有馬頼寧さん

1926(大正15)年秋、 家族とともに青山南町の自邸で。左より頼春、澄子、頼寧、頼義、貞子、静、正子(提供:有馬頼央氏)

1926(大正15)年秋、 家族とともに青山南町の自邸で。左より頼春、澄子、頼寧、頼義、貞子、静、正子(提供:有馬頼央氏)

「有馬記念」を創った男

有馬頼寧(よりやす 1884-1957)という人物をご存じだろうか。「革新華族」と呼ばれ、華族でありながらリベラルな立場で戦前、昭和の政界の革新に力を尽くした人物である。また、プロ野球球団「東京セネタース」のオーナーや、日本中央競馬会の第二代理事長を務めるなど、スポーツとの関わりも深かった。毎年12月末には、競馬界に大きな功績を残した頼寧を称えて名付けられたGⅠレース、「有馬記念」が開催される。

異色の華族
頼寧は1884(明治17)年、有馬頼萬(よりつむ)の長男として東京日本橋に生まれた。有馬家は、旧久留米藩二十一万石の大名で、明治になって華族に列し、伯爵を授けられた名家である。
1910(明治43)年、東京帝国大学農科大学(現東京大学農学部)を卒業後、欧州外遊を経て農商務省に入省。1918(大正7)年には東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所の講師(のち助教授)となり、教鞭(きょうべん)をとった。頼寧はこの頃から社会問題に関心を持ち、労働者のための夜間学校を私財を投じて創設したり、部落解放運動や農民組合創設に尽力し、「異色の華族」として注目を集めていった 。
それでも、このような活動に限界を感じたのか、1924(大正13)年には大学を辞め、旧藩地の福岡12区から衆議院議員選挙に無所属で立候補し当選。1927(昭和2)年に、頼萬の死去により爵位を継承したため衆議院議員は失職となるが、2年後に貴族院議員(※1)に当選した。
1928(昭和3)年秋、頼寧は浅草・橋場から荻窪に転居し、終生この地に住む。貴族院議員になってからは農政に関わり、1932(昭和7)年に農林政務次官、翌年には産業組合中央金庫(現農林中央金庫)理事長を歴任する。1936(昭和11)年、組合員600万人を誇った農業関連団体のトップである産業組合中央会(現一般社団法人 全国農業組合中央会(JA全中))会頭に就任。1937(昭和12)年6月、第一次近衛内閣成立時、農林大臣に就任した。
1940(昭和15)年10月、軍部を抑えるため広範な国民的組織を結成することを目指して大政翼賛会を組織し、初代事務総長に就く。しかし、軍部や内務官僚、右翼の国体論者らと相いれず、わずか5カ月で失意のうちに辞任。これを機に頼寧は政治の表舞台から身を引いた。大政翼賛会は、その後、国民を管理・統制する組織に変わっていった。大政翼賛会に関わったことから、1945(昭和20)年12月、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容されたが、不起訴となり翌年8月に釈放。その後は、財産税(※2)の導入により資産の大半を失ったが、公職追放が解除されても政界復帰の誘いには一切乗ろうとしなかった。

▼関連情報
有馬記念館(外部リンク)

有馬頼寧、1940(昭和15)年頃 (写真提供:有馬頼央氏)

有馬頼寧、1940(昭和15)年頃 (写真提供:有馬頼央氏)

1919(大正8)年9月、信愛中等夜学校創立の記念写真(写真提供:有馬頼央氏)

1919(大正8)年9月、信愛中等夜学校創立の記念写真(写真提供:有馬頼央氏)

1937(昭和12)年6月、第一次近衛内閣 農林大臣就任の祝賀(写真提供:有馬頼央氏)

1937(昭和12)年6月、第一次近衛内閣 農林大臣就任の祝賀(写真提供:有馬頼央氏)

