押阪雅彦(DJ OSSHY)さん

80年代ディスコサウンドの伝道師

ブランドファッション、ピカピカの外車、高級ホテルでデート、そんな華やかなバブル絶頂期ともいえる1980年代、杉並区の高井戸から京王井の頭線に乗って、足繁く渋谷のディスコに通っていた少年がいた。後にDJ OSSHY(ディージェーオッシー)を名乗る押阪雅彦さんだ。1982(昭和57)年にDJ(ディスクジョッキー)の世界に入り、以降は、ダンスミュージックを選曲・編集したCDのプロデュースや、ディスコイベントを開催するなど、音楽に関わる情報発信等で活躍。近年は、ファミリーディスコ(※)や、高齢者施設でのダンスエクササイズの普及にも取り組んでいる。
自身が代表取締役を務める(株)エス・オー・プロモーションの青山にある事務所でお話を伺った。

※ファミリーディスコ 無理せず体を動かすのに適したディスコ音楽に合わせて、多世代の家族みんなで楽しみ、絆を深めてもらう目的のイベント

DJ OSSHYこと押阪雅彦さん 

DJ OSSHYこと押阪雅彦さん 

1981年、初めてのディスコ体験が人生を変える

「高井戸小学校、高井戸中学校と地元の学校に通っていたのですが、何しろ勉強は苦手、音楽が大好きだったんです。オーディオも、アンプ、イコライザー、スピーカーなどを思いのままにセッティングして、こだわっていました。大人顔負けに音楽を楽しんでいましたね」
そんな押阪さんが、友人に誘われて初めてディスコに足を踏み入れたのは1981(昭和56)年のこと。彼が目を奪われたのは、きらびやかなミラーボールでも、ファンキーなダンスでもなかった。「とにかく音楽が、継ぎ目のブランクもなくダンスホールに流れるわけですよ。いったいどうやってるんだろうなって。自分でもお気に入りの音楽を編集してはカセットテープに入れ、友達に配って喜んでもらっていたので、音楽編集がとても気になりました。それからは毎週毎週ディスコに行って、ひたすらDJブースに貼り付いてDJのテクニックを見ていたんです。レコードプレーヤーが2台、真ん中にミキサーを置いて音楽を重ねる技術とセンス!もう夢中になりました」
1970年代から1980年代、新宿・渋谷・池袋・上野には、人気のディスコが多くあった。ディスコといえば不良のたまり場のように思われがちだが、テレビなどのマスメディアに登場することが少ないディスコサウンドと出会えることから、純粋に夢中になった人は多い。DJが選んだその店ならではのディスコサウンドを共有した若い世代にとって、目に見えない連帯感が育まれたのではないか。今でも80年代サウンドのCDが数多く販売されているのは、時代を超えて連帯感が継続していることを象徴しているように思われる。

押阪家は稽古ごとを推奨する厳格な子育て方針だった。左から二番目が押阪雅彦さん、左隣は弟の智彦さん(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

押阪家は稽古ごとを推奨する厳格な子育て方針だった。左から二番目が押阪雅彦さん、左隣は弟の智彦さん(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

1977(昭和52)年頃、当時の人気番組「オールスター家族対抗歌合戦」に出演(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

1977(昭和52)年頃、当時の人気番組「オールスター家族対抗歌合戦」に出演(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

父・押阪忍さんに大反対されながらもDJに

1980年頃は、そんなディスコサウンドの絶頂期だった。「1979(昭和54)年から1981(昭和56)年は、後の音楽シーンに大きな影響を与えたアーティストや名曲が登場しています。George Dukeの“Shine On”、Cheryl Lynnの“Got To Be Real”、B.B.&Q.Bandの“On the Beat”など数えるときりがありません。よく耳にする最近の曲でも、ああ80年代の影響を受けているな、と思う曲はたくさんありますよ。だって、親世代の好きな音楽を聴かされた子供達が創り出す音楽ですから」
映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本で公開されたのが1977(昭和52)年。あれから40年以上経った今、インターネットを介せば、好きな音楽をデジタルデータで即刻ダウンロードして楽しめる。だが、「あの頃は、よほどのビッグヒットでない限り、一般の方は誰の何という曲かなんて分からずに楽しんでいたと思います。僕も、DJのかけるレコード盤のレーベルをのぞき込んで、曲やアーティストの名前を覚えたんですよ。それでももっと知りたくてレコード屋に行っては、それらしいレコードを大量に買い込んで手当たり次第聞いて、お気に入りを見つけていました」
押阪さんは、こうした努力で知識とテクニックを得て、大学在学中に人気店「CANDY CANDY」でDJを務めるようになった。「しかし家族は猛反対です。父はアナウンサーの仕事をしていたこともあり、とても厳しくて、当時は理解を得られませんでした。クリーンなイメージのアナウンサーの息子が“ディスコでDJとは!”って。ようやく口をきいてくれるようになったのは、つい数年前ですよ。優しかった母も、当時はしょんぼりして残念がっていました」
大学卒業後、押阪さんは広告代理店に就職するが、一方で「CANDY CANDY」でのDJ活動も続けていた。広告代理店を退社後は、アメリカのオクラホマ州に語学留学して生きた英語に触れる。帰国後、ラジオ局に就職し、留学で身につけた英語はラジオ番組やDJで役立ったが、時代はディスコからクラブへと変わっていった。「ダンスフロアが狭い、音楽を楽しむカフェバーのような感じの店が増えていきました。音楽も、いろいろな曲を提供する百貨店的ディスコから、ジャンルを絞った専門店化していったんです」

