丸美屋食品工業株式会社

創業者、阿部末吉氏の決意

閑静な住宅地である「松庵」は、隣町で駅名にもなっている「西荻窪」や「久我山」にくらべ、少々知名度が低いかもしれない。そんな松庵に、ふりかけで有名な丸美屋食品工業株式会社の本社がある。

丸美屋の創業者である阿部末吉(すえきち)氏は1902(明治35)年12月、新潟県南蒲原郡今町(現在は見附市)で生まれた。雑貨商を営む父・佐藤重郎次と母・ふみ、兄2人姉1人を持つ末っ子。小学校高等科に進む頃にはすでに家業の手伝いに精を出し、商売の感覚『商魂』を自然と身につけるにはふさわしい環境だった。
家業を手伝いながらの勉学だったが、成績もよく尋常5年から高等2年(今の小5~中2年)14科目の平均点が10段階評価で9,6、100点満点で96点という好成績を通した。しかし「いずれは東京で商売を覚えたい」という気持ちが強く、1919(大正8)年17才の時に仕入れをかねて初めて上京。賑やかな東京に衝撃を受けた末吉は、東京に出てみたいという気持ちがいっそう強くなった。周囲の反対もあったがその意志は変わらず、両親の反対を押し切り上京する。
東京・日本橋のメリヤス問屋などで丁稚奉公(でっちぼうこう)をはじめるが、思い描いた理想と現実の違いが大きすぎたのか短期間で帰郷。この上京で学んだことのひとつは「学問や知識の必要性」だった。帰郷した末吉は家業を手伝いながら、再び上京する機会を待った。

「是はうまい」の発案者・甲斐清一郎氏との出会い

1927(昭和2)年、24歳の時に末吉氏は再び上京する。この少し前、末吉氏はふりかけの源流ともいえる「是はうまい」を開発した甲斐清一郎氏と出会い、東京で食料品の販売を始めようと準備をしていた甲斐氏に招かれたのである。
甲斐氏は福岡県門司市(現在の北九州市)出身。すでに福島市の公設市場に店を構えており、みやげ物や食料品などを販売していた。商人というよりも研究者タイプで、商品の開発や味の研究に熱心に取り組み、1925(大正14)年に「是はうまい」を開発し福島で販売をはじめた。当初から売れ行きは好調で、甲斐氏は東京進出を計画する。後に東京・荒川区の尾久に「丸美屋食料品研究所」を興す。「丸美屋」という名は、九州にある甲斐氏の実家の屋号であった。研究所は工場、従業員寮、甲斐氏の自宅を兼ねたもので、この研究所の一室に末吉氏も同居した。

創業時から凄腕営業マンとして活躍
「是はうまい」は当時の高級食品と位置づけされており、裕福な家庭に賞味された。価格は45グラム入り1瓶35銭で、米が当時1升(約1.5キロ)30銭だったことを考えると、いかに高級品として扱われていたかがわかるだろう。
末吉氏は丸美屋食料品研究所で営業を担当する。幼少時から商才を磨いてきた身としては自然な流れであった。周辺の食料品問屋へ足を運び売り込み、翌日には前日にとった注文を午前中に出荷させ、午後には問屋を訪問して売り込みという日々。売れ行きは好調であったが、末吉氏は常日頃から「どうしたらもっと売れるのか」と考えていた。そんななか思いついたのが百貨店・三越への売り込みだった。高級品の「是はうまい」を、「今日は三越、明日は帝劇」という流行語さえあった当時の三越本店で販売させれば、宣伝にもなるのではないかと売り込みに臨んだ。売り込みは成功し「是はうまい」には三越マークがつけられ売り場も設定。今でいうマネキン販売を実践し、試食宣伝をして多くの客が売り場につめかけ「是はうまい」の知名度はアップ、売れ行きも順調に伸びていった。そんななか1933(昭和8)年、末吉氏は代表取締役専務に就任する。

佐藤末吉から阿部末吉へ
末吉氏は1932(昭和7)年、30歳で阿部育(いく)氏と、見合いで結婚する。育氏は女学校を出たばかりの19歳。実家は新潟県長岡で100人ほどの従業員を抱えて織物業を営んでおり、育氏は四女一男の次女であった。時代がそうさせたのだろう、阿部家から強く要望され、末吉氏はこの結婚で佐藤から阿部に改姓している。

