
真鶴町立中川一政美術館に再現された画室
1925(大正14)年から永福町(当時の東京府和田堀之内村永福寺隣)に居をかまえ、洋画家として活躍した中川一政(なかがわ かずまさ 1893-1991)。油彩画のみならず岩彩、書、陶芸、文芸等の表現方法と格闘し、どの道においても独自の視座を持ち、極みを追求した表現者だ。
墨筆をとるには、漢詩、書、硯(すずり)、墨、紙の歴史等の知識を脳内に蓄える。魚を描くときは、生きている魚の生命そのものを描く。とにかく表現において妥協を許さない。他方あたたかな眼差しで書き下ろされた随筆では、独特な表現や中川オリジナルの造語をひねり出す。そして相撲とボクシングが大好きだ。この捉えどころのない偉大なる表現者・中川一政の97年を超える生涯を完全にひもとくことは、不可能といってもよいだろう。本稿では、関係者のコメント、中川自身の言葉を道標にその軌跡の一端を辿る。
中川は、1893(明治26)年2月、東京市本郷区(現・東京都文京区)で生まれる。中学生の頃から文芸に目覚め、17歳の時に若山牧水主宰の歌誌『創作』に短歌が掲載され、18歳で短編小説「椎の樹」が「萬朝報」の懸賞小説に当選。自らを画(え)かきと称する中川だが、表現者としての始点は文芸だった。『中川一政全文集』は全10巻を数えるが、読みやすい随筆が大半なので、ぜひ一度手に取って欲しい。
しかしながら、文学や美術に関心があっても「自分には、それで生計を立てる自信がなかった」と学業を終えると父・政朝のすすめで、逓信官吏養成所(逓信省の職員養成機関)に勤めることとなる。初めて日給を受け取ると、自然と涙がこぼれ「こんな事で一生を終えるのか、いかにも悔しい事」だったと後年振り返っている。ほどなく勤めをやめ、しばらくは芦屋市に滞在し自分探しに時間を費やした。周囲の誰もが文士としての道を歩むと思っていたのではないか。しかし、画業の道を選ぶきっかけとなるいくつかの出来事が、この後にやってくる。
1912(大正元)年頃、文芸・美術誌『白樺』でゴッホ等の作品が紹介されると、にわかに洋画に興味を覚えさっそく創作を開始する。1914年には、巽(たつみ)画会第14回展で「酒倉」が入選。また同じ頃、洋画家の岡本一平宅を訪問すると壁に掛けられた一平の描いた油彩画に目がとまる。一平の妻で歌人のかの子が「そんなに気にいったのなら持っていらっしゃい」という。中川は、その画を持ち帰り、初めて画家が描いた油彩画を所有する喜びに浸った。
翌年のある日突如湧き上がった「描きたい」という意欲。しかし手元に画布はなかった。そこで一平の描いた油彩画の上に「一平の画より私の画がよいのだと私は自分にいいきかすのだ」と一心に描いた。長らくこの行為に胸を痛めていた中川は数十年を経た1982(昭和57)年、展覧会のレセプション会場で一平の作品を葬った経緯を公表した。一平の息子・岡本太郎が臨席するなか明かされた衝撃的な事実は脚本家の倉本聰氏の耳に入り、映画『海の沈黙』(2024)の原作・脚本のベースにされたという。倉本氏は「いつか作品にしてやろう、と思っていて温めていたんです」とインタビューで語っている。中川の創作にかける熱量が時を超えて脚本界の巨匠に響いたという熱いエピソードだ。
前出の作品は「霜のとける道」という題で、1915(大正4)年22歳の時、巽画会に出品し最高位二等賞銀牌を受賞する。当時審査員をしていた岸田劉生と懇意になる機会でもあったが、「この画が私に自覚を促し、画家になれるかしれぬ」と確信させた。画家としての道を踏み出したものの、毎日のように巣鴨周辺の監獄、麦畑、田んぼ、川、橋と「獲物をあさって歩く(中略)私は行きづまり迷いはじめた」という。当時洋画家を目指す人の登竜門のように位置づけられた欧州留学もせず、美術学校にも通わなかった。何らかの焦りやコンプレックスがあってもおかしくない。
