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東海将彦さん

野球少年、スキーに出会う

滑ることが苦痛から喜びへ
私は杉並育ちで、スポーツは幼少時から野球一筋。スキーの初体験はかなり遅く、中学1年の学校のスキー教室でした。うまく滑れず、楽しさより苦痛だけが残ったスキーとの出会いでした。自由に滑る楽しさを知ったのは、中学3年の春休みに友人と行ったスキー旅行の時。長野県のいくつかのスキー場を回るうち、白馬スキー場で偶然アルペンスキー大会を観戦したことで、出場選手のようにうまく滑りたいという気持ちが湧いてきました。高校にはスキー部がなかったのですが、試合に出たい気持ちは強く、学校にお願いして個人の資格で大会に出られるルートを作ってもらいました。

スキーのために単身アメリカへ
高校2年の夏に、レベルアップのためアメリカへのスキー留学を決意しました。留学当初は英語での意思疎通がつらかったのですが、半年くらいで慣れました。それからは、練習環境の整ったアメリカで、大学を卒業するまでひたすらスキーに打ち込む生活が続きました。スキーの面白さは、自然が相手というところですね。現地の雪の状態は、行ってみないとわからないことが多いですし。自分の力ではどうにもならないものにチャレンジするところに、スキーの楽しさがあります。

東海将彦さん

東海将彦さん

障がい者アルペンスキーに夢をつなぐ

足が動く限りスキーがしたい
日本に帰国後はコーチ業の傍ら、国内の大会に出場するという生活が続きましたが、2001(平成13)年の1月に長野県のさかえ倶楽部スキー場で脊髄損傷という大けがを負ったことで人生が大きく変わりました。滑走中にこぶを飛び超えようとジャンプした拍子にスキーが外れ、尾てい骨から雪面に叩き付けられるという事故。手術に10時間もかかりました。車椅子生活も覚悟していたのですが、手術後に足が動くのに気付き、スキー競技に復帰する希望が見えてきました。経過は順調で5月頃には歩けるようになりましたが、足に力を伝えるのが困難で、今までのように滑ることは難しい状態でした。

第2のスキー人生の始まり
そんな折、障がい者アルペンスキーに自分のような状態の選手が参加できる立位(以下種目はすべて立位)というクラスがあり、パラリンピック出場も可能であることを知りました。世界で活躍するという希望に突き動かされ、過去を忘れて一から障がい者スキーへのチャレンジを始めました。滑走技術をけが前と変えることはもちろん、スキーブーツの調整も重要です。ブーツを自分の足の調子に合わせてオーダーメイドできる国産メーカーのものに切り替えました。

愛用のスキーを手にリラックス(写真提供:東海将彦さん)

愛用のスキーを手にリラックス(写真提供:東海将彦さん)

障がい者アルペンスキーで一気に世界へ駆け上がる

活動するにはまずスポンサー
2002(平成14)年2月のジャパンパラリンピックでは、初出場で2種目(回転、大回転)を制し、再び活躍の場ができたことが嬉しかったです。2003(平成15)年には、スキー連盟の強化選手に選ばれ海外の大会を連戦する日々が始まりましたが、困ったのは遠征費用の捻出です。障がい者の派遣会社に相談したところ、アスリートとして採用してくれる企業を探してもらえました。採用された企業から社員としての給与をいただくことで、費用の問題は解決し、競技に専念することができるようになりました。

嬉しさと悔しさが半々の表彰台
2006(平成18)年のトリノパラリンピックを目標に国際大会で経験を積み、2004(平成16)年オーストリアの世界選手権で2種目優勝(回転、スーパー大回転)など、成果を上げることができました。トリノパラリンピック直前には2種目が世界ランク1位だったので、1つくらいは金メダルが獲れるのではないかと自信はありましたが、甘かったですね。大回転の1本目を3位につけ、いけると思った2本目では意欲が空回りして2位に。結局、合計タイムで2位となり銀メダルを獲得しました。やはりパラリンピックは重みと緊張感が他の試合とまったく別で、普段どおりに滑ったつもりでも、かなり気負いがあったのだと思います。銀メダルは嬉しかったのですが、満足のゆく滑りができなかったことに悔しさが残りました。

