内藤博孝さんが語る「東京ごみ戦争」

「東京ごみ戦争」と高井戸住民の思い

高度成長期にあった昭和40年代、公害や環境汚染が問題となっていた頃に、杉並清掃工場の建設をめぐり東京都と反対派との間に「東京ごみ戦争」といわれる紛争が起こった。当時の高井戸地域の住民の思いや反対運動の様子など、貴重な話を一般財団法人杉並正用記念財団(※1)理事である内藤博孝さんに伺った。

「ごみが好きな人なんて、いない」
例年、杉並区内の小学校では、4年生が社会科見学で杉並清掃工場にやって来ます。しかし、2021(令和3)年はコロナ禍で見学が中止になったので、私たち杉並正用記念財団から数名が、高井戸小学校、高井戸東小学校、富士見ヶ丘小学校の3校に杉並清掃工場の歴史について話をしに行きました。「東京ごみ戦争」について一番驚いていたのは、小学校の先生たちでした。先生方に「(知らなかったので)とても勉強になりました」と言われ、うれしく思いました。生徒たちに「みんなはごみ好き?」と尋ねると、ほとんどの子が「いやだ」「嫌い」と言いました。その反応は当然ですよね。「東京ごみ戦争」で高井戸住民が行った反対運動の原点はとてもシンプルで、「ある日突然、家の前がごみ捨て場になってしまったら、皆さんはどうされますか?」ということなのです。

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一般財団法人杉並正用記念財団・内藤博孝さん

一般財団法人杉並正用記念財団・内藤博孝さん

東京都が配布した1枚のチラシが騒動の始まり

私は両親に「お前は反対運動に出なくていい」と言われたので、一切参加しませんでした。父の祐二から「必要な情報は全て話すから、そこから自分が得た中で大切だと思うものだけ覚えておけばいい」と言われました。だから私は、父から聞いた話や、多方面から得た情報の中から伝えたいと思ったことだけを、そのまま話しています。
杉並区の清掃工場建設用地は1939(昭和14)年に西田町2丁目に計画されており、高井戸は候補にも挙がっていませんでした。それが、時を経た1966(昭和41)年11月、東都知事の時代に、何の前触れもなく「高井戸に清掃工場を建てる」ということを、住民たちはチラシ1枚で知らされたのです。ある日突然言われれば、誰でも「冗談じゃないよ」となりますよね。
清掃工場の候補地となった高井戸の敷地には藤棚とハス池がありました。反対同盟の地主団の長であった内藤庄衛門氏の所有地で、三笠宮殿下が幼少期に訪れた時に、その藤棚の下でよく遊んでいたという、由緒ある場所でもありました。だから、周辺の住民にとっても、すぐに受け入れられるような簡単なことではなかったのです。

1983(昭和58)年に杉並正用記念財団が編集・発行した『東京ゴミ戦争 高井戸住民の記録』

1983(昭和58)年に杉並正用記念財団が編集・発行した『東京ゴミ戦争 高井戸住民の記録』

高井戸住民の団結力

チラシが配布された直後は、みんな何が何だかわからない状況でしたが、それでも一気に人が集まって反対同盟が結成され、短期間で約2万名分の清掃工場建設反対の署名(※2)を集めました。その後、近所に住んでいた松本清張先生など学識を持った方の知識も取り入れながら、法廷闘争を続けました。
東京都側と反対同盟の話し合いは難航し、ついに都は高井戸清掃工場建設の強制執行のための強制測量を実行し始めました。都が突然測量に来るのに対し、住民も必死に抵抗しました。ゴルフ練習所の鉄塔をやぐらにして見張り所にし、都の職員が測量をしに来ると、伝令が走り、置いてあるブリキの缶をガンガンと叩いて、その音を聞いた住民が集まって反対運動を行いました。父から「それを見て、成田闘争(※3)の新左翼主要メンバーから、この反対同盟に協力したいとの申し出があったが断った」と聞きました。高井戸の反対同盟は、政治的な絡みは一切抜きに、住民の力だけで反対運動を起こすことが一番重要だったのです。
あれだけの団結力や機動力を何が生み出したのかを振り返ると、一つは、何の前触れもなく清掃工場建設の決定を住民に知らせたという都政のやり方への怒りと、もう一つは、高井戸の人たちの気質だと思います。当時の高井戸の住民たちは「阿吽(あうん)の呼吸」で動ける気風であった、ということですね。
1971(昭和46)年、美濃部都知事が「東京ごみ戦争」を宣言した頃には、杉並区が悪者という風に大きく報道されていましたが、実際には杉並区ではなく高井戸だけが悪者にされていました。本当に悔しかった。周囲から責められ、大変苦しい中でも、反対同盟はあきらめずに住民だけの力で戦いました。