孤高の画家とも思える中川だが、1915年岸田が洋画団体・草土社を設立した際には中川もその輪に加わる。ここで生涯を通じ親交を持つ木村荘八や武者小路実篤等と出会う。さらに1922(大正11)年には、小杉放菴、梅原龍三郎等が設立した春陽会に萬鐵五郎、石井鶴三等とともに関わり切磋琢磨を繰り返す。また美術業界で活躍していた石井三柳堂の石井柳助氏の助言により1960年頃から薔薇を多数描くようになった。
中川の作品について松任中川一政記念美術館の学芸員であり著作・講演活動を行う徳井静華さんにお話をうかがった。
「中川一政ときいて、多くの人が『薔薇』や『向日葵』の絵を思い浮かべるのではないでしょうか。チューブから出したばかりのような鮮やかな色彩や、力強く迷いのない筆致が生み出す生き生きとした絵は、私たちの眼を捉えて離しません。中川は、たとえ型破りでも生きて脈打つような絵を生涯追求し続けた画家です。写実性を手放し、『上手い』絵とは一線を画した絵が、見るものを惹きつけてやまないのです。
“私は薔薇をかく。向日葵をかく。しかし私は薔薇をかいているのではなく、向日葵をかいているのでもない。/それらの形、色をかいて、ムーヴマンをかいているのだ。” (『日は東より出づ』後記1984年)と。 “ムーヴマンは とりもなおさず感動の事である。その感動をどうとか生かして画面に入れよう、無理ではなしに生かしたまま入れようとする。それがフォルムである。” (『歌集雨過天晴』後記1979年)
キーワードは『ムーヴマン』です。ムーヴマンとは、鑑賞者の視線を誘導して動きを感じさせる表現のことですが、中川にとってのムーヴマンは『感動』をも意味します。彼のムーヴマン(感動)が筆を突き動かすとき、フォルム(形)を揺さぶり、デフォルマシオン(誇張)が生まれます。そのデフォルマシオンが画面にムーヴマン(動き)を生み出し、彼の心の動きや描こうとしたものを私たちに伝えてくれるのです。中川一政の絵の前に立ち、彼のムーヴマンを感じてみませんか」
中川の言葉には時代を超え創作を目指す者の心に刺さる名言が多い。長い年月をかけて得たもの、感じたものを言葉に変換し惜しげもなく披露している。
「写実とはみたままを描くのではなく、感じたままを描くのだ」
「目に見える形はかれる。目にみえない形はかれない」
「芸術の本体はパッションである。パッションは暴れる。その暴れてどうにもならんパッションを縛りつけておくのが、フォルムだ。順序を間違えちゃいけない」
「・・・書をかくということは自分を正すことだ」
本質を捉える中川の洞察力は、よりストレートに届く言語を駆使し、あらゆる角度に向けて発射されてきた。エッセイスト・渡辺文雄は中川の随筆の解説文で、作品の手応えとは何か、を中川にたずねた際に、「私の体の中には・・・動物電気というものが流れていて、・・・それが・・・、そういう(手応えのある)仕事をしてくれる」と回答され、「動物電気。何だかよくわからぬが、しかし、実によくわかる」と中川語を絶賛している。
永福町界隈の地域史を知るうえで中川は有益な随筆『武蔵野日記』、『永福寺雑記』、「裏門の声」を残している。関東大震災の影響で岸田劉生をはじめ盟友が離散し、草土社も解散した。中川も1925年に永福寺の東南の土地に建てられたいくつかのアトリエの一つに、1923年に結婚した妻・暢子とともに移り住んだ。アトリエの住民には中川により「サドポス」と命名された国木田独歩の次男で彫刻家の佐土哲二、ほかにも俳優、画家、文士がいたと記述があり芸術を追求する若者たちの生活の様が深刻に、そして滑稽に描写されており一読の価値がある。
また永福寺の南側には松林がつづき、河岸段丘を下れば武蔵野養魚場の水面が光り風光明媚な田園であったこと、町に住む奇異な人物の存在、井の頭線が開通して「永福町」と駅名が決まったこと、当時の物価も事細かに書き留められ、中川の情報収集力、観察力が発揮されている。
