伝説を残した阿佐ヶ谷住宅

緑に囲まれたテラスハウス(手前)と中層棟(写真提供:tezuka-factory 撮影:2007年7月)

緑に囲まれたテラスハウス(手前)と中層棟(写真提供:tezuka-factory 撮影:2007年7月)

語り継がれる公団住宅の「聖地」

阿佐ヶ谷住宅は、1958(昭和33)年8月に竣工(しゅんこう)した日本住宅公団(※1 以下、公団)の分譲住宅(※2)である。2013(平成25)年に解体されるまで、南阿佐ケ谷駅から徒歩約6分の善福寺川近く(現成田東4丁目)に立っていた。敷地面積約53,000㎡、総戸数350戸。豊かな自然の中にゆったりと並ぶしゃれたテラスハウス(※3)が多くの人を魅了した。そのたたずまいで、ドラマのロケ地やコミックの舞台(※4)になったほか、数々の写真や映像の記録も残り、今なお、公団住宅の「聖地」として語り継がれている存在である。

▼関連情報
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中央広場から中層棟と給水塔を望む(写真提供:tezuka-factory 撮影:2012年4月)

中央広場から中層棟と給水塔を望む(写真提供:tezuka-factory 撮影:2012年4月)

建設地は広大な水田だった

阿佐ヶ谷住宅は、成宗田圃(たんぼ)と呼ばれた水田地帯に建てられた。後に荻窪団地が建設された西田田圃と共に、建設省(現国土交通省)の調査では「空閑地」(※5)と定義されていた場所である。
一方、公団は1956(昭和31)年度の研究(※6)で、杉並区は「非常に交通条件にめぐまれているにもかかわらず、多くの農耕地を残して居る」(『調査研究報告集2』)と指摘。要因として水田率の高さを挙げ、水田やその跡地は宅地化困難であり、宅地化したとしても土地の条件が悪くなるため地価も安い、と分析している。
地下高騰で都内の土地は極めて取得が難しくなっていた状況下、公団ではこうした悪条件の土地も利用せざるを得なかった。当初は、軟弱な地盤では「1階乃至2階建のテラスハウスを建設すること」(『日本住宅公団10年史』)としていたが、次第に特殊な基礎工事を施した上で中層住宅も建てるようになった。

阿佐ヶ谷住宅建設前の成宗田圃付近の空中写真 (出典:1956(昭和31)年米軍撮影の写真(国土地理院)に加筆)

阿佐ヶ谷住宅建設前の成宗田圃付近の空中写真 (出典:1956(昭和31)年米軍撮影の写真(国土地理院)に加筆)

成宗田圃の土盛り工事の様子(「杉並新聞」1957(昭和32)年9月15日付)

成宗田圃の土盛り工事の様子(「杉並新聞」1957(昭和32)年9月15日付)

実は区営総合グラウンドの候補地にもなっていた成宗田圃
1957(昭和32)年1月27日付の杉並新聞によると、公団が前年末から当地の買収交渉に着手していた中、杉並区でも、成宗田圃に総合グラウンドを設置したいとの声があったという。しかし、すでに約50,000㎡が公団と交渉済みだったことと、改正道路(現中杉通り)の延長問題があり「成宗たんぼははやくも圏内からさつた感じ」とある。

当時の高木区長の上井草球場案に対し、区議会などは成宗田圃を推していた(「杉並新聞」1957年1月27日付)

当時の高木区長の上井草球場案に対し、区議会などは成宗田圃を推していた(「杉並新聞」1957年1月27日付)

阿佐ヶ谷住宅を構成していたテラスハウスと中層棟

阿佐ヶ谷住宅は、テラスハウス(勾配屋根型、陸屋根型、いずれも2階建て)、中層棟(3階建て、4階建て)から成り、これらの住棟のほかに、管理組合事務所、集会所、児童公園、中央広場、給水塔、駐車場があった(図1参照)。
設計統括は、公団東京支所設計課の津端修一(※7)。テラスハウスは、勾配屋根型(以下、前川テラス)を前川國男(※8)建築事務所が設計し、陸屋根型(以下、公団テラス)は公団による標準設計である。植栽計画は、公団の田畑貞寿氏(※9)が手掛けた。
前川テラスは、玄関に向かって勾配する赤い大きな屋根が特徴。それまでの公団標準設計では居室が2部屋だったのを3部屋にした、公団用オリジナル設計だった。TA型(3DK)とTB型(3D)は、16.43坪(約54㎡)と面積は変わらないが、間取りの違いで窓の位置が異なるので見分けられた。