住民の反対運動の様子と、見張り所となったゴルフ練習所の鉄塔(写真提供:杉並区)

住民の反対運動の様子と、見張り所となったゴルフ練習所の鉄塔(写真提供:杉並区)

和解勧告

埋立地の問題などから、東京都としては何としてでも清掃工場を高井戸に建てなければなりませんでした。度重なる法廷を経て、反対同盟の方も「反対のための反対」ではなく、公害のない、地元住民への不利益のない条件を東京都がどこまで出せるか、という部分で戦っていたのだと思います。
1974(昭和49)年11月に東京地方裁判所から「和解勧告」が出され、8年間続いた高井戸住民と東京都の対立に終止符が打たれました。反対同盟が和解に応じた理由は、数えきれない協議の結果、都の出してきた条件があまりにもすばらしく、「嫌なものは嫌だけれど、良いところがいっぱい出てきた」ということだと思います。
父は私に「この杉並清掃工場は技術面も環境への配慮の面も優れている、世界ナンバーワンの清掃工場だ」と言っていました。現在でも、東南アジアやアメリカなど海外から視察や見学に訪れる方々がいます(※4)。

2017(平成29)年に建て替えられた杉並清掃工場。「東京ごみ戦争歴史みらい館」が併設されている(写真提供:杉並清掃工場)

2017(平成29)年に建て替えられた杉並清掃工場。「東京ごみ戦争歴史みらい館」が併設されている(写真提供:杉並清掃工場)

高井戸住民の思いが詰まった「高井戸市民センター」

清掃工場建設の条件として東京都が「高井戸市民センター(※5)」を建てることになり、杉並正用記念財団が管理運営を任されました。初代理事長の内藤祐作氏は、この施設を「区民センター」ではなく、高井戸の人々のための施設という意味を込めて「高井戸市民センター」と名付けました。
1983(昭和58)年に高井戸市民センターが完成して、私も杉並正用記念財団の活動に携わりました。最初に任された仕事は、子供たちのためのイベント企画で、春祭り、秋祭り、ちびっこ盆踊りなどを実施しました。中でも、私が初めて受け持ったちびっこ盆踊りは2日間で7,000人が集まり大盛況でした。
高井戸市民センターは、「東京ごみ戦争」で当時の反対同盟の人々が尽力して得た高井戸の財産です。杉並区の皆さんに、児童書を主体とした図書室やプールなどがあるこのすばらしい複合施設をこれからもどんどん活用していただきたいです。

※1 一般財団法人杉並正用記念財団(しょうようきねんざいだん):「東京ごみ戦争」が和解によって解決されたことを記念し、この精神を後世に残すために「杉並清掃工場上高井戸地区建設反対期成同盟」の地主団である「正用会」が設立した。
※2 当時の高井戸住民は、反対同盟を結成してから10日間で約2万1千人の署名を集めた(内藤祐作著『高井戸の今昔と東京ごみ戦争』より)
※3 成田闘争:新東京国際空港(現成田国際空港)建設に対する反対闘争。三里塚闘争としても知られる
※4 2017(平成29)年に現在の杉並清掃工場に建て替えられた
※5 高井戸地域区民センター、高齢者活動支援センター、高井戸温水プール、ひととき保育高井戸、定期利用保育施設高井戸の5施設が設置されている複合施設で、建物名称が「高井戸市民センター」

現在の高井戸市民センターと「次世代の子どもたちのための環境」を象徴した子供の像

現在の高井戸市民センターと「次世代の子どもたちのための環境」を象徴した子供の像

「東京ごみ戦争」の歴史を語る内藤さん

「東京ごみ戦争」の歴史を語る内藤さん

DATA

  • 出典・参考文献:

    『東京ゴミ戦争 高井戸住民の記録』杉並正用記念財団
    『東京ゴミ戦争と財団法人杉並正用記念財団 1980~2005 財団法人杉並正用記念財団設立25周年記念』杉並正用記念財団
    『高井戸の今昔と東京ゴミ戦争』内藤祐作

  • 取材:加藤智子
  • 撮影:加藤智子、TFF
    写真提供:杉並清掃工場、杉並区
    取材日:2021年11月25日
  • 掲載日:2022年04月04日