今川氏に由来する地を区内に訪ねる

今川氏ゆかりの観泉寺の山門。秋の紅葉がこの上なく美しい

今川氏ゆかりの観泉寺の山門。秋の紅葉がこの上なく美しい

「今川」という地名の起源

杉並区に「今川」という地名が登場したのは、約80年前のことである。1932(昭和7)年、杉並区の発足に伴い、「今川町」という町名が新たに生まれた。今川2丁目にある観泉寺住職・田中法生氏は「“今川”という地名を提案したのは当時の住職です」と語る。その後、1964(昭和39)年の住居表示実施により、今川町を含む地域(※1)が、現在の杉並区今川1~4丁目になった。
「武蔵国田園簿」(※2)によると、駿河・三河・遠江を支配していた戦国大名、今川義元の子孫である「旗本今川氏」が1645年から井草村(のち上井草村・下井草村)の領主であったことが記されている。観泉寺は領内にあり、今川氏と深い関わりがあった。「今川」という地名は、今川氏と観泉寺の関係にも由来があったことが想像できる。
田中氏に、今川氏と観泉寺の歴史や、今川氏と関連のある杉並の地名などについて伺った。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並の寺社>観泉寺

今川氏累代墓がある観泉寺。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)

今川氏累代墓がある観泉寺。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)

観泉寺住職・田中法生氏から話を伺った

観泉寺住職・田中法生氏から話を伺った

区北西部が今川氏の領地になった経緯

今川義元が桶狭間(おけはざま)の戦い(1560年)で敗れ、今川氏は没落したが、嫡男(ちゃくなん)の氏真(うじざね)は徳川家康の庇護(ひご)を受け、領地として品川を与えられていた。「三代将軍・徳川家光の時代に氏真が亡くなった後、孫の直房(なおふさ)が高家(幕府の儀式や典礼を担当する役職)として家光に仕えました。1645年、家光が家康を日光に改葬するにあたり、“日光東照社”から“日光東照宮”への改称を天皇に願い出た際、直房が交渉を担当し、実現。その功績により新領地として、井草村・上鷺宮(中野区)・中村(練馬区)の3カ村500石が与えられたのです」
当時の井草村は、現在の今川のほか善福寺、西荻北、桃井、上井草、下井草、清水、井草を含む地域で、今川氏の領地が広大であったことがわかる(図参照)。この領地支配は幕末まで続いた。

現在の地図で見る当時の今川家の領地(観泉寺資料より)

現在の地図で見る当時の今川家の領地(観泉寺資料より)

今川氏と観泉寺や村民との関係

曹洞宗宝珠山観泉寺は、1597年に曹洞宗観音寺として建立された。「直房が下井草村にあった観音寺を今川氏の菩提寺(ぼだいじ)と定めました。直房の姉が寺名を観泉寺として現在地に伽藍(がらん)を移し、祖父・氏真を開基として、ここに改葬しています」。現在も、観泉寺には氏真夫妻が埋葬されているほか、今川家累代の供養塔が境内にある。
今川氏の領地となったことで、村の名主(世話役)や農民は大変な負担を強いられたと田中氏は語る。「今川氏の家臣は30人ほどだったのに対し、東照宮への将軍代参には約50人、京都将軍代理使者には約150人のお供が必要でした。高家としての体面を保つために、村人を足軽や人足として同行させたり、全ての費用を村に負担させたりもしました。加えて、この辺りは幕府の“お鷹狩場”になっており、鷹狩りの経費や必要な品物(鷹のえさ、蚊取り用の松や杉の葉、観賞用の蛍など)の調達も、村が負担していました。今川氏自身も村に借金をしていました。さらに今川氏は、村の名主を村役人に任命し、村政を代行させていました。苦しい年貢の取り立てや、今川氏のお供に借り出される働き手の補充などで、名主が困窮することも多かったようです」
その頃、観泉寺は領地支配の拠点になっており、門前で領民からの年貢の取り立てや裁判などが行われていたそうだ。「裁判は名主同席のもと今川家用人(家来)により行われ、採決時には、住職の願いにより罪一等を減ずる(軽くする)習わしになっていました」