図1上:「阿佐ヶ谷住宅配置図」(出典:「1961(昭和36)年3月測図(東京都首都整備局)」に加筆)<br>図1下:住棟タイプ表

図1上:「阿佐ヶ谷住宅配置図」(出典:「1961(昭和36)年3月測図(東京都首都整備局)」に加筆)
図1下:住棟タイプ表

前川テラスTA型断面模型(UR集合住宅歴史館(※10)にて展示)

前川テラスTA型断面模型(UR集合住宅歴史館(※10)にて展示)

公団テラスは敷地の北西側に9棟配置された。公団の標準設計を採用し、開口部が多く2階にはベランダも付いた。前川テラスに比べるとやや狭いが、その分、1棟当たりの最大戸数は、前川テラスよりも多くとれている。二つのテラスハウスの混在は、こうした限られた敷地内での計画戸数調整のためだったのかもしれない。
中層棟は、中央広場のまわりにテラスハウス群に囲まれて立っていた。当時の中層棟は4階・5階建てが主流で、公団東京支所管轄の分譲住宅で3階建てを採用したのは阿佐ヶ谷住宅だけ、という珍しい建物だった。

公団におけるその後のテラスハウス
地価高騰を受けてテラスハウスの計画は次第に減少し、1960(昭和35)年度には建設を中止した。前川テラスの採用も、鷺宮団地(東京都中野区)、烏山団地(東京都世田谷区)、阿佐ヶ谷住宅の3カ所だけとなった。2023(令和5)年現在、この中で残っているのは鷺宮団地のみで、最後の前川テラスとして大変貴重な存在だ。

前川テラスは、TA型とTB型で窓の配置が異なる(写真提供:tezuka-factory 撮影:上 2008年4月、下 2013年9月)

前川テラスは、TA型とTB型で窓の配置が異なる(写真提供:tezuka-factory 撮影:上 2008年4月、下 2013年9月)

1957(昭和32)年竣工の鷺宮団地(撮影:2023年1月)

1957(昭和32)年竣工の鷺宮団地(撮影:2023年1月)

阿佐ヶ谷住宅のテーマであった「コモン」

阿佐ヶ谷住宅の特徴は、緑あふれる環境とゆったりとした建物配置にあるといえよう。「住宅建築 第253号」の津端のインタビューによると、公団からは「なるべくたくさん建てればいいという数字(戸数)」が来ていたという。それでは平行配置になってしまうと考えた津端は、数字よりも、公団が目指していた新しい団地とライフスタイルの実現を優先。1戸当たりの面積を基準より大きめに取り、余裕をもって配置した。
住棟間や中央広場、児童公園につながる通路には、田畑氏による植栽設計で高木になる15種類の樹木が植えられた。これらの、私有地でもなく公共のものでもない「得体の知れない緑地のようなもの」、すなわち「コモン」が住民の手でどう育っていくか。それが津端にとっての阿佐ヶ谷住宅のテーマだった。
時とともに木々は育ち、各戸の庭と一体化して境目もわからなくなり、まさに「得体の知れない」緑に包まれた住空間が出来上がった。

竣工直後の阿佐ヶ谷住宅。木々を植えたばかりで、まだコモンや設置された遊具がはっきり見える(出典:『日本住宅公団10年史』)

竣工直後の阿佐ヶ谷住宅。木々を植えたばかりで、まだコモンや設置された遊具がはっきり見える(出典:『日本住宅公団10年史』)

「得体の知れない緑地」に育った「コモン」(写真提供:tezuka-factory 撮影:2007年7月)

「得体の知れない緑地」に育った「コモン」(写真提供:tezuka-factory 撮影:2007年7月)

「まるで東京の軽井沢」と言われた

テラスハウスの住み心地はどうであったか。公団テラスの元居住者に話を伺った。
「1998(平成10)年から5年間住みました。開口部が多く明るさはありました」。公団テラスは2階南側の窓が前川テラスと異なり、天井高ぎりぎりまでの欄間付き掃き出し窓だった。カーテンは特注したという。北側にも窓があり通気性は良いかと思いきや「北の部屋は湿気がひどくて、置いていた美術本をカビで全部だめにしました」。また、夏は暑く冬は寒い、階段の勾配がきつくきしむ音が響く、などは前川テラスと同じ問題であったようだ(図2参照)。
「トマトやジャガイモを植えたら大豊作になりましたが、トマトはカラスに食べられました。30㎝くらいのかわいい白い蛇がいたり、近くのコニファーは(育ちすぎて)野生化しちゃったり。土地が肥えていたんでしょうね」とのこと。「遊びにきた友人たちは、“東京の軽井沢だね”と言っていました」

公団テラス18号棟。「ぜいたくな余白ある空間、またそこで流れていた時間の質は忘れがたい」と元居住者は語る(写真提供:元居住者 撮影:2012年頃)

公団テラス18号棟。「ぜいたくな余白ある空間、またそこで流れていた時間の質は忘れがたい」と元居住者は語る(写真提供:元居住者 撮影:2012年頃)

