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【証言】瀬山妙子さん

西荻窪、阿佐谷のまちとともに

阿佐谷で長年愛され、2024(令和6)年に惜しまれつつも閉店した和菓子屋「うさぎや」の元店主、瀬山妙子(せやま たえこ)さん。西荻窪に生まれ育ち、太平洋戦争当時は桃井第三国民学校(現杉並区立桃井第三小学校)に通っていた。疎開先での生活や、戦後間もなく創業した店について話を伺った。

瀬山妙子さん

瀬山妙子さん

一人きりの疎開

最初の疎開は1944(昭和19)年、小学校四年生の時です。ねえや(※)の本家があった栃木県の農家に、子供一人で縁故疎開しました。今じゃ考えられないですけれどね。行った時は右も左もわからず、自分のこともできなかったですよ。それまで、ねえやが全てやってくれていたから。
でも10日も経つと、すっかり私は労働力になっていました。学校から帰ってきたら、夕飯の時間になるまで、預かった子供を背中におぶって水をくみに行ったものです。運動靴も東京から持って行きましたが、長持ちさせるために履くのは学校に行くときだけで、普段は裸足でした。初めはとても痛かったけれど、そのうちに足の裏がカチカチになりました。

宮城県への疎開のため校庭に集まった小学生(写真提供:杉並区教育委員会)

宮城県への疎開のため校庭に集まった小学生(写真提供:杉並区教育委員会)

学寮での空腹の日々

翌年の1945(昭和20)年になると、今度は2人の弟と一緒に、宮城県登米郡(現宮城県登米市)へ集団疎開しました。登米伊達家が治めた古い城下町で、文化的にも栄えていたところです。
宿舎(学寮)で管理されていたから、他の寮へ遊びに行くことも、ほとんどできませんでした。食料を探しに行ったり、炭俵を運んだりして過ごしました。勉強は地元の子供たちの授業が終わった後、教室を借りてしていました。
でもやっぱり食べることが一番で、みんなで庭の縁側に腰掛けて、炊事場を見ながらご飯を待っていたものです。いつもノートに「あれが食べたい、これが食べたい」とか書いて。オオバコの実なんかも食べました。それから歯磨き粉。誰かが舐めておいしいって言うので、みんなで舐めたんです。そうしたらトイレがくみ取り式ですから、便のたまるところが真っ白になっちゃった。気づいた寮長先生に問い詰められて、怒られました。

疎開児童たちは、寺や料理屋、道場などに分かれて滞在した(写真提供:瀬山妙子さん)

疎開児童たちは、寺や料理屋、道場などに分かれて滞在した(写真提供:瀬山妙子さん)

瀬山さんと同じ学寮で生活していた生徒たち(写真提供:瀬山妙子さん)

瀬山さんと同じ学寮で生活していた生徒たち(写真提供:瀬山妙子さん)

楽しみだった「おばさんの家の日」

でも、歯磨き粉を舐めたらお腹を壊すとか、そんなことは誰も考えなかったです。とにかくお腹が空いていたから。
そんな私たちを見かねてか、月に1回くらい地元の人の家で食べさせてもらう「おばさんの家の日」がありました。私が行っていた家には、たくさん本があって。仙台の高校に通っていたお兄さんがいましたが、病気で休学されていました。
とてもいい方で、私はいろんなことを教わって、学寮にいた頃から文通もしていました。筆まめな方だったので、お返事が来るとすごくうれしくて、またせっせと書いていました。
戦後も、私が20歳くらいになるまで文通を続けていたんですけれど…。結核の手術をしたり、療養中なのに戦後の農地改革の影響で自ら畑仕事をしないといけなくなったりで体調が悪化したようで、お会いできないまま亡くなりました。

遊びに行っていた家のお兄さんと、瀬山さん姉弟(写真提供:瀬山妙子さん)

遊びに行っていた家のお兄さんと、瀬山さん姉弟(写真提供:瀬山妙子さん)

お兄さんが発起人になり、帰京前に寮の皆で作成した記念文集(資料提供:瀬山妙子さん)