有馬家系図

有馬家系図

有馬頼寧日記

現在確認されている頼寧の日記は、1913(大正2)年に始まり、途中に空白があったり散逸している年もあるが、1957(昭和32)年に亡くなる直前まで記されたものが残っている。このうち、1919(大正8)年から1946(昭和21)年までの日記は『有馬頼寧日記』全5巻として刊行されている。
伊藤隆東京大学名誉教授の下で『有馬頼寧日記』の編集に加わり、人名索引も手掛けた近代史家の山本一生氏にこの日記について伺った。
「史料的価値の高さもさることながら、女性関係の記述が多いことが大きな特徴だ」と山本氏は話す。一般的に日記を復刻するときには、そのような部分は割愛したり伏せ字にしたりすることが多いが、この日記の利用に際して編者が確認したところ、頼寧の三男で有馬家第16代当主、直木賞作家の有馬頼義(よりちか)から「それがあるから出すんだ。君と僕では日記の利用方法が違うから使ってもよろしい」と言われたという。また、山本氏は「もう一つの特徴は、日記に登場する人物の多さで、約4,000名にも及ぶ。仕事で関係した農政関係者や政治家などに加えて、社会活動家、プロ野球選手、競馬関係者など、交流の広さは他に類を見ない。華族という特権階級ではありえない話で、頼寧の人となりがよくわかる」と語る。
山本氏は『有馬頼寧日記』が完結した後、1919(大正8)年の日記に書かれているある出来事に絞って『恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919』という本を書いている。爵位を捨てる覚悟までした頼寧の恋のノンフィクション物語だ。

西荻窪駅の名付け親
頼寧は日記以外にも多くの回顧録や随筆集を残している。そのうち1951(昭和26)年12月21日東京民友新聞に「井荻村」と題して掲載された文章が著書『花売爺』に収められている。それによると、今の西荻窪駅の駅名がなかなか決まらず、相談を受けた頼寧が東中野駅の命名にならって「西荻窪ではどうか」と答えたら、それで決まったと書いている。頼寧は、新駅「西荻窪駅」誘致にあたっては用地購入のための資金の寄付を行っており、『新修 杉並区史 中巻』「第4章大正期の杉並、ニ、交通網の発達」には、大口寄付者として井荻村村長の内田秀五郎ほか地元の有力者と共に名を連ねている。

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すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>読書のススメ>『恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919』

有馬頼寧(大正後期から昭和初期の撮影)(写真提供:有馬頼央氏)

有馬頼寧(大正後期から昭和初期の撮影)(写真提供:有馬頼央氏)

『有馬頼寧日記』 全5巻

『有馬頼寧日記』 全5巻

「光は獄中より」とタイトルがつけられた1945(昭和20)年12月12日の頼寧の日記。この日から、巣鴨獄中日記が始まる(写真提供:有馬頼央氏)

「光は獄中より」とタイトルがつけられた1945(昭和20)年12月12日の頼寧の日記。この日から、巣鴨獄中日記が始まる(写真提供:有馬頼央氏)

写真上:山本一生著『恋と伯爵と大正デモクラシー  有馬頼寧日記1919』。第56回日本エッセイスト・クラブ賞受賞<br>写真下:著者、山本一生氏。1948年生まれ、近代史家、競馬史研究家。東京大学文学部国史学科卒業

写真上:山本一生著『恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919』。第56回日本エッセイスト・クラブ賞受賞
写真下:著者、山本一生氏。1948年生まれ、近代史家、競馬史研究家。東京大学文学部国史学科卒業

東京セネタース結成

頼寧は1936(昭和11)年、職業野球リーグの結成を目指していた正力松太郎(※3)からの呼びかけに応じ、職業野球球団「東京セネタース」のオーナーになった。当時、プロ野球は「職業野球」と呼ばれ、スポーツで金銭を得るのを蔑視する風潮から、学生野球より一段低いものと見なされていた。その中で、貴族院議員である頼寧のような人物がオーナーを務めたというのは、驚嘆に値することだったであろう。
弟の安藤信昭を理事長に据え、資金は有馬家と西武鉄道との共同出資で、上井草に3万人収容の野球場を建設。この上井草球場は、日本初のプロ野球専用球場で、実質セネタースのホームグラウンドとなった。チーム名は、頼寧と信昭がともに貴族院議員だったため、上院議員を示す英語「senator」からとったといわれている。
セネタースの中心選手は天才二塁手と言われた苅田久徳(※4)だった。中村信一との二遊間コンビに象徴されるセネタースの内野守備陣は「百万ドルの内野」と評された。頼寧は巨人から引き抜いたこの苅田を寵愛(ちょうあい)し、1938(昭和13)年からは監督も任せている。
1940(昭和15)年、英語の使用禁止により、チーム名は「翼(つばさ)軍」に改称。その頃、頼寧は大政翼賛会の事務総長の職にあり、そこから取ったといわれている。 翌年には、出征による選手不足を解消するため「名古屋金鯱(きんこ)軍」と合併し「大洋軍」を結成。1943(昭和18)年には「西鉄軍」へと名称が変更されるが、戦争が激しくなりチームは解散した。
1969(昭和44)年、頼寧は東京セネタースを結成した功績により野球殿堂入りした。

