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桂敏明さん

「ベルク・バイオリン工房」。訪ねると桂さんが笑顔で迎えてくれる

「ベルク・バイオリン工房」。訪ねると桂さんが笑顔で迎えてくれる

小学3年生の頃、バイオリンの音が大好きになった

桂敏明(かつら としあき)さんは、西荻窪で弦楽器専門工房「ベルク・バイオリン工房」を営む。22歳で職人の道に入り、ノミで木を削り、ニスを塗り、技術を磨きながら、日々バイオリンと向き合ってきた。2020(令和2)年度には、杉並区技能功労者(※1)として表彰された。
「バイオリンが大好きなんです」と話す桂さん。バイオリンとの出合いは、小学3年生の頃だった。「低音を聴いた時に、心の中にスーッと入ってきた」。その音色に、たちまち魅了されたという。「自分の中では、低音って怖いイメージを持っていた。でも、バイオリンは全く違う音だった」
大病を乗り越え、今なお研鑽(けんさん)を重ねる桂さんに、バイオリンとともに歩んできた道のりを伺った。

桂敏明さん。「バイオリン作りはとても楽しい」と話す

桂敏明さん。「バイオリン作りはとても楽しい」と話す

杉並区技能功労者の表彰状。職人としての技能が認められた

杉並区技能功労者の表彰状。職人としての技能が認められた

職人の道へのきっかけは求人広告

大学入学を機に上京したものの、中退。浪人していた22歳のある朝、新聞で見つけた求人広告が、職人への道を開くことになった。「“バイオリン職人募集中、22歳まで”って書いてあって、もうそれで心が決まった。雷に打たれた、そんな感じ」。すぐに会社に電話し、翌日面接に行った。社長との面接で「目が気に入った」と言われ、入社が決まった。
修業は、ホワイトバイオリン(※2)の表板の表面にスクレーパー(※3)をかける作業から始まった。スクレーパーを当てる角度や力加減によって表面が波打ってしまうと、音色に影響するデリケートな作業だ。「スクレーパーは、日本のノコギリを切った自作のものが使いやすい」と桂さんは話す。
次に取り組んだのはニス塗り。はけで塗り、布で磨いて乾燥させる工程を20回以上繰り返す。べたっと塗るのではなく、薄く描くように塗る。布で磨く時の力の入れ具合も難しい。一つ一つ技術を磨きながら身に付けていった。

ホワイトバイオリンのニス塗り。「塗るのではなく描くように」(写真提供:桂敏明さん)

ホワイトバイオリンのニス塗り。「塗るのではなく描くように」(写真提供:桂敏明さん)

卵白、キャンディシュガー、水、アラビアガム、蜂蜜。ニスに加える材料は食べ物のようだ

卵白、キャンディシュガー、水、アラビアガム、蜂蜜。ニスに加える材料は食べ物のようだ

世界の名器と接して、楽器を見る目を養う

会社には、多くの名器が販売・修理・調整のために持ち込まれていた。グァルネリ・デル・ジェスやストラディバリウスなど、世界的に知られるバイオリンやチェロなどに触れる機会も多かった。
その色合いや輝き、美しい形、存在感に、桂さんは圧倒されたという。「名器はワクワクして、エネルギーがもらえる。誰でも良い音は鳴らない。名器は人を選ぶ。たくさん鳴って成長していく。ストラディバリウスも300年成長して今の音になった」
三大名器(※4)について、「みんなストラディバリウスがすごいと言うけど、今はね、グァルネリ・デル・ジェス。暴れ馬っていうか、すごく力強い音。E線(※5)が、天使が天に上がるみたいにシューって鳴る」。さらに、グァルネリ・デル・ジェスの鑑定について、「シミ。これがあるかないかが、本物かどうかの根拠になる」と教えてくれた。
数々の名器に触れ、音を聴いて感動した経験が、桂さんの楽器を見る目を養っていった。

グァルネリ・デル・ジェスの表板(写真提供:桂敏明さん)

グァルネリ・デル・ジェスの表板(写真提供:桂敏明さん)