氏真夫婦の墓と今川家累代の供養塔

氏真夫婦の墓と今川家累代の供養塔

境内の竹林が美しい

境内の竹林が美しい

境内にある鐘楼。毎日、夕方5時に時を知らせてくれる

境内にある鐘楼。毎日、夕方5時に時を知らせてくれる

寺子屋が開かれた薬王院

桃井2丁目にある薬王院は、観泉寺境外仏堂(境内の外にあるお堂)である。「1719年に今川氏の祈祷所(きとうじょ)になりました。江戸時代後期には観泉寺が管理を任され、住職の隠居所にし、寺子屋も開かれました」
寺子屋で使用された教科書は、往来物(おうらいもの)といわれる。「今川了俊(※3)が書いた今川氏の家訓を骨子とした“今川状”や“女今川”などの往来物が、全国複数の寺子屋で道徳の教科書として使われていました。“男女七歳にして席を同じうせず”というように、女性専用の寺子屋もあり、“女今川”は女性用の道徳の教科書となりました」。高い教養を持つ家柄の今川氏だからこそ書けた往来物といえよう。
1875(明治8)年になると、桃園学校第二番分校(現区立桃井第一小学校)が、薬王院の薬師堂で開校した。
薬王院では、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)の石塔や不動尊像などを見ることができる。観泉寺と同様、紅葉が美しく、整備された広い境内からは、江戸時代の子供たちの元気な声が聞こえてくるようだ。

誰でも訪れることができる青梅街道沿いの薬王院

誰でも訪れることができる青梅街道沿いの薬王院

薬師瑠璃光如来の石塔と不動尊像

薬師瑠璃光如来の石塔と不動尊像

区内に残る今川氏に関わる地名

『杉並の通称地名 文化財シリーズ37』には、杉並区今川を中心に今川氏に関わる通称地名も掲載されている。江戸時代の生活の様子が想像できるような地名が多くある。

「八丁」
「八丁」という交差点が青梅街道にある。「“八丁”は今川氏の屋敷があった場所で、北は早稲田通り、南は青梅街道まで、長さが八丁(約872m)あったのが名前の由来とされています。今川屋敷は江戸城の近く(現千代田区)に構えていたので、“八丁”の屋敷は、領地を把握するための家臣らの屋敷でした」と田中氏は語る。この辺りは明治時代になってからも、郵便馬車が停車したり、井荻村の村役場がおかれたり、地域の中心として栄えたそうだ。
大正末期に、現在の四面堂交差点から荻窪警察署・荻窪消防署付近までを「八丁通り」と呼ぶようになった。「八丁」の地名は「八丁通り商店会」の名称にも残っている。

「御茶園」「御菜園」
「御茶園」は今川氏の御用茶園で薬王院の近隣(桃井2丁目)にあり、「御菜園」は今川氏の御用野菜を栽培したところで現在の区立井草森公園内にあった。現在はどちらも残っていないが、昭和初期頃まで名称として使われていたという。

※1 今川町・神戸町・沓掛町・柿ノ木町・四宮町・中通町・新町・三谷町にまたがる地域

※2 武蔵国田園簿:17世紀半ばに江戸幕府が作成した武蔵国の徴租台帳

※3 今川了俊:南北朝時代の武将で、歌人としても知られる

青梅街道「八丁」の交差点

青梅街道「八丁」の交差点

八丁通り商店会のプレート

八丁通り商店会のプレート

DATA

  • 出典・参考文献:

    「すぎなみの地域史3 井荻 令和元年度企画展」杉並区立郷土博物館
    「杉並に学校が誕生したころ 明治期前半に公立学校の原点をさぐる」杉並区立郷土博物館
    「杉並区史跡散歩地図」杉並区教育委員会
    「すぎなみ景観ある区マップ 西荻窪・上井草編」杉並区都市整備部みどり公園課
    「今川氏と杉並の観泉寺 観泉寺所蔵文書を中心として」杉並区立郷土博物館
    『杉並風土記 上巻』森泰樹(杉並郷土史会) 
    「杉並区立郷土博物館常設展示図録」杉並区立郷土博物館
    『今川氏と観泉寺』観泉寺史編纂刊行委員会(吉川弘文館)
    『杉並の通称地名 文化財シリーズ37』杉並区教育委員会
    『新版 荻窪の記憶』荻窪地域区民センター協議会
    「荻窪の記憶Ⅳ 清水・桃井・今川の歴史」杉並区立郷土博物館分館展示(令和3年12月11日~令和4年1月30日)

  • 取材:赤荻千恵子
  • 撮影:赤荻千恵子
  • 掲載日:2022年02月28日