日記に残された上井草球場への思い
頼寧は、上井草に建設される野球場を楽しみにしており、建設の進捗(しんちょく)状況を車で見に行き、日記に次のように綴(つづ)っている。「1935(昭和10)年12月22日(日)晴 暖かい日であった。午前中澄子(次女)同道井草の球場を見に行く。すっかり出来上がってメインスタンドと内野のスタンドだけを残し外野は完全に出来ている。何か狭い感じがする」。上井草球場は翌年8月に完成し、同月29日に落成式が執り行われた。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 スポーツ>野球>杉並とプロ野球-東京セネタース

1936(昭和11)年1月、結成当時の東京セネタース(写真提供:有馬頼央氏)

1936(昭和11)年1月、結成当時の東京セネタース(写真提供:有馬頼央氏)

杉並区立郷土博物館「上井草球場の軌跡」展の図録

杉並区立郷土博物館「上井草球場の軌跡」展の図録

1969(昭和44)年、野球殿堂入りした有馬頼寧のレリーフ(撮影協力:公益財団法人 野球殿堂博物館)

1969(昭和44)年、野球殿堂入りした有馬頼寧のレリーフ(撮影協力:公益財団法人 野球殿堂博物館)

上井草球場があった場所には、現在、上井草スポーツセンターがある(写真提供:上井草スポーツセンター)

上井草球場があった場所には、現在、上井草スポーツセンターがある(写真提供:上井草スポーツセンター)

ファン投票レース「有馬記念」の誕生

「日本競馬の父」と言われる日本中央競馬会の初代理事長安田伊左衛門が退いたあと、第二代理事長に農林省から招請された頼寧が就任した。1955(昭和30)年のことである。生涯を競馬にささげた安田とは対照的に、頼寧はそれまで競馬とは無縁の人だった。
中山競馬場をはじめとする当時の競馬場は、戦争の影響と老朽化で傷みが激しかった。そこで頼寧は臨時競馬を開催し、競馬場施設などの改築費用に充てる策を考え出した。この通称「有馬特例法」は、頼寧の政治力でわずか3日と異例の速さで可決された。また、プロ野球のオールスター戦にヒントを得て、ファン投票によって出走馬を選ぶレースを発案。レース名は「中山グランプリ」と名付けられた。
第1回中山グランプリは、1956(昭和31)年12月23日に新装された中山競馬場で開催され、メイヂヒカリがキタノオーに3馬身半の差をつけて優勝した。
頼寧が亡くなったのは、好評を博した第1回中山グランプリの17日後、1957(昭和32)年1月9日のことだった。1月3日の中山競馬初日には、新しいスタンドを見て回り、翌日の仕事始めには年頭の挨拶を行っている。ところが、7日に肺炎をこじらせて倒れ、そのまま帰らぬ人となった。72歳だった。通夜の席で有力馬主たちから「中山グランプリは有馬さんが作ったレースだから、その功績を長く記念するために有馬の名を冠すべきだ」との意見が出され、中央競馬会首脳もこれに同意した。
戦前には数々の要職を歴任した頼寧だったが、戦後、唯一就いた公職が日本中央競馬会理事長だった。在職期間はわずか1年9カ月だったが、「有馬特例法」の公布、中山競馬場をはじめとする競馬施設の改築、競馬国際協定加入、競馬中継放送の開始、競馬場内の託児所・遊園地の設置など競馬の発展や大衆化に尽力した。さまざまな功績を残した頼寧の名を称え、同年、「中山グランプリ」は「有馬記念」に改称された。

1955(昭和30)年、日本中央競馬会第二代理事長に就任した頃の頼寧(写真提供:日本中央競馬会)

1955(昭和30)年、日本中央競馬会第二代理事長に就任した頃の頼寧(写真提供:日本中央競馬会)

1954(昭和29)年、改修前の中山競馬場(写真提供:日本中央競馬会)