職人時代にコントラバスを2台製作。当時の苦労が現在の糧となっている(写真提供:桂敏明さん)

職人時代にコントラバスを2台製作。当時の苦労が現在の糧となっている(写真提供:桂敏明さん)

「信頼される技術」を目標に

バイオリンの弦には、羊の腸を乾燥させアルミなどの金属を巻いたガット弦のほか、ナイロン弦やスチール弦がある。近年はナイロン弦が多く使用されている。本体に使う木材は、主に表板が松、裏板が楓。一枚板を削って製作する。「バイオリンの形に仕上げるのに大体2週間。その後、色塗りや手直しをしていく。板の厚みが何mm、高さは何mmと決まった基準表が基本だが、その数値どおりだけではだめで、職人の素手の感覚が一番大事。自分で発見するしかない」
桂さんは、ストラディバリウス型のバイオリンも数多く製作してきた。オールドバイオリンの色を再現するオールド塗りで、赤や黄色が重なる夕焼けのような色に仕上げている。
実際に、桂さんオリジナル作品を手に取ると、軽く、ネックの部分が手になじんで持ちやすい。色合いも、オールドバイオリンを思わせる輝きがあった。

桂さんが製作したオリジナル作品。前列左が、病気前の最後の作品

桂さんが製作したオリジナル作品。前列左が、病気前の最後の作品

オールド塗りで夕焼け色に輝く表板

オールド塗りで夕焼け色に輝く表板

目指す音は、心を震わす音

修業時代に、先輩から「音そのものを聴く」ことを教わった桂さん。「耳はいいです」と、ほほ笑む。
桂さんが目指す音は、「心を震わすような感じの音。弾いていたら武者震いするぐらいの音」だ。それは、何年も弾き続け、少しずつ音色が成長した楽器から生まれると話す。「将来、いいバイオリンになっていくのか、職人にはわかるんです。簡単にきれいに鳴ると、弾いていくうちに薄っぺらな音になってしまう。なかなかきれいに鳴らない楽器を作らないといけない」
ある著名なバイオリニストも、ストラディバリウスを弾きこなすのに3年かかったそうだ。だからこそ、作り手にも長い時間が必要になる。「バイオリンは、階段を一段一段上がっていくように、ゆっくりと少しずつ良くなっていく。ずっと続くこの階段を見届けないといけない。長生きしなきゃいけないね」。アントニオ・ストラディバリも、90歳を超えてなおバイオリンを作り続けた。

右手一本でオールド塗りを施す桂さん

右手一本でオールド塗りを施す桂さん

桂さんのバイオリンの製作工程(資料提供:桂敏明さん)

桂さんのバイオリンの製作工程(資料提供:桂敏明さん)

独立し、西荻窪に工房を構える

桂さんが独立して、西荻窪に「ベルク・バイオリン工房」を構えたのは1990(平成2)年。西荻窪には古くから続く商店街があり、「昔ながらの場所でホッとした」と語る。善福寺川が流れ、東京都立善福寺公園や井の頭恩賜公園にも近い。その雰囲気が、生まれ育った熊本の家の周りの風景と似ているそうだ。
現在の工房では、バイオリンの製作・販売をはじめ、弦楽器の修理・調整を手掛けている。常に「人にも楽器にも優しく」「技術と信頼」をモットーに励んできた。
楽器作りに情熱を注ぎ、技術に厳しく向き合う。そんな桂さんの自叙伝『炎の職人』が、2026(令和8)年5月に出版された。本書には、22歳からバイオリンとともに歩んだ半生や、ユニークな職人や名器との出合い、そして音作りへの考えなどがつづられている。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 特集>公園に行こう>東京都立善福寺公園

西荻窪にある「ベルク・バイオリン工房」の外観

西荻窪にある「ベルク・バイオリン工房」の外観

2026年5月に出版した自叙伝『炎の職人』(発行:幻冬舎メディアコンサルティング  発売:幻冬舎)

