中島邦男さん

陸軍気象部に採用される

終戦の前年、1944(昭和19)年3月、私の家は三鷹の下連雀(しもれんじゃく)にあり、家族と一緒に暮らしていました。父は川崎の水産会社に勤務しており、樺太(以降、サハリン)に単身赴任していました。私は、品川区大崎にあった旧制立正中学校(現・立正大学付属立正高等学校)に在学しており、卒業を控えていました。卒業後の進路を考えている時に、偶然、電柱にあった陸軍気象部の要員募集の貼り紙を目にしました。採用試験は、一般常識の簡単な筆記試験と面接で、同年の4月から、馬橋(現在の高円寺北)にある陸軍気象部に軍属として勤務することになったのです。
当時の陸軍気象部は、予報課と観測課があり、私は観測課を希望しましたが、残念ながら予報課の配属となりました。私と同時に採用された同期生が1名おりましたが、彼が観測課に配属されました。勤務形態は、8時間勤務の3交代制で、常に稼働状態で、昼夜とおしての勤務もありました。
私は三鷹から中央線で通いました。往きは高円寺駅から徒歩で通勤し、帰りは時折り阿佐ケ谷駅を使っていました。駅から気象部までの通勤路では、同様に気象部に勤務する人の行き来も多く、住宅街の道より人通りが多いように感じました。
陸軍気象部は広大な敷地を構えていましたが、私は自分の勤務する棟にしか入ったことがありません。キョロキョロしながら敷地内を探検するなど、とても許されるような雰囲気ではありませんでした。
正門を入った右手に気象神社があって、4月10日に気象神社創建祭が行われたのを見ております。

中島邦男さん

中島邦男さん

初代の気象神社(資料提供:中島邦男さん)

初代の気象神社(資料提供:中島邦男さん)

気象神社創建祭の模様。前面の着飾った女性は気象神社の職員と思われる(『気象神社の会 会報第二号』より)

気象神社創建祭の模様。前面の着飾った女性は気象神社の職員と思われる(『気象神社の会 会報第二号』より)

馬橋での勤務

当時は、天気予報や暴風警報、天気図などの気象情報は、すべて国民には知らされていませんでした。すべて軍の管理下におかれていたのです。私が扱う情報は、言うまでもありませんが、すべて機密情報でした。
当時勤めていた予報課の建物の1階に通信室がありました。駆け出しの私に与えられた仕事は、その通信室で受けた暗号化されている各地からの気象データを解読して、次の天気図を描く分担の人に渡すことでした。暗号を乱数表と照らし合わせて意味が解るようにするのですが、先輩にいい人がいて親切に指導してくれました。毎日、膨大な量のデータが届きます。それをいかに早く、いかに間違いなく解読するかということが求められました。まだ19歳だった私は、ミスをして怒られるのではないか、仕事が遅いと怒られるのではないかと毎日緊張していました。
やがて、前線への転属の話が出ました。当時は、南方へ行く人が多かった。しかし、私は父がサハリンに単身赴任していましたし、父が家族を呼び寄せるという話も進んでいたため、サハリンへの赴任を志願しました。サハリン南部は、その時代、日本の領土の一部でした。幸い、上司がサハリン行きを推してくれました。
こうして、私の馬橋の陸軍気象部での勤務は、わずか3ヶ月で終了したのです。

陸軍気象部正門(資料提供:中島邦男さん)

陸軍気象部正門(資料提供:中島邦男さん)

陸軍気象部の平面図(資料提供:中島邦男さん)

陸軍気象部の平面図(資料提供:中島邦男さん)

サハリンでの勤務

当時、東京からサハリンへの移動は、稚内までを汽車で、稚内からサハリンまでは船でした。青森へは太平洋岸沿いの仙台を通って行く経路が一般的でしたが、私は乗る汽車を間違えてしまい、日本海側の秋田などを経由して行きました。経路を間違えたおかげで、中学校で習った秋田の八橋油田(やばせゆでん)のタワーや、八郎潟などを車窓から楽しむことができました。ただ旅の間、東北の方言が分からず、困りました。転属元より、札幌にあった第11野戦気象隊に寄ってから稚内に向かうようにとの命を受けていたので、途中、札幌で1泊しました。
サハリンでは、中心都市、豊原市(現・ユジノサハリンスク)から北に30Kmぐらい離れた落合(現・ドリンスク)の大谷(現・ソコル)で、落合陸軍気象観測所に勤務しました。
落合陸軍気象観測所でも、8時間勤務の3交代制で、最初は予報の仕事をしました。私の仕事内容は、天気図への気象マークや風の方向の書き込みで、等圧線は上司が書き込みました。天気図を近くの部隊に配布することも仕事の1つでした。航空基地も近くにあったのですが、そこにも天気図を届けました。私が一番若かったせいでしょうか、航空基地の将校から懇意にしてもらって、飛行機の中を見せてもらったこともありました。
その後、かねてより希望していた観測の仕事につきました。建物の地下に気圧計の付いた部屋があって、まずそこで気圧を測り、露場(※)にあった百葉箱で気温や湿度を測り、雨量計をチェック。そのような観測を定期的に行ないました。一番大変だったのは、屋上での雲の観測です。雲の状態を見るのですが、昼間はいいけれど夜は真っ暗で何も見えません。しかし先輩からは、「雲の状態が分かるまで建物の中に戻って来るな。」と言われて、寒いなか長時間に渡る外での観測は厳しかった。大谷は寒い土地で、西からの風が強く、低気圧の通り道のため良い天気が長続きしません。建物の窓ガラスは全て二重ガラスでしたが、それでも風がヒューヒューと音をたてて入ってくる。風の音が始終耳障りでした。私が観測した気温で一番低かったのはマイナス40度です。観測したデータは有線で郵便局に送りました。郵便局から先は札幌を経由して全国に届くようになっていました。夜勤中に緊急電報が入った時は、少し離れた軍の通信所まで電報を取りに行くのですが、灯火管制で暗くて薄気味悪い道を歩いて往復したこともありました。
大谷では観測所の近くの寮で暮らしていました。豊原市に住んでいた父も、落合の陸軍気象観測所を2度ほど訪ねてくれましたが、1945(昭和20)年3月に終戦を待たずして急性肺炎で亡くなりました。

