江渡狄嶺さん 【前編】百姓生活の実践から生まれた思想

高井戸の土を耕した農の哲人

大正から昭和初期の高井戸に、江渡狄嶺(えどてきれい)というユニークな農の哲人がいたことを、ご存じだろうか。
江渡狄嶺(1880-1944)は、青森県出身の思想家。1913(大正2)年、高井戸村字原(現・杉並区高井戸東)に自らの哲学を実践するための農場を開き、独自の思想活動を展開した。東西の哲学、経済学、宗教、文学などに通じ、幅広い交友関係を持つ狄嶺の農場には、高村光太郎(※1)、中里介山(※2)、澤木興道(※3)、下中弥三郎(※4)など多くの著名人が訪れ、交流していた。また晩年は自宅で家塾を開き、教育者としても活躍。狄嶺の没後も、遺業を継ぐべく弟子や学者たちが高井戸に集まり、近年まで狄嶺の思想や業績に関する研究会が開かれていたという。まさに、高井戸の知られざる偉人だ。

PDF:知られざる偉人_江渡狄嶺さん【年表】(154.4 KB )

江渡狄嶺。1924(大正13)年、44歳当時の写真(写真提供:江渡雪子さん)

江渡狄嶺。1924(大正13)年、44歳当時の写真(写真提供:江渡雪子さん)

貴重な資料の一部を紹介

2015(平成27)年、すぎなみ学倶楽部のライターは、狄嶺の孫娘・江渡雪子さんにお会いし、江渡家で保管されていた膨大な量の狄嶺関連資料の存在を知った。そこには明治後期から昭和にかけての狄嶺本人および家族の日記、蔵書だけでなく、著名人からの書簡、写真など、後世に残したい貴重な資料が多数含まれていた。
これらの資料については、雪子さんのご意向もあり、杉並区に関連の深いものを中心に杉並区立郷土博物館に寄贈されることになった。当サイトでは、その一部を紹介する。

江渡家で保管している資料の一部

江渡家で保管している資料の一部

東京帝大を中退し百姓生活を営む

江渡狄嶺(本名・幸三郎)は、1880(明治13)年、青森県三戸郡五戸村(現・五戸町)で呉服商を営む旧家の長男として生まれた。1901(明治34)年、東京帝国大学法科大学に進学。在学中から三宅雪嶺(※5)が主宰する雑誌『日本人』に寄稿するなど、思想家としての活動を始めた。大正デモクラシーに向かう時代を背景にして、狄嶺はトルストイ(※6)やクロポトキン(※7)の思想に共鳴。1908(明治41)年には、牧師の吉田清太郎(※8)から洗礼を受ける。生き方の転換を模索した結果、「百姓の生活というものが一番正しいものである」との信念に至り、大学を中退して小作百姓となる道を選んだ。
1911(明治44)年、30歳の狄嶺は、学生結婚で結ばれた妻・関村ミキと、親友の弟・小平英男を伴い、徳冨蘆花(※9)の世話で東京府豊多摩郡千歳村船橋(現・世田谷区)に移住。「百性(ひゃくしょう)愛道場」と名付けた約3反の農場で、自給自足する生活を目指した。しかし農業経験のないインテリ学生だった狄嶺と、秋田の旧家に生まれ、お嬢様育ちのミキにとって、百姓生活は過酷だった。収穫も望めず、現金収入もなく、野草を食べて飢えをしのいだり、家畜の飼料となるフスマをドロドロにしたものを食べる日が続いた上、地主から立ち退きを迫られたという。

千歳村・船橋で百姓生活を始めた頃。左からミキと十蔵、狄嶺、英男(写真提供:江渡雪子さん)

千歳村・船橋で百姓生活を始めた頃。左からミキと十蔵、狄嶺、英男(写真提供:江渡雪子さん)

高井戸に三蔦苑を開く

それでも狄嶺は農業実践をあきらめず、1913(大正2)年、高井戸村字原(現・杉並区高井戸東)に家と土地を借りて、温床による花卉栽培(※10)や、鶏卵販売を始めた。この約5反の農場は、狄嶺、ミキ、英男、3人が共同体であるという意味を込めて、後に「三蔦苑(さんちょうえん)」と名付けられた。なお、「三蔦」はミキの実家、関村家の裏家紋でもある。
狄嶺は営農改善に努力し、百姓生活は軌道に乗り始めた。しかし1915(大正4)年、貧しさを克服しきれぬ中、6歳の長男・十蔵が病気で急死するという出来事があり、狄嶺は悲嘆にくれる。一方で、同様に愛児を亡くした親友・石田友治(※11)らと共同して、幼くして亡くなった子供たちの慰霊施設を建てるための寄付を募り、1921(大正10)年、敷地内に高村光太郎の設計による「可愛御堂(かわいみどう)」という名の納骨堂を兼ねた集会所を建設した。また、独自の信念から4人の子供たちを学校に通わせずに、1人に1語の外国語教育をするなど家庭で教育した。こうした狄嶺の活動は、東京朝日新聞(※12)などのマスコミに取り上げられて世間に知られるようになり、記事を読んだ人々が狄嶺に面会を求めて続々と三蔦苑を訪れるようになった。


