と包みをあけステッキパン、ラスクパン、カタパンを取り出す場面。

「太宰と初代、大いによろこぶ―
太宰 (さっそくステッキパンをかじって)うむ…うまい…まったく久しぶりの味覚だ…。(などとサービス精神を発揮して)初代、はやくコップ…。」(『昭和42年 マールイ公演 櫻桃の記-もう一人の太宰治―』)

また、この場面は昭和11年10月4日の伊馬の日記にも、「小沢パンにて彼のよく食べていゐるステッキパン、ラスクパン、カタパンを買ひ、太宰を訪ねむとの目的にて東中野駅にて小山裕士と待ち合わす」(伊馬春部著『櫻桃の記』中公文庫)と記載されている。
当時、太宰は万全の準備で臨んだ第3回芥川賞に落選、失意で体調をさらに悪化させていた。そんな太宰を励ますためのおみやげ選びは、同じく天沼に住んでいた伊馬氏ならではと言えよう。
若き太宰というとインバネス姿(スコットランド由来のコードの一種)だが、 この頃はステッキも愛用していた。そのせいか、芝居によると、太宰の好みはとりわけステッキパン。多難な杉並時代、太宰にとって「小沢パン」のステッキパンの味は、救いの味だったのかもしれない。
(※引用部分の「小沢」表記は原文どおり)

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の文士たち>太宰治さん

上:船橋にて妻初代と 写真下:船橋にてステッキを手にする太宰治 出典:「図説 太宰治」筑摩書房

上:船橋にて妻初代と 写真下:船橋にてステッキを手にする太宰治 出典:「図説 太宰治」筑摩書房

昭和の初めに存在した小澤パン店

太宰治がひいきにしていた荻窪の「小沢パン」は、はたしてどこにあったのだろうか?
現在、荻窪近辺で営業をしているパン屋を探してみたが、「おざわ」と名のつく店は見つからなかった。そこで、太宰が暮らしていた時代の地図を探ってみる。昭和初期の杉並区の地図(東京交通社発行「大日本職業別明細図 昭和8年当時」)で、荻窪周辺の店をくまなく調べていくと、なんと、荻窪駅の北側に「小沢屋パン店」という名前が見つかった。今のDaiwa荻窪タワー(旧インテグラルタワー)が建っているあたりである。太宰が天沼に住んでいたことを考えると「小沢パン」の位置はまずここで間違いないだろう。
また、昭和4年3月25日発行の「杉並町報」に下記のようなタイトルの記事を発見した。
「製パン研究講習会 27日荻窪駅北口 小澤製パン工場で」
さらに同年3月30日の新聞には講習会の続報として、「小澤パン店主催の家庭製パン無料講習会は(中略)~来会者多数にて盛会であった」という後日談が掲載されている。昭和初期にパンの講習会を行っていたところから、小澤パン店は先進的であり、また地元で親しまれていた店であったことが想像できる。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 歴史>杉並名品復活プロジェクト>続 太宰治の愛した「ステッキパン」

上:昭和8年の地図 下:「杉並町報」の記事

上:昭和8年の地図 下:「杉並町報」の記事

昭和初期のパンってどんなパン?

太宰が食べていた昭和の初期のパンは、どのようなパンだったのか?パンのできあがりに大きく影響する素材として、「小麦粉」と「酵母」という観点から調べてみた。
まず小麦粉だが、当時のパンに使われていた物について財団法人製粉振興会に問い合わせたところ、「アメリカ産のハード・レッド・ウィンター小麦を原料にして挽いた灰分が0.5%くらいの粉だったと推定されます。現在、当時と同じものはありませんが、現在の準強力粉の2等粉がかなり近いと考えられます」という情報をいただいた。
また酵母については、オリエンタル酵母工業株式会社が昭和6年から国産イーストの販売をパン屋向けに開始したとの情報を得た。早速、当時の酵母についてうかがうと、「当社が販売を開始する前は、自家製のパン種か、大正末期から輸入されていたドライイーストを使用するのが主流だったようです」との回答が得られた。