2026年5月に出版した自叙伝『炎の職人』(発行:幻冬舎メディアコンサルティング  発売:幻冬舎)

大病を乗り越え、新たな夢へ

2005(平成17)年に、小野寺怜さんを弟子として迎えた。「全部教えた。出し惜しみしないでね」
小野寺さんの作品の音は、温かい。「社長は2週間で作りますが、僕はこれを作るのに7年かかりました」。そう話す小野寺さんの言葉から、師匠への尊敬の思いが感じられた。
2023(令和5)年、桂さんは脳梗塞を発症し、左半身に麻痺が残った。懸命のリハビリを経て、現在は新たな挑戦へと歩み始めている。その一つが、「ANTICA GLOW(アンティカ・グロー)」と名付けた、オールド塗りの作品だ。右手一本でニスを塗り、オールドバイオリンの美しい色合いを再現していく。病気の前に挑戦していたオールド塗り。試行錯誤を重ねつかんだ感触が、今の「ANTICA GLOW」につながっている。
「次は、右手だけの製作に挑戦するんです」。弟子の力も借りながら、アマティ型のバイオリンの完成を目指す。「アマティ型はあまり出ていない。うちの目玉商品にする」。情熱と希望にあふれる声から、新たな夢を楽しんでいる様子がうかがえた。

「ANTICA GLOW No.1〜No.3」。大病の後、右手で塗り始めた最初の作品

「ANTICA GLOW No.1〜No.3」。大病の後、右手で塗り始めた最初の作品

「ANTICA GLOW No.4〜No.6」

「ANTICA GLOW No.4〜No.6」

取材を終えて

楽器の話を熱く、楽しそうに語る桂さん。実際に作品を手に取ると、軽くて持ちやすく、手になじむネックと、美しいオールド塗りが印象に残った。
杉並区公式チャンネル「すぎなみスタイル」では、桂さん自身が作品を奏でる動画を見ることができる。桂さんのバイオリンの優しく温かい音色が耳に残る。
大病を乗り越え、今もなお新たな作品に挑戦する姿に、これから生まれる音への期待が膨らんだ。

▼関連情報
キラリと光る職人の技!杉並区技能功労者【令和3年2月1日】すぎなみスタイル(外部リンク)

工房の壁には工具や楽器。これからもここで新しい音が生み出される

工房の壁には工具や楽器。これからもここで新しい音が生み出される

技術を継承した小野寺さんの作品2本。工房で展示している

技術を継承した小野寺さんの作品2本。工房で展示している

桂敏明 プロフィール

1957年 熊本県生まれ
1980年 株式会社文京楽器に入社
1990年 西荻窪のアパートの一室に「有限会社ベルク・バイオリン工房」を設立
2002年 工房を現在の場所に移転
2005年 小野寺怜さんを弟子に迎える
2020年 令和2年度杉並区技能功労者表彰を受賞
2023年 脳梗塞を発症。左半身に麻痺が残るが、右手でオールド塗りに挑戦
2026年 自叙伝『炎の職人』を出版
現在、工房は桂さん夫妻と小野寺さんで営んでいる

※1 杉並区技能功労者:永年にわたり同一の職業に従事し、技能の練磨及び後進の指導育成に努めた人を表彰する制度。区内で対象職種に5年以上従事し、30年以上技能者としての経験を有する60歳以上の人が対象
※2 ホワイトバイオリン:ニスや塗装を施す前の木地(白木)の状態のバイオリン
※3 スクレーパー:木の部分を削ってなめらかに仕上げるための刃物
※4 三大名器:ストラディバリウス、グァルネリ・デル・ジェス、アマティ
※5 E線:バイオリンの4本の弦のうち、最も細い高音の弦

DATA

  • 公式ホームページ(外部リンク):https://bergviolin.jp
  • 出典・参考文献:

    『炎の職人』桂敏明(発行:幻冬舎メディアコンサルティング  発売:幻冬舎)

  • 取材:ながながさん
  • 撮影:ながながさん
    取材日:2026年07月29日
  • 掲載日:2026年09月14日