可愛御堂の建造に寄付を呼び掛ける趣意書(資料提供:江渡雪子さん)

可愛御堂の建造に寄付を呼び掛ける趣意書(資料提供:江渡雪子さん)

1920(大正9)年8月10日付東京朝日新聞の記事(資料提供:江渡雪子さん)

1920(大正9)年8月10日付東京朝日新聞の記事(資料提供:江渡雪子さん)

『或る百姓の家』を出版

1922(大正11)年、42歳の狄嶺は、初めての著書『或る百姓の家』を出版。帰農(※13)に至る苦悩と百姓生活を赤裸々に綴ったこの本は、社会的反響を呼び、版を重ねて多くの狄嶺ファンを生んだ。1924(大正13)年には、続編にあたる『土と心とを耕しつつ』を出版した。
また同年10月、狄嶺はカリフォルニア州モントレー市在住の友人・三浦辰次郎の招きで渡米し、アメリカ西部や北部の農業を視察した。当初は数年かけてヨーロッパにも滞在し現地の農業教育などを学ぶ予定だったが、日本人差別を経験したことから、欧州行きを中止して翌年4月に帰国。「日本には日本の道がある」と考えるに至り、1927(昭和2)年に故郷の青森県で有志を募り、思想結社「民族自己の道建設社」を創設した。

著書『或る百姓の家』(資料提供:江渡雪子さん)

著書『或る百姓の家』(資料提供:江渡雪子さん)

アメリカで農業視察する狄嶺(写真提供:江渡雪子さん)

アメリカで農業視察する狄嶺(写真提供:江渡雪子さん)

牛欄寮の開設と、晩年の教育活動

百姓生活の厳しさを経験し、狄嶺はトルストイの唱える理想主義に幻滅を感じる。そして「そんな理屈などを捨てて私の生活を、その家をまともに見詰めていったら、本当のものが生れるのではないか」(原文ママ、※14)という境地に至った。その後、狄嶺は自らの思索の集大成である「場(ば)の思想」を発表する。思想そのものは難解であったが、「自分の生業を通して人生を考える」という視点は、人々の共感を得て信奉者を生んだ。
1935(昭和10)年、狄嶺54歳のとき、三蔦苑内に家塾「牛欄寮(ぎゅうらんりょう)」を開設。青年有志を集め、三蔦苑の農作業を含む共同生活の中で、思想教育を行った。後に文部大臣を務める安倍能成(※15)など、多分野にわたる著名人が牛欄寮で講師として特別講義をした。さらに長野県、青森県を中心に、狄嶺を慕う人たちの間で集まりが開かれ、各地で講義に招かれた。その後も1939(昭和14)年に、『地涌(ちゆ)のすがた』を出版し、旧満州(中国東北部)に講演旅行に出かけるなど精力的に活動を続けるが、1944(昭和19)年、滞在先の伊豆・修善寺で急逝。64歳の生涯を閉じた。

狄嶺が自分の思想を図示した「農乗曼荼羅(のうじょうまんだら)」(資料提供:江渡雪子さん)

狄嶺が自分の思想を図示した「農乗曼荼羅(のうじょうまんだら)」(資料提供:江渡雪子さん)

1939(昭和14)年頃、家族および「三蔦苑」の法被をきた牛欄寮の書生とともに(写真提供:江渡雪子さん)

1939(昭和14)年頃、家族および「三蔦苑」の法被をきた牛欄寮の書生とともに(写真提供:江渡雪子さん)