図2:「前川テラスの住み心地」(出典:「住宅建築 第253号」)

図2:「前川テラスの住み心地」(出典:「住宅建築 第253号」)

阿佐ヶ谷住宅の継承を意識した再開発

1974(昭和49)年、老朽化などにより再開発の検討が始まった。その後、39年間にわたる紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、2013(平成25)年春に解体。跡地にはプラウドシティ阿佐ヶ谷が建った。
プラウドシティ阿佐ヶ谷の現地に行ってみると、前川テラスの勾配屋根を模した共用施設や、テラスハウスだけで構成された街区があることに気づく。また、ランドスケープ(※11)にも、数々の阿佐ヶ谷住宅を思わせるものが取り入れられている。

阿佐ヶ谷住宅の継承
ランドスケープデザインを担当した「設計組織プレイスメディア」の吉澤眞太郎氏は「設計のコンセプトは、“風景を受け継ぐ道”、“暮らしを彩る庭”、“面影を映す杜(もり)”です。阿佐ヶ谷住宅のカーブした道路線形を残し、中央広場やコモンでつながる空間構成や、昔の武蔵野の面影も感じさせる緑の空間を目指しました」と語る。1,000本以上あった既存樹のうち、大小含めて約200本を保存して移植したという。また、鎌倉街道沿いのケヤキの大木など、工事の邪魔にならないよう綿密に計画して残した樹木(残置樹木)もある。

阿佐ヶ谷住宅時代の蛇行する道を受け継いでいる(写真提供:設計組織プレイスメディア吉澤眞太郎氏)

阿佐ヶ谷住宅時代の蛇行する道を受け継いでいる(写真提供:設計組織プレイスメディア吉澤眞太郎氏)

鎌倉街道沿いのケヤキは残置樹木(撮影:2022年11月)

鎌倉街道沿いのケヤキは残置樹木(撮影:2022年11月)

吉澤氏によると、建て替えの計画段階で、テラスハウスを残そうという話がいくつもあったという。しかし、さまざまな理由で実現はかなわなかった。そこで「我々ランドスケープデザイン側で、なるべく継承できる所はしていこう」と「阿佐ヶ谷住宅のアーカイブ計画」(※12)を策定。当時の記憶を継承する方法として、以下の三つのデザインが採用された。(※13)

「コーナープレート」
6カ所に、阿佐ヶ谷住宅の移植樹をシンボルにした広場を設置。うち4カ所には、1番近くにあった住棟番号を敷設した。

「歩行者専用道の舗装パターン」
2カ所にある歩行者専用道で、以前の住棟が立っていた場所の舗装パターンを変えて表現し、住棟番号を当時のフォントで再現して敷設した。

「従前の配棟をモチーフにしたパターンのフレーム」
阿佐ヶ谷住宅の住棟配置図をパターン化し、ロートアイアン(※14)にステンドグラスをはめ込んだオブジェを制作。北側街区の入り口に1本の大型オブジェが立つほか、植え込み内には8枚のオブジェが設置されている。

上:阿佐ヶ谷住宅の桜を移植した広場<br>下:そこに敷設された住棟番号(写真提供:設計組織プレイスメディア吉澤眞太郎氏)

上:阿佐ヶ谷住宅の桜を移植した広場
下:そこに敷設された住棟番号(写真提供:設計組織プレイスメディア吉澤眞太郎氏)

ブロック舗装のパターンを変えることで、45号棟が立っていた場所を表現(撮影:2022年11月)

ブロック舗装のパターンを変えることで、45号棟が立っていた場所を表現(撮影:2022年11月)

阿佐ヶ谷住宅の「何ものにも代えがたい」価値

多くの人を引きつけた阿佐ヶ谷住宅。その特徴的な設計は、公団発足当初の、津端いわく「公団ぐるみで理想に燃えていた」時期であったからこそ実現できた。1959(昭和34)年、津端の話を聞き励ました公団の初代総裁・加納久朗が退任し、翌年には、公団東京支所の体制が再編されて津端は支所を去った。以降、公団では高密度の団地建設が主流になる。その意味で、阿佐ヶ谷住宅は単なる公団住宅の一つではなく、二度と登場することのない得難い存在であった。