ワールドカップ総合優勝のトロフィー

ワールドカップ総合優勝のトロフィー

トリノパラリンピックの銀メダル

トリノパラリンピックの銀メダル

山あり、谷あり。スキーとともに生きる

不本意に終わった2度のオリンピック
トリノ後、2008(平成20)年までは順調に国際大会で結果を残すことができましたが、翌年2月にカナダで滑降コースを滑っている時にすねを骨折してしまいました。滑降コースは急傾斜で危険が伴うため、事故以降は安全優先で滑るのをやめにしました。結局その時のけがが治りきらず、2010(平成22)年のバンクーバーパラリンピックの選手選考レースへの出場は断念しました。この事故の後遺症の痛みは今も残っています。本調子とは言えない状態で出場した2014(平成26)年のソチパラリンピックは、足首の痛みと、足への衝撃が大きい軟らかい雪質のため、10位以内にも入れず悔いの残った大会になりました。

年齢の壁、体力の壁に挑戦
悩まされてきた足首の痛みは今年の春先から薄れ、3月の全米選手権では2種目((回転、大回転)で優勝と、復調の兆しが見えてきました。目標は2018年韓国平昌(ピョンチャン)のパラリンピック出場。その時は44歳になっているので体力の衰えはあるかもしれませんが、けがに気をつけてトレーニングをつめばいけると思っています。平昌の固い雪質が、滑り慣れているアメリカに似ているのも好条件。身体と気持ちが続く限り現役続行です。
現在は、1年のうち大半はアメリカを拠点に活動し、日本にいるのは夏場の数ヵ月のみ。オフの時期は、スキー用具の調整や筋力トレーニングと来シーズンに備えています。滑っていなくても、スキーが生活の中心ですね。

障がいを感じさせない豪快な滑り(写真提供:パラフォト)

障がいを感じさせない豪快な滑り(写真提供:パラフォト)

競技生活のリフレッシュは杉並で

実家は杉並区にあり、帰国時には杉並区で過ごしています。生まれ育った街に戻ってくると落ち着きます。幼少時からのなじみの永福町北口商店街は、さまざまな店がコンパクトにまとまっていて利便性が良く、安心感があります。車社会のアメリカから帰国するとなおさら、徒歩で暮らせる街の良さを感じます。地元の草野球チームにオフの時期だけ参加していますが、ここでもハンディ付きなんです。走るのを免除してもらい、昔なじみの仲間との交流を楽しんでいます。草野球の仲間の1人は、スポンサー探しに一役買ってくれたこともあります。
競技選手の引退後は、コーチ業を考えています。日本の障がい者アルペンスキー競技人口は減少の一途をたどっているので、まずは裾野を広げたいですね。選手の強化はその後でもいいかなと。これからも、1人でも多くの人にアルペンスキーに興味を持ってもらうため、活動を続けていきます。

取材を終えて
「人生を自ら切り開く。」東海さんのスキー人生を伺って、まずこの言葉が頭に浮かんだ。笑顔を絶やさない穏やかな口調の中に、数々の苦境を乗り越えてきた強靭な意志の存在を感じた。スキーをするためにひたすら行動した高校時代に始まり、40歳を過ぎてなお現役アスリートとして活躍している現在まで、スキーへの愛に裏打ちされた、東海さんの積極的な生きる姿勢は魅力的だ。それが、これまで東海さんを支えてきた人々に、彼のために何かしたいという気持ちをおこさせたのではないだろうか。東海さんが平昌のゲレンデにどのようなシュプールを描くのか、楽しみにしている。

東海将彦 プロフィール
1973年11月13日杉並区和泉生まれ。
高校3年よりアメリカにスキー留学後、現地の大学に進学してスキー部で腕を磨く。2001年、滑走中のけがで脊髄損傷。両下肢機能障がいとなり、障がい者アルペンスキーを始める。2002年、ジャパンパラリンピックで初出場初優勝。2004年、世界選手権回転・スーパー大回転で優勝。以後、ワールドカップでも活躍し、トリノパラリンピック大回転では銀メダルを獲得する。現在もアメリカを中心に選手生活を続け、2015年3月の全米選手権では2種目優勝と成果を収めている。

大切な銀メダルを手にして

大切な銀メダルを手にして

DATA

  • 取材:村田理恵
  • 撮影:嘉屋本 暁 写真提供:東海将彦さん、パラフォト
  • 掲載日:2015年08月10日