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>押阪忍さん

取材の日に家族そろって。左から⽗・押阪忍さん、押阪雅彦さん、⺟・栗原アヤ⼦さん

取材の日に家族そろって。左から⽗・押阪忍さん、押阪雅彦さん、⺟・栗原アヤ⼦さん

クラブを盛り上げるDJ OSSHYさん(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

クラブを盛り上げるDJ OSSHYさん(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

夜のエンターテインメントを家族で楽しむ時代に

1980年代が懐かしき良き時代になりつつあるなかで、押阪さんに転機がやってきた。「InterFMというラジオ局で、2012(平成24)年の4月からRadio Discoという番組のDJを担当したのですが、その番組が衝撃的な編成だったんです。今までディスコやクラブというカルチャーは夜のエンターテインメントでしたが、その世界観を昼間にもってきた初めての番組で、昼12時からの放送でした。ディスコって、暗がりの中で自由に踊れることや、居合わせた男女のやりとりが醍醐味という人もいるけれど、僕はこの番組でディスコの負のイメージを払拭しようと決めたんです。そのためには、服装はスーツ、ノリノリのDJトークではなくしっかりきちんと話す、そんなことを念頭にファミリーで楽しめるディスコサウンドを放送しました。そうしたらリスナーさんからの反響が、ものすごかったんです。“こんなDJが企画するイベントだったら参加してみたい”、“待ち望んでいました”って。それに、放送を聞いてくれた高井戸中学校時代の同級生がイベントにも来てくれるようになりました。ああ、音楽を分かち合うって本当にステキだなって思いました」
この番組の仕事を機に、押阪さんは父・忍さんと共に会社を運営し、ホテルやライブハウスでファミリー向けのディスコイベントを開催したり、CD制作をしたりして、精力的に活動を続けている。「DJを長年続けてきたことで、僕の熱い思いが父にも通じたのではないでしょうか。これからも今の時代に合わせたディスコサウンドを届けていきたいと思っています」

「これからもディスコサウンドを届けていきたい」と語る押阪さん

「これからもディスコサウンドを届けていきたい」と語る押阪さん

ディスコミュージックで社会貢献

最近は、音楽を媒体とした社会貢献にも挑戦している。高齢者施設で、1977(昭和52)年に流行したEarth Wind & Fireの「宇宙のファンタジー」のような、当時耳にしていたがディスコで踊ったことはなかったであろう音楽に合わせて、ストレッチやダンス風の体操を行っている。「童謡や唱歌もいいけど、ディスコミュージックは、刺激を心地よく受け入れていた若くて元気な頃の自分を感じてもらえるのではないでしょうか」と押阪さんは話す。また、このような社会貢献活動のビジネス化も模索しているとのこと。「今は杉並在住ではないのですが、実家が高井戸なので、ことあるごとに高井戸に帰っているんですよ。近い将来、家族でお世話になった杉並区で、多世代で楽しめるファミリーディスコイベントを開催したいですね」

取材を終えて
取材の冒頭に、ご両親の押阪忍さん、栗原アヤ子さんから丁寧なご挨拶をいただいた。お話を聞くまで想像もしていなかった長年の親子の確執。それにも関わらず、一筋に道を歩んできたDJ OSSHYさんの継続する力の大きさと、同時に息子の歩みをひそかに見守り続けた両親の愛情の深さが、ひしひしと伝わってきた。

DJ OSSHY プロフィール
1965年杉並区生まれ。広告代理店、ラジオ局勤務を経て、父・押阪忍が会長を務める(株)エス・オー・プロモーション代表取締役に就任。「ディスコミュージックを通じて日本国民全員が元気と笑顔になれる」というスローガンを実践すべく、ディスコサウンドにまつわる数々の事業を展開。テレビ、ラジオ番組、雑誌など、現在4つのレギュラーを持つ。セレクト編集を手がけたCDは20枚以上に及ぶ。

高齢者施設での活動の様子(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

高齢者施設での活動の様子(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

2018(平成30)年4月に発売した「ROPPONGI AOR」は、押阪さんが全盛期の六本木をイメージしてセレクトしたミックスCD(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

2018(平成30)年4月に発売した「ROPPONGI AOR」は、押阪さんが全盛期の六本木をイメージしてセレクトしたミックスCD(写真提供︓株式会社エス・オー・プロモーション)

DATA

  • 公式ホームページ(外部リンク):http://www.osshy.com/
  • 取材:高円寺かよこ
  • 撮影:嘉屋本 暁
    写真提供:株式会社エス・オー・プロモーション
  • 掲載日:2018年04月23日