「狄嶺文庫」と「狄嶺会」

狄嶺の没後、戦後しばらくの間は、ミキと英男を中心に三蔦苑の経営は続いた。また狄嶺の遺業を引き継ごうと、各地の弟子たちや友人が三蔦苑に集まって、狄嶺の思想や業績についての研究活動が開始された。1963(昭和38)年、江渡家は牛欄寮の跡地に「狄嶺文庫」と名付けた書庫を建て、膨大な関連資料を収蔵した。1968(昭和43)年には、生前の狄嶺を知る各地の弟子と多様なジャンルの研究者が「狄嶺会」を結成し、2007(平成19)年頃まで狄嶺文庫内で例会を開いていたという。その後、狄嶺会の活動は休止されたが、例会に参加していたメンバーが、それぞれの分野で狄嶺に関する論考を発表している。
今では、知られざる存在となってしまった江渡狄嶺だが、百姓生活に打ち込んだ純粋な人柄と独自の思想は、現代のわれわれをも引き付ける。著作は長く絶版となっているが、『江渡狄嶺選集 上・下』が区立中央図書館に所蔵されており、狄嶺のユニークな人物像の一端を知ることができる。大正から昭和にかけての杉並の文化史を振り返る上でも、今また注目したい人物である。

1978(昭和53)年に設置された「狄嶺文庫」の銅銘版

1978(昭和53)年に設置された「狄嶺文庫」の銅銘版

『杉並区史』に刻まれた狄嶺の功績

なお、1982(昭和57)年発行の『杉並区史』は、狄嶺を大正期に杉並で活躍した特筆すべき思想家として取り上げ、「こうした狄嶺のユニークな生き方に、われわれはデモクラシーの大正期にふさわしい『新しい人』の姿をみることができよう」(※16)と紹介している。また、狄嶺が関東大震災の際に3人の朝鮮人学生を自宅に保護した行動を、「当時の状況を考えれば、それは見事なヒューマニズムと言うことができる」(※17)と高く評価している。

関東大震災と狄嶺
1923(大正12)年9月、地震直後の混乱の中で「朝鮮人暴動」のデマ情報が飛び交い、区内でも朝鮮人への乱暴行為が起きていた。狄嶺の記録によると、高井戸でも「朝鮮人が暴動を起こしている」とのデマが流れて、自警のための結集を呼び掛ける半鐘が乱打され、鳶口(とびぐち)や竹やり、刀、鉄砲などで武装した人々が集まり、各地で銃声が聞こえたという(※17)。しかし狄嶺はそれを「無知の行為」と同情しつつ状況を冷静に見極め、知人の紹介で逃げてきた朝鮮人の学生たちを敷地内の可愛御堂にかくまった。
助けられた学生の一人で、後にジャーナリストとして活躍する金三奎(※18)は、後年、狄嶺の娘・不二への追悼文の中で「江渡家の人々はわが生涯にとって最も美しい思い出である。心の父であり、母であり、姉であり、妹であり、弟たちである」(※19)と綴り、晩年まで江渡家と交流を続けた。彼が生前の狄嶺とミキに宛てた書簡は現在も多数保管されており、行間からは、命の恩人へのほとばしるような思慕と尊敬の念が伝わってくる。また、狄嶺は1927(昭和2)年に朝鮮半島と満州を訪れた際に、朝鮮半島の西南部にある金氏の実家に立ち寄って歓待を受けている。

金氏から狄嶺に宛てた手紙(資料提供:江渡雪子さん)

金氏から狄嶺に宛てた手紙(資料提供:江渡雪子さん)

1927(昭和2)年、訪朝し金氏の実家を訪れて歓待を受ける狄嶺(出典:『江渡狄嶺 目で見るその生涯』、資料提供:江渡雪子)

1927(昭和2)年、訪朝し金氏の実家を訪れて歓待を受ける狄嶺(出典:『江渡狄嶺 目で見るその生涯』、資料提供:江渡雪子)