※記事内、故人は敬称略

※阿佐ヶ谷住宅は「阿佐ヶ谷団地」とも言われるが、『日本住宅公団10年史』における住宅分類(賃貸住宅と分譲住宅)では、阿佐ヶ谷住宅は後者に属し、団地は前者の一種である。よって本稿では阿佐ヶ谷住宅と記載し、引用文や出典などの名称以外では「団地」表記を用いないこととした
※1 日本住宅公団:現独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)。住宅不足解消のため、日本住宅公団法にのっとり1955(昭和30)年7月に設立。1981(昭和56)年10月1日解散
※2 公団の分譲住宅には、普通分譲住宅と特定分譲住宅があり、阿佐ヶ谷住宅は前者に属する。入居募集時パンフレットの名称は「阿佐ヶ谷分譲住宅」
※3 テラスハウス:建物の境界の壁を共有して連なる長屋形式の集合住宅。主に2階建てで、各戸に独立した庭が付いている
※4 2007(平成19)年放送の「セクシーボイスアンドロボ」(日本テレビ「火曜ドラマ」)のロケ地、2011(平成23)年のコミック「ぼくらのよあけ」の舞台など
※5 空閑地(くうかんち):利用されずに放置されている土地。空き地。
※6 公団が東京大学に委託した研究「東京都区部周辺の住宅地開発について」
※7 津端修一:(つばた しゅういち 1925-2015)日本の建築家、都市計画家、評論家。アントニン・レーモンド、板倉準三の事務所を経て日本住宅公団に入社。東京支所設計課団地係のチーフとして、公団初期の団地の全体設計を手掛けた
※8 前川國男:(まえかわ くにお 1905-1986)日本の建築家。パリでル・コルビュジエに師事し、帰国後、アントニン・レーモンド設計事務所に入所したのち、前川國男建築事務所を設立。戦後のモダニズム建築の旗手として、東京文化会館や国立国会図書館など多数の建築設計を手掛けた
※9 田畑貞寿:(たばた さだとし 1931-)日本の造園家、千葉大学名誉教授。日本住宅公団東京支所で公団用地の公園や造園設計を手掛けた
※10 UR集合住宅歴史館は、2023(令和5)年、北区赤羽台にて「URまちとくらしのミュージアム」として開館予定
※11 ランドスケープ:都市における広場や公園などの公共空間、またそのデザイン
※12 計画段階の名称(以下のコラム内の「」書き名称も含む)
※13 阿佐ヶ谷住宅で大切にされていたものを継承しつつ、地域の価値ともなる新しいデザインを提供したことが評価され、2017(平成29)年度グッドデザイン賞を受賞した
※14 ロートアイアン:錬鉄、または、錬鉄を使った家具や工芸品

阿佐ヶ谷住宅の住棟配置図をパターン化したロートアイアンのオブジェ(写真提供:設計組織プレイスメディア吉澤眞太郎氏)

阿佐ヶ谷住宅の住棟配置図をパターン化したロートアイアンのオブジェ(写真提供:設計組織プレイスメディア吉澤眞太郎氏)

阿佐ヶ谷住宅のシンボル的存在であった給水塔(写真提供:tezuka-factory 撮影:2013年8月)

阿佐ヶ谷住宅のシンボル的存在であった給水塔(写真提供:tezuka-factory 撮影:2013年8月)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『公営公庫公団住宅総覧』(住宅総覧刊行会)
    『日本住宅公団10年史』(日本住宅公団)
    『調査研究報告集2』(日本住宅公団建築部調査研究課)
    『日本住宅公団年報57』(日本住宅公団)
    『昭和39年度業務年報(別冊)』(日本住宅公団)
    『奇跡の団地 阿佐ヶ谷住宅』三浦展(王国社)
    『住まい学大系103 いえ 団地 まち 公団住宅設計計画史』木下庸子 植田実(住まいの図書館出版局)
    『高蔵寺ニュータウン夫婦物語-はなこさんへ、「二人からの手紙」-』津端修一、津端英子(ミネルヴァ書房)
    「住宅建築 第253号」(建築資料研究社)
    「SUR Special Issue 02」(東京大学・都市持続再生研究センター)
    「いえなみ4巻40号」(日本住宅公団総務部)
    「阿佐谷地域区民センター協議会報 No.302あさがや」(阿佐谷地域区民センター協議会)
    「杉並新聞」1957年1月27日付
    「杉並新聞」1957年9月15日付
    「公団ウォーカー 日本住宅公団阿佐ヶ谷住宅」
    https://codan.boy.jp/danchi/tokyo23/asagaya/index.html
    「‘ING REPORT 団」(UR都市機構)
    https://www.ur-net.go.jp/rd_portal/pnf/ing_report_dan/index.html
    「‘ING REPORT 緑」(UR都市機構)
    https://www.ur-net.go.jp/rd_portal/pnf/ing_report_midori/index.html

  • 取材:RYO
  • 撮影:RYO
    写真提供:設計組織プレイスメディア吉澤眞太郎氏、元居住者、tezuka-factory
    撮影協力:UR集合住宅歴史館
    取材日:2022年03月16日、2022年10月13日、2022年10月26日
  • 掲載日:2023年02月20日
  • 情報更新日:2023年09月25日