お兄さんが発起人になり、帰京前に寮の皆で作成した記念文集(資料提供:瀬山妙子さん)

帰京と学校の再開

終戦の日、玉音放送では何を言っているか分かりませんでした。神風が吹いて勝ったんだと思っていたら、先生が「日本は負けた」と。もう呆然というか、東京や満州にいる家族が心配で泣いてた人もいたし、私たちはどうなるのか、全く分からなかったですね。疎開先から寮長先生に連れられて上野に着いた時、東京が焼け野原になっているのを初めて目の当たりにしました。学校の校庭で迎えに来た親と面会して、「弟たちを無事に連れて帰って来た、これで責任を果たした」と思ったら、涙が出ました。
1945(昭和20)年の11月に戻ってから、すぐ学校が再開されました。昨日まで軍国主義だったのが急に民主主義になって、戸惑いました。教科書もすぐには変えられないですから、軍国主義的なところを墨で塗りつぶして、そこを飛ばして。しばらくしてから、製本されていないペラペラの状態の教科書が届いたので、それを自分たちで折って、使っていました。

戦後に使われていた墨塗り教科書(所蔵:山形県新庄市)

戦後に使われていた墨塗り教科書(所蔵:山形県新庄市)

家の裏庭から始まった「うさぎや」

戦前は材木商をしていた父も、空襲で全て焼けて仕事がなくなってしまった。母が上野黒門町の和菓子屋の娘で商売の経験があったので、何とかやっていけるだろうと考えて始めたのが「うさぎや」です。最初は家の裏庭に小屋掛けして、薪であんこを炊いて。その後、西荻窪の女子大通りに一間間口の店を貸り、もともと母の実家の店で働いていて、復員してきた職人さんに来てもらいました。まだまだ闇市の時代で、材料をそろえるのも大変でした。みんなどこからか物資を手に入れて商売していましたね。
七年ほどたってから、阿佐谷に移りました。南口は戦前からのお店も結構あって栄えていましたが、当時の北口はまだ寂れたところでした。

昭和30年頃の西荻窪北口女子大通り商店街。「うさぎや」の看板も見える(写真提供:杉並区立郷土博物館)

昭和30年頃の西荻窪北口女子大通り商店街。「うさぎや」の看板も見える(写真提供:杉並区立郷土博物館)

戦争体験を伝える難しさ

お店の商品は、どら焼きのほかに季節の上生菓子も西荻窪時代から扱っていました。和菓子屋をやるからにはちゃんと上生菓子も出す、というプライドが母にあったように思います。材料も、当時は砂糖よりも安いズルチンとかサッカリンという人工甘味料がありましたが、うちでは決して使いませんでした。
家族で続けてきましたが、私も高齢になり、熟練した職人さんも少なくなってしまい、店を続けることが難しくなって、2024(令和6)年に閉店しました。
お店で働いていた若い人たちに戦争について話したこともありましたが、あまりピンとこない様子で...。実感がともなわなければ、あの体験を人に伝えていくことの難しさを、つくづく感じましたね。

※ねえや:年の若い女中を親しんで呼んだ語

文字やうさぎの絵なども自前で、瀬山さんや伯父が描いたという(写真提供:TFF)

文字やうさぎの絵なども自前で、瀬山さんや伯父が描いたという(写真提供:TFF)

店の看板商品だった、どら焼き(写真提供:TFF)

店の看板商品だった、どら焼き(写真提供:TFF)

DATA

  • 最寄駅: 西荻窪(JR中央線/総武線)  阿佐ケ谷(JR中央線/総武線) 
  • 出典・参考文献:

    杉並区デジタルアーカイブ https://adeac.jp/suginami-city/top/
    新庄デジタルアーカイブ https://www.shinjo-archive.jp/2016500123-2/
    『学童疎開』中田重三郎(1995年3月1日発行の手記より)

  • 取材:CHIE
  • 撮影:CHIE、TFF
    取材日:2026年01月25日
  • 掲載日:2026年03月23日