戦争ですべて焼失

会社は末吉氏の営業努力によって業績は好調に伸びていき、戦時中も出征兵士の慰問袋に「是はうまい」が入れられるほどの人気商品であった。しかし、戦争で原料や調味料が不足。それに追い打ちをかけるように1945(昭和20)年3月、東京大空襲によって丸美屋食料品研究所は焼失してしまう。末吉氏は甲斐氏と相談し、丸美屋食料品研究所の営業を休止することにした。
そんな中でも末吉氏は一日でも早い商売再開を実現するため、1946(昭和21)年秋に東京・京橋に2階建てのビルを購入。そこを拠点にし「丸美屋商会」という名前で卸売業をはじめる。ふりかけの製造再開を望み、原料入手の見通しもたった1951(昭和26)年の12月に、末吉は「丸美屋食品工業株式会社」を設立した。商品は「是はうまい」一品のみ。苦楽をともにした甲斐氏は残念ながら1947(昭和22)年に78歳で亡くなり、会社は末吉氏ほか2~3人でスタートした。実際の業務は京橋で行ったが、登記上の本社は杉並区高円寺、資本金は30万円であった。
京橋のビルは木造2階建ての事務所兼工場。取引先も「是はうまい」の復活を喜び、次々注文が入ってきた。まだ自動車は発達していない時代だったが、営業社員たちは自転車や電車で得意先を巡り、品物はリヤカーで配達。それでも追いつかないということで1953(昭和28)年に当時では珍しかった自動三輪車を購入している。

メディアを使った宣伝活動
創立翌年からは「一年一品以上」を目標に、商品開発にも力を入れ「鯛茶」、「海苔茶漬」を発売。1960(昭和35)年には「是はうまい」のほかに「海苔ふりかけ」などの発売もはじめる。この頃には社員は98人になっていた。
また末吉氏は宣伝活動にも力を入れ、当時、映画女優で国民的人気を得ていた角梨江子氏※を使い「是はうまい」のポスターを作成。1952(昭和27)年のことである。その翌年には新聞に広告を定期的に出すようになる。また宣伝活動の一環として、当時としては極めて珍しく高価だった電気洗濯機を景品にした「消費者特売」や「招待者特売」も行った。

※映画「青い山脈」で当時国民的な人気をほこっていた女優

のりたまの誕生 世に出るまで

これまで研究を重ねてきた成果が実を結び、新製品「のりたま」が発売されたのは1960(昭和35)年のことである。
パッケージのデザインも緑色地に黄色の鶏のイラストを使用する。食品に緑色は馴染まないとされていた当時としては、かなり斬新なデザインだった。テレビコマーシャルを活用し、 1964(昭和39)年には、当時の人気キャラクター「エイトマン」を使ったシールを「のりたま」に入れ、爆発的な売れ行きとなった。ふりかけ「すきやき」が出たのもこの頃である。テレビコマーシャルを使った宣伝やセールスプロモーションにより「のりたま」の販売量は急上昇をとげ、「是はうまい」を完全に追い越して人気商品の地位を占めることになる。

杉並に本社を移転
1961(昭和36)年4月、杉並区大宮前に本社と東京工場を竣工し、京橋から本社を移転。新本社と工場は一貫作業ができるような設計になっていたが、「のりたま」の販売量が予想をはるかに超え、新たに1963(昭和38)年に埼玉工場を建設。その後も順調に業績を伸ばし、ふりかけ業界のトップ企業となっていった。
1970 (昭和45)年にはレトルト食品「とり釜めしの素」、翌年には「麻婆豆腐の素」を発売。これによってふりかけ一色だった丸美屋はレトルト食品市場に参入、総合食品メーカーへの道を踏み出す。

現社長・阿部豊太郎氏に聞く

丸美屋本社は1982(昭和57)年に松庵に移転、末吉の長男である阿部豊太郎氏が1994(平成6年)より社長となり、創立者である父・阿部末吉氏の社是を守り続けている。
「本社工場を建設した1961年から杉並との縁がはじまりましたが、当時はすごくのどかでしたよ。」
阿部社長は大学卒業後、銀行に入社。末吉氏が亡くなった1984(昭和59)年当時は銀行のニューヨーク駐在員として忙しく働いていた。末吉氏が亡くなったことにより銀行を退社、丸美屋に入社した。
「日本人は昔から温かいご飯が好きな民族だと思いますね。温かいごはんとふりかけというスタイルは今後もかわらないと思います」。ふりかけは、現在も色あせることのないロングセラー商品になっている。
また、『とり釜めしの素』や『麻婆豆腐の素』は、いち早く他分野に進出し、成功した成果といえるだろう。丸美屋の特徴、それは米飯で商品開発をして育てていくことにあるようである。

吾等は 不正を憎み、 怠情を嫌ひ、正直を尊び 進んで 己の任務を開拓し、 協同の精神に徹する
(阿部末吉の社是より)

「なみすけふりかけ」の販売
2013(平成25)年、杉並区とコラボレーションした「なみすけふりかけ」を販売。なみすけファンならず、多くの区民に親しまれている。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>なみすけグッズ>なみすけふりかけ

DATA

  • 住所:杉並区松庵1-15-18
  • 電話:03-3332-8181
  • FAX:03-5370-7777
  • 出典・参考文献:

    『丸美屋食品50年史』丸美屋食品社史編纂委員会 平成13年4月12日発行

  • 取材:高橋貴子
  • 撮影:TFF 写真提供:丸美屋食品工業株式会社
  • 掲載日:2010年11月04日