1954(昭和29)年、改修前の中山競馬場(写真提供:日本中央競馬会)

1956(昭和31)年に完成した、東洋一の中山競馬場マンモススタンド、全長230m(写真提供:日本中央競馬会)

1956(昭和31)年に完成した、東洋一の中山競馬場マンモススタンド、全長230m(写真提供:日本中央競馬会)

2018(平成30)年12月 、平成最後の有馬記念を制したブラストワンピース(写真提供:日本中央競馬会)

2018(平成30)年12月 、平成最後の有馬記念を制したブラストワンピース(写真提供:日本中央競馬会)

祖父頼寧の思い出

頼寧の孫、齋藤豊氏と有馬頼央(よりなか)氏に、祖父頼寧の思い出などを伺った。

齋藤豊氏の思い出
頼寧の長女静の長男齋藤豊氏は、「5歳の時、頼寧が巣鴨プリズンから8カ月半ぶりで荻窪の自宅に帰ってきた日、姉の百子(ももこ)が“おじいちゃま”と泣きながら頼寧に抱きついたことは今もはっきり覚えている」という。毎年12月17日に開催されていた子や孫たちを集めての頼寧の誕生会のことも忘れられない。「叔父の頼義が司会進行役になり、ジェスチャーなどのゲームや手品、歌、子供劇などを家族全員が演じて祖父の誕生日を祝っていた」と話す。
「小学5年生の時、オックスフォード大学と慶応義塾大学のラグビーの試合を母に連れられて東京ラグビー場(現秩父宮ラグビー場)に見に行った際に、母から”国旗を掲揚して「君が代」を歌うときは、起立して脱帽して歌うのよ”と教えられた」と齋藤氏は言う。「若い頃、頼寧と一緒に頻繁にスポーツ観戦していた母は、いろんなスポーツのルールやマナーにとても詳しく、頼寧から学んだことを自分にも伝えたかったのだと思う」

有馬頼央氏の思い出
有馬頼央氏は、頼寧が亡くなった2年後の1959(昭和34)年、有馬家第16代当主頼義の長男として生まれた。「”頼寧の生まれ変わり”と、祖母・貞子夫人の喜びは大変なものだった」と聞いた。その頃の有馬邸内には頼義の家族が暮らす屋敷とは別に、長い渡り廊下でつながった別棟に祖母が住んでいた。「幼い頃、一人でその廊下を渡って祖母に会いに行った」と語る。
「小学4年生の頃、両親に連れられて、初めて有馬記念を見に行った。迎えのハイヤーの中で祖父が作ったレースだと教えてもらった。頼義の入院以降は、毎年父の名代として貴賓室に招かれていた」と話す。
頼義が亡くなり、有馬家第17代当主となっていた頼央氏に、日本橋の水天宮の宮司から「ここはもともと有馬さんの神社(※5)だから後を継いでほしい」と声を掛けられた。その後、神職資格を得て2009(平成21)年に水天宮宮司に就任した。有馬家の歴代当主で宮司を兼ねるのは初めてのことだった。宮司となった頼央氏を待ち受けていた大仕事が、2018(平成30)年の江戸鎮座200年記念事業としての社殿と参集殿の建て替え工事だった。2013(平成25)年に工事に着工し、2016(平成28)年境内全体を免震化した新社殿が完成した。頼央氏は「こんな突拍子もないことをする神社は他にないでしょう。前例のないことをやるのは、やっぱり有馬の血なのかな」と祖父頼寧に思いを馳(は)せて語ってくれた。

▼関連情報
水天宮(外部リンク)

有馬頼寧 プロフィール
1884年 12月17日、東京・日本橋にて誕生
1911年 農商務省に入省
1912年 有馬家、荻窪に1万5千坪の土地を入手
1918年 東京帝国大学農科大学附属農業教員養成所講師となる
1924年 衆議院議員選挙に当選
1927年 父頼萬の死により伯爵家を継承
1928年 秋、浅草・橋場から荻窪に転居
1929年 貴族院議員選挙に当選
1932年 農林政務次官
1937年 第一次近衛内閣、農林大臣に就任
1940年 大政翼賛会の事務総長に就任、5カ月後に辞任
1945年 12月A級戦犯容疑で収容されたが不起訴
1955年 日本中央競馬会理事長に就任
1957年 1月9日急性肺炎にて死去