※記事内、故人は敬称略
※1 高村光太郎:1883-1956。詩人・彫刻家。代表的な著作に詩集『道程』『千恵子抄』。日本を代表する彫刻家でもある
※2 中里介山(なかざとかいざん):1885-1944。小説家。長編時代小説『大菩薩峠』は大衆小説の先駆けと言われ、後年、何度も映画化されるなど人気を博した
※3 澤木興道(さわきこうどう):1880-1965。曹洞宗(そうとうしゅう)の僧侶。駒澤大学特任教授。晩年は、京都にあった安泰寺の再興に尽くした
※4 下中弥三郎:1878-1961。平凡社の創業社長。教育組合の創立や農民運動など社会運動にも参加した。大正から昭和の一時期、阿佐谷、天沼に在住
※5 三宅雪嶺(みやけせつれい):1860-1945。評論家・哲学者。1888(明治21)年に雑誌『日本人』を創刊し国粋主義を主張
※6 トルストイ:1828-1910。ロシアの小説家・思想家。代表作に『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』など。愛、労働、無抵抗、非戦などを提唱し、明治期以降の日本において多くの知識人に思想的影響を与えた
※7 クロポトキン:1842-1921。ロシアの革命家・無政府主義者。狄嶺は、著書『パンの略取』を読み強い影響を受けた
※8 吉田清太郎:1863-1950。牧師。同志社大学卒業。禅とキリスト教の同一の境地を知り「禅者牧師」と呼ばれる。狄嶺が生涯の師と仰いだ人物
※9 徳冨蘆花(とくとみろか):1868-1927。小説家。トルストイの影響を受け、1907(明治40)年に東京都北多摩郡千歳村粕谷(現・世田谷区)に移住し半農生活を送った。現在、居住地跡は都立公園「蘆花恒春園」になっている。代表作に『不如帰(ほととぎす)』『自然と人生』など
※10 花卉(かき)栽培:観賞用の植物を栽培すること。三蔦苑ではダリアやプリムラなどの草花を栽培していた
※11 石田友治(いしだともじ):1881-1942。秋田県出身。大正デモクラシー期、普通選挙運動などで活動したジャーナリスト・宗教家
※12 東京朝日新聞:現在の朝日新聞。当時は「大阪朝日新聞」と「東京朝日新聞」が発行されていた
※13 帰農(きのう):都市での生活をやめて、地方で農業に従事すること
※14 出典:『地涌のすがた』
※15 安倍能成(あべよししげ):1883-1966。哲学者。幣原(しではら)内閣で文部大臣を務める
※16 出典:『杉並区史』中巻「第7編近代社会/第4章大正期の杉並/第一節 大正デモクラシーと杉並の村々」
※17 出典:『杉並区史』下巻「第9編現代/第1章関東大震災と杉並の変貌/第一節 関東大震災と杉並の地域」
※18 金三奎(キム・サムギュ):1908-1989。韓国出身のジャーナリスト。関東大震災時は15歳(東京高等学校尋常科2年)。東京帝国大学卒業。日本国内で朝鮮独立活動に加わり、1939(昭和14)年まで在京。「東亜日報」の編集局長を務めた後、再来日し『コリア評論』を主宰
※19 出典:「江渡狄嶺研究 第27号」
※江渡雪子さんは2021(令和3)年にご逝去されました。故人のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます

DATA

  • 出典・参考文献:

    『或る百姓の家』江渡狄嶺(總文館)
    『土と心とを耕しつつ』江渡狄嶺(叢文閣)
    『場の研究』江渡狄嶺著・山川時郎編(平凡社)
    『江渡狄嶺選集(上・下)』江渡狄嶺(家の光協会)
    「江渡狄嶺研究 第1号~第28号」(狄嶺会)
    『江渡狄嶺書誌』大西伍一編(狄嶺会)
    『ミキの記録』大西伍一編(三蔦苑)
    『新版 日本の思想家 下』朝日ジャーナル編集部(朝日新聞社)
    『続 春汀、狄嶺をめぐる人々』鳥谷部陽之助(北の街社)
    『江渡狄嶺 目で見るその生涯』狄嶺会五戸支部(三土社出版部)
    『日本思想の可能性―いま…近代の遺産を読みなおす』鈴木正、山嶺健二編(五月書房)
    『江渡狄嶺― 場の思想家』和田耕作(甲陽書房)
    『現代に生きる江渡狄嶺の思想』斎藤知正、中島常雄、木村博編(農文協)
    『新修 杉並区史 中・下』(東京都杉並区役所)
    『文化財シリーズ39 高井戸雑話― 昭和の農民史』(杉並区教育委員会)
    『音楽への愛と感謝』尾崎喜八(平凡社ライブラリー)
    『場の教育― 土地に根ざす学びの水脈』岩崎正弥、高野孝子(農文協)
    『ポリティコン 上・下』桐野夏生(文藝春秋)
    『農本主義のすすめ』宇根豊(ちくま新書)
    「日本読書新聞」昭和45年8月17日付掲載記事「江渡狄嶺 農業こそ原初的な聖業」大西伍一
    朝日新聞社公式ホームページ http://www.asahi.com/

    取材協力:江渡雪子さん、江渡まち子さん、大西路男さん

  • 取材:内藤じゅん
  • 撮影:写影堂、TFF、内藤じゅん
    写真提供:江渡雪子さん
  • 掲載日:2017年02月13日
  • 情報更新日:2023年08月20日