※露場(ろじょう):気象観測を行うために整備された屋外の場所

落合陸軍気象観測所(資料提供:中島邦男さん)

落合陸軍気象観測所(資料提供:中島邦男さん)

当時のサハリン南部の概略図

当時のサハリン南部の概略図

終戦

終戦を迎えたのは、雨龍(現・キリロヴォ)陸軍気象観測所でした。観測所は約3分の2が地下に埋まった三角兵舎で、所長と私、同僚1名の3名で観測していました。終戦の日も通常どおり勤務していたところ、観測データを送った郵便局から電話を受けました。たまたま、私が受けたのです。電話口の向こうの郵便局の女性局員は、「日本が負けた。」と言うのです。日本が勝つと信じてきた私たちにとっては、寝耳に水、半信半疑でした。
夜、休んでいると所内で大きな音がして飛び起きました。所長が、あまりのショックだったのか精神状態が不安定になり、銃を持ち出して所内で乱射したのです。止めなくてはとは思いましたが、とても怖くて体が動きませんでした。
その翌日、気象観測データは機密であったため、焼却処分するように指示がありました。観測所のすぐ前にあった防空壕の中に書類をすべて入れて、ガソリンをまいて火をつけて燃やしました。ところが、その煙を見つけたソ連軍の戦闘機が飛来して、防空壕目がけて機銃掃射してきました。終戦となった後も、ソ連軍の攻撃は止まなかったのです。私たちは、ソ連軍機から見つからないように、道路脇の側溝に入り、側溝の脇に茂った草に隠れながら逃げました。夏で着ていたシャツが白かったので、側道を歩いていても上から見えるはずです。生きた心地がしなかったけれど、どうにか民家まで逃げることができました。
8月20日ぐらいに、雨龍から落合陸軍気象観測所に戻りました。観測所は、今まで見かけたこともなかった将校や下士官でごった返していて、異様な雰囲気でした。もうこれで観測所からの景色も見納めだと思い、屋上にあがり周囲を見回したところ、ソ連軍から空爆された豊原辺りの建物から黒煙が上がっていました。

身振り手振りを交えて当時の様子を語る中島さん

身振り手振りを交えて当時の様子を語る中島さん

戦争を経験した私が伝えたいこと

終戦後、周囲の住民が私たち軍関係者に向ける目は、非常に冷たくなりました。軍隊は解散しましたし、帰国することもできませんでした。若い私などが昼間仕事もしないでブラブラしていると、「働かざるものは食うべからず」と言われ、日本に引き揚げるまでソ連に強制労働を強いられました。強制労働は、サハリン各地へ出向き、伐採した木の貨車積みなどをする肉体労働です。明日はここに行け、明後日はここへ行けと命令を受けました。一番遠いところでは、久春内(現・サハリン州イリインスキー)まで行ったこともあります。野田(現・チェーホフ)に行った時には、いつまで待っても帰っていいと言われず、明け方に逃げ出して線路を歩いて帰ったこともありました。
引揚船は、サハリンの北方に居た人から順番に乗船することになっていました。南の方に居た私たちは家族は1948(昭和23)年6月、真岡(現・ホルムスク)から函館行きの引揚船雲仙丸で、船中に2泊してようやく日本に帰ることができました。
引き揚げ後は父の実家である埼玉県の草加に行きました。その後、陸軍気象部での人脈が活きて、大手町にあった気象庁の中央気象台を経て関東電波監理局(現・関東総合通信局)で、1985(昭和60)年3月、58歳まで働きました。
いつであったかは忘れてしまいましたが、気象の仕事をしていた再従兄弟(またいとこ)から、陸軍気象部にあった気象神社が杉並区にあると聞き、その後気象神社の会の主宰者で気象庁の元予報官だった方とお会いした折、高円寺氷川神社にあると知りました。それから毎年6月1日の気象記念日の例大祭に参列しています。私と同様、陸軍気象部に勤めていた人も参列していましたが、今では随分と人数が減りました。
私は入隊を希望していましたが、結局軍人になる前に終戦になりました。軍人でない私でも、幾度となく怖い経験をしました。また、特攻隊員となり命を落とした同級生もいます。戦争体験を今まで話したことはありませんでしたが、この機会に伝えたいことは、「戦争は二度と繰り返してはいけない」ということです。

現在の気象神社

現在の気象神社

DATA

  • 出典・参考文献:

    気象神社の会 会報

  • 取材:小泉ステファニー
  • 撮影:写影堂 写真提供:気象神社の会 会報
  • 掲載日:2015年09月28日