※記事内、故人は敬称略
※1 貴族院議員:大日本帝国憲法下の日本における帝国議会の上院。皇族議員、華族議員および勅任議員によって構成され、解散はなく、議員任期は7年の者と終身任期の者があった。1947(昭和22)年5月3日の日本国憲法施行により華族制度と同時に廃止され、議会上院の後継機関として、国会の参議院が設立された
※2 財産税:財産の所有者に課される租税の総称。所有者の総財産を課税の対象とする一般財産税(1946(昭和21)年実施の財産税、1950(昭和25)年~1952(昭和27)年実施の富裕税など)と、特定の財産に課する個別財産税(固定資産税など)に分かれる。頼寧は、どの財産税なのかを明確にしていないが、富の再配分を目的とした1946(昭和21)年3月3日の時点で個人が有していた財産に対して課された財産税の影響が大きかったと思われる
※3 正力(しょうりき)松太郎:1885-1969。大正・昭和時代の実業家、政治家。読売新聞社長、1934(昭和9)年大日本東京野球倶楽部(読売巨人軍の前身)創設。1959(昭和34)年野球殿堂入り
※4 苅田(かりた)久徳:1910-2001。プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者、1969(昭和44)年野球堂入り
※5 水天宮は1818年、久留米藩主有馬頼徳(よりのり)が久留米城下の水天宮を三田赤羽(現港区三田)の藩邸内に分祀(ぶんし)したのが始まり。安産・子授けの神として信仰を集める。毎月5日の縁日に参拝者のために屋敷の門を開けたことから、「情け有馬の水天宮」という言葉が生まれた。1872(明治5)年、現在の日本橋蛎殻(かきがら)町に移転した
※6 揮毫(きごう):毛筆で文字や絵をかくこと。特に、知名人が頼まれて書をかくこと

頼寧の長女静の長男、齋藤豊氏。幼い頃に同居していた祖父の思い出を語る

頼寧の長女静の長男、齋藤豊氏。幼い頃に同居していた祖父の思い出を語る

頼寧は荻窪の自宅を「欅林荘(きょりんそう)」と名付けていた。揮毫(※6)したのは、頼寧が政治活動を共にした近衛文麿と思われる

頼寧は荻窪の自宅を「欅林荘(きょりんそう)」と名付けていた。揮毫(※6)したのは、頼寧が政治活動を共にした近衛文麿と思われる

新築された水天宮。社殿だけでなく参道や回廊など境内全体に免震構造が採用されている。2016年度グッドデザイン賞受賞

新築された水天宮。社殿だけでなく参道や回廊など境内全体に免震構造が採用されている。2016年度グッドデザイン賞受賞

有馬家第17代当主で水天宮宮司の有馬頼央氏

有馬家第17代当主で水天宮宮司の有馬頼央氏

DATA

  • 出典・参考文献:

    『有馬頼寧日記』全5巻 尚友倶楽部・伊藤隆編(山川出版社) 
    『無雷庵雑記』有馬頼寧(改造社)
    『友人近衛』有馬頼寧(弘文堂)
    『政界道中記』有馬頼寧(日本出版協同)
    『花売爺』有馬頼寧(全国農業出版)
    『七十年の回想』有馬頼寧(創元社)
    『ひとりごと』有馬頼寧(作品社)   
    『山の手暮色』有馬頼義(講談社)
    『恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919』山本一生(日本経済新聞出版社)
    『書斎の競馬学』山本一生(平凡社)
    『日記逍遥 昭和を行く-木戸幸一から古川ロッパまで』山本一生(平凡社)
    『日記に読む近代日本 3 大正』山口輝臣編(吉川弘文館)
    『有馬記念物語 世界最大のレースの魅力を追う』阿部珠樹(青春出版社)
    『お殿様は「今」』加藤明(洋泉社)
    『中山馬主協会50年史』一般社団法人中山馬主協会
    『新修 杉並区史 中巻』東京都杉並区 
    「平成15年度特別展 上井草球場の軌跡(図録)」杉並区立郷土博物館 
    「東京新聞 昭和38年10月11・12日 東京沿線ものがたり」

  • 取材:こういち
  • 撮影:こういち
    写真提供:有馬頼央氏、日本中央競馬会
  • 掲載日:2019年12月09日
  • 情報更新日:2019年12月23日