調理中のステッキパン

調理中のステッキパン

ステッキパンを想像する

当時のパンに使われていた小麦粉と酵母がおおよそわかったので、再現に協力してくれるパン屋を探すことにした。白羽の矢を立てたのは、かつて小澤パン店があった場所の至近で営業をしている「吟遊詩人」である。ステッキパンの復刻を相談したところ、ブーランジェリーの清澤さんは偶然にも太宰ファン。毎日太宰治が住んでいた碧雲荘を見ながら出勤しているそうで、試作を快く引き受けてくれた。
完成したステッキパンは、形こそ違えど味わいはフランスパンのよう。パリッとした皮に、しっとりとした中身。噛めば噛むほど小麦の味を感じる素朴なパンに仕上がった。嬉しいことに、吟遊詩人ではこのパンの販売を検討中とのこと。販売時期が決まり次第、このサイトでも報告する予定だ。

太宰治の食にまつわる話は少なく、その食生活は謎に包まれている。そんな中、好物だったという「ステッキパン」。よほど魅了されたに違いない。「このパンを食べながらどんなことを考えていたのだろう。」太宰に思いを馳せながら、昭和初期のパンを味わってみてはいかがだろうか。

※「吟遊詩人」でのステッキパンの販売は終了いたしました

上:「吟遊詩人」の清澤さん 下:再現されたステッキパン

上:「吟遊詩人」の清澤さん 下:再現されたステッキパン

続 太宰治とステッキパン-なぜステッキパンを好んだのか?
※2014年6月加筆

なぜ太宰治は小澤パン店の数あるパンの中で、とりわけステッキパンを好んだのだろうか?
太宰が心酔していたフランスの詩人、ヴェルレーヌの影響があったのではないかと思われる。ステッキパンはヴェルレーヌの二つの代名詞、ステッキと神への信仰(パンはキリスト教ではキリストの肉体を意味し、聖なる食べ物)とを兼ね備えている(※)。伊馬春部の芝居で太宰が真っ先に手を伸ばしたのはステッキパンだが、実際にそうであったのかもしれないし、太宰のヴェルレーヌ好きを知る伊馬の粋な演出なのかもしれない。
のちの太宰作品にもステッキはたびたび登場する。『服装に就い て』では、自らのファッションの嗜好としてのステッキを語り、『陰火』『火の鳥』『黄金風景』『パンドラの匣』などでは、ステッキに、生と死、善と悪、神と悪魔といった相反する不条理のイメージを重ねている。とくに『二十世紀旗手』には、ステッキとパンが同時に語られる一節がある。
「生きていくためには、パンよりも、さきに、葡萄酒が要る。三日ごはん食べずに平気、そのかわり、あの、握りの部分にトカゲの顔を飾りつけたる八円のステッキ買いたい。」
そうはいっても、パン、食べたい…。小澤パン店のステッキパンをかじる太宰の胸中に渦巻いていた、複雑なイメージを彷彿させる。

※ヴェルレーヌは、フランス象徴派の代表的詩人。波乱と放浪の人生に540篇余の珠玉の詩を残した。キリスト教への信仰心を謳った詩も多く、パンは、太宰が最も愛誦した詩、『知恵』の一節にも登場する。晩年は詩王と尊敬されながらも貧困に苦しみ、膝を病んでステッキにすがりながら病院を転々とした。ちなみに、ステッキもキリスト教では聖なるものだが、同時に異端を意味する。船橋時代の太宰のステッキがヴェルレーヌのステッキに姿形が似ているのも、暗示的なものを感じさせる。

小澤パン店の写真  ※2015年7月加筆
『伸びゆく杉並 昭和7年』(西部日報社)に、小澤パン店の写真が掲載されているのを発見した。同書には、「天沼一四一荻窪駅北口 電話荻窪一○一五番」という情報も記されている。看板の文字は「小沢」という表記であった。

小澤パン店の外観(『伸びゆく杉並 昭和7年』より)

小澤パン店の外観(『伸びゆく杉並 昭和7年』より)

DATA

  • 取材:小泉ステファニー、井上直
  • 掲載日:2014年05月08日
  • 情報更新日:2022年04月08日

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