
第4回(1999(平成11)年)の阿佐谷ジャズストリート。駅前広場の様子(写真提供:阿佐谷ジャズストリート実行委員会)
2024(令和6)年に30周年を迎えた阿佐谷ジャズストリート。例年10月の2日間、街がジャズの音色で満たされる。阿佐谷がジャズの街になった経緯を、1995(平成7)年のイベント立ち上げ時からの実行委員で、当時、文化・CI 担当の区職員として各所との調整役を担った髙和弘(たかし かずひろ)さんに聞いた。
ボランティアで集まった実行委員
「その頃、阿佐谷では土日の中央線快速の停車がなくなり(※1)、国内では阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件が起こるなど暗い雰囲気が漂っていました。阿佐谷には当時から、マンハッタン、クラヴィーア、鈍我楽(どんがら)などのジャズバーがあり、私は“阿佐谷の街をジャズで明るく元気に”できないかと考えました。同じ頃、景観まちづくりの会が中杉通りを生かした取り組みを始めたので、一緒に連携しないかと呼びかけました」
街を盛り上げたい思いはどちらも同じ。地元の音楽関係者、景観まちづくりの会、区役所の有志(※2)による実行委員会が、約20人のメンバーで立ち上がった。
1995(平成7)年10月、2日間計25カ所の規模で開催された第1回の阿佐谷ジャズストリートには数千人の方が訪れた。どこの会場にも入場を待つ長蛇の列ができている様子を見た髙さんは、うれしい反面、責任の重さに恐ろしさも感じたという。5月に実行委員会ができ、8月から告知を始め、10月に第1回を開催。たった半年でこれだけのビッグイベントができたのは、元々中央線沿線にジャズファンが多かったという素地の他、バブル崩壊で音楽イベント自体が減るなかでこうしたイベントが求められていたタイミングでもあったと髙さんは考える。「今思うと怖いもの知らずだったかもしれません。実行委員会のメンバーが短期間でパンフレットやポスターを作りました。イベントでは区外からの来客も多く、逆に地元阿佐谷では駅前の演奏などに対し“何が始まったのか?”と思われていたようです」
「高円寺はフォークやロック、荻窪はクラシック、西荻は多国籍というように、地域の特性に合った文化とまちづくりを結びつけることが必要だと思っていました。日本ではジャズはホールやライブハウスなどの演奏が主ですが、当時ニューヨークなどでは一流のミュージシャンが、貧富や年齢の差なく無料で楽しむジャズフェスを行い、駅や街角でのストリートジャズが盛んでした。そうしたことから、商店街やケヤキ並木の中杉通りがある阿佐谷には、街中での演奏が似合うと考えました。だからジャズストリートなのです」
荻窪や高円寺と違って大きなホールがない阿佐谷の街を逆手に、初回から区民センターや区役所、駅前広場、神社、教会、学校、企業、店舗など、いつもの空間をライブ会場に変えた。スポンサーを付けたり行政が丸抱えしたりという形では、景気が悪くなった時に続かない。長く続けていくために、あえて街のみんなでやることを意識してきた。
2020(令和2)年、コロナ禍で阿佐谷ジャズストリートは転機を迎えた。それまでパブリック会場(※3)は共通パスポートでの周遊が可能だったが、1ステージのチケット制に変更。これにより会場内の過剰な混雑を避け、チケットを持った人が確実に公演を見られるようになった。実行委員会の体制も、時代と共に大きく変化してきた。
「30年前は、60歳で定年を迎えその後は地域で活動する人が多かった。今は年を取っても仕事をするようになりました。仕事の形態もさまざまで、昔のように仕事が終わったら皆で集まって活動して、ということは難しい。2025(令和7)年から実行委員会はウェブのコミュニケーションツールを導入して情報共有を行い、事務局長も若手に代替わりしました。阿佐谷ジャズストリートは時代と共に変わっていい。そもそもジャズの文化はそういうものです。いかに継続していくのかを皆で考えていければ」と髙さんは語った。
※1 中央線快速は、1994(平成6)年から土曜日も休日ダイヤでの運転になり、高円寺・阿佐ケ谷・西荻窪の杉並3駅は通過するようになった
※2 区役所の有志:区からは文化・CI(コーポレートアイデンティティ)担当、まちづくり推進課、経済勤労課の職員(課名はすべて当時)有志が立ち上げに関わり、「区役所ジャズファンクラブ」を結成して活動した
※3 パブリック会場:プロによる演奏が楽しめる会場。他に、無料で見られるストリート会場、店舗で行われるバラエティ会場がある
『30th Anniversary 阿佐谷JAZZ STREETS』阿佐谷ジャズストリート実行委員会
『ASAGAYA JAZZ STREETS -Archive-1995-2024』阿佐谷ジャズストリート実行委員会