中川の装禎・挿画では尾崎士郎の『人生劇場』が代表作ともいえるが、杉並在住だった火野葦平、保田與重郎、中谷孝雄等の作品も多数手がけている。荻窪に居を構えていた井伏鱒二はエッセイ『「川」の出版』のなかで「中川一政氏の装禎はなかなか上出来である。(中略)私はこの岩石のごとく素朴で莫大な広がりと深さを持つてゐ(い)る絵が気に入つた。これが自分の書物の装禎画でなかつたら、私はまだまだ讃辞を呈するであらう」と記述しており、仕事を通じて、二人の間に深い信頼関係のあったことがうかがえる。
また1939(昭和14)年には阿佐ヶ谷会のメンバーでもあった中村地平の音頭で、井伏鱒二、尾崎士郎等と6人で九州の日向まで出向き当時の日向観光協会の取材に応じている。列車や汽船を乗り継いで長旅を共に楽しんだことだろう。
芸術家としての地位を確立するまでの経緯にいくつかの共通点がみられる棟方志功との交流は書簡で確認されている。1944年の昭和東南海地震で被災した岸田劉生の遺族を慮って棟方の疎開先である富山でよい居所はないだろうか、と中川から棟方に尋ねている。
中川の長女・原桃子さんは「父・中川一政のこと」(『中央公論』)のなかで、幼い頃「父は大変こわい存在だった」、どんな理由か分からないが中川は「ときどきカンシャクをおこした」と書いている。子供達は心得たもので予兆があると中川のそばを離れて事なきを得ていた。
人物画の少ない中川だが、孫達をモデルにすることもあった。会話を楽しむこともなくひたすら椅子に拘束された辛い経験を語るお孫さんもいて「描くナイフの勢いでキャンバスがグイグイと押されて今どこを描いているのか裏から何となく分かる、もう終わるかな」とお役御免の時を心待ちにしたという。孫とのコミュニケーションよりも作画に夢中で取り組む中川の様子が想像できる。
晩年、「やっと思うような絵が描けるようになった」頃、「父はそのころからだんだんやさしくなった。あまり苦労しないで絵が描けるようになったぶん余裕ができて、かわいい曾孫と遊ぶことができたのは、ほんとうによかった」と原桃子さんが記した通り、中川は生涯現役を貫きながら、家族との穏やかであたたかな時間を楽しんだのだ。「何より父を尊敬するのは、父が自分のことを偉いと思っていなかったことだ」とも記している。
最期は1991(平成3)年2月5日、1949(昭和24)年からアトリエを構えた神奈川県真鶴町近くの病院で息を引き取った。享年97。
『画にもかけない』中川一政(講談社文芸文庫)
『うちには猛犬がいる』中川一政(中公文庫)
『随筆 八十八』中川一政(講談社文芸文庫)
『つりおとした魚の寸法』中川一政(講談社)
『中川一政文選』中川一政(ちくま文庫)
『モンマルトルの空の月』中川一政(中公文庫)
『中川一政伝 文芸篇』山田幸男(沖積舎)
『中川一政全文集(1~3巻)』中川一政(中央公論社)
『中川一政文集(1巻)』中川一政(筑摩書房)
『白山市立松任中川一政記念美術館 所蔵作品目録II』(白山市立松任中川一政記念美術館)
『真鶴町立中川一政美術館 所蔵作品目録』(真鶴町立中川一政美術館)
『中川一政生涯展図録』(TBS・TBSビジョン)
『中央公論』(中央公論新社)
『私の履歴書 孤高の画人』共著(日経ビジネス人文庫)
『限定出版江川書房月報(昭和7年11月)』(江川書房)
『日は東より出づ』求龍堂(1984年)
『歌集 雨過天晴』求龍堂(1979年)
J:magazine>倉本聰インタビュー https://jmagazine.myjcom.jp/category/movie/post000431/
協力:真鶴町立中川一政美術館、白山市立松任中川一政記念美術館、杉並区立郷土博物館、棟方志功研究家・石井頼子氏