荻外荘

荻外荘を有名にした近衞文麿と荻窪会談

大正時代から昭和初期にかけて、文化人の別荘地または都心に近接した郊外住宅地として発展してきた面を持つ杉並区。当時は屋敷林を持つ邸宅が数多く存在していた。その1つとして、荻窪にある荻外荘(てきがいそう)が挙げられる。かつて近衞文麿の私邸であったこの場所は、現在、敷地の一部が公開されている。
近衞文麿は、1937(昭和12)年から1941(昭和16)年にかけて3度総理大臣を務めた人物である。また、天皇の摂政や関白になれる五摂家(ごせっけ)の筆頭である近衞家の第29代当主でもあった。
第二次世界大戦当時、荻外荘では、「荻窪会談」という名で知られる会談が開かれていた。出席者は松岡洋右(外相)、東條英機(陸相)、吉田善吾(海相)などをはじめ、そうそうたるメンバーである。大臣の人事や外交方針など、戦時下における日本の立ち位置を決める重要な話し合いがあったとされるが、私邸での非公式な会談であったため伝聞の域を出ない。しかし日米開戦に否定的であった近衞が策を練っていたとあれば、荻外荘における荻窪会談でもそれを主張したことは疑いの余地もない。
終戦後の1945(昭和20)年12月16日早朝、GHQから巣鴨拘置所への出頭を命じられていた近衞は、荻外荘の一室で服毒自殺した。戦争犯罪人として逮捕され裁かれることは、近衞にとっておそらく耐えられないことであったに違いない。その部屋の窓は今も(仮称)荻外荘公園から見ることができる。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部>歴史>記録に残したい歴史>運命の宰相・近衞文麿と荻外荘(てきがいそう)

現在、荻外荘敷地の南側部分が整備され暫定開放されている

現在、荻外荘敷地の南側部分が整備され暫定開放されている

(仮称)荻外荘公園から見た荻外荘。白いシャッターが下りている部屋の左隣りの部屋で近衞文麿は自死した

(仮称)荻外荘公園から見た荻外荘。白いシャッターが下りている部屋の左隣りの部屋で近衞文麿は自死した

荻外荘の歴史

荻外荘は、1927(昭和2)年に伊東忠太(※)の設計により、東京帝国大学教授・宮内省侍医頭などを歴任した入沢達吉の邸宅として建設された。生い茂っていたカエデの木にちなんで、楓荻荘(ふうてきそう)と命名されている。
1937(昭和12)年秋頃、楓荻荘は時の総理大臣近衞文麿に譲渡された。現在とは地名表記が異なり、敷地の一部は荻窪の外にあったので、元老西園寺公望が「荻外荘」と名付けたともいわれる。以来、ここは荻外荘として世に知られ、今に至る。
なお、吉田茂元総理も、戦後の野党時代を荻外荘で過ごしている。

※伊東忠太(いとうちゅうた):築地本願寺などを手がけた著名な建築家

※2016(平成28)年3月1日に「荻外荘(近衞文麿旧宅)」が国の史跡に指定されました。詳しくはこちらのサイトをご覧ください。
杉並区役所ホームページ>国指定史跡 荻外荘(近衞文麿旧宅)(外部リンク)

▼関連情報
現在、杉並区では、「荻外荘の復元・整備」に関して、寄附を受け付けています。ふるさと納税制度もご利用いただけます。
杉並区公式ホームページ「荻外荘」の復原・整備(PDF 2.1MB)(外部リンク)
ふるさとチョイス「杉並区」のページ(外部リンク)

庭から見た荻外荘。1960(昭和35)年以降の様子。(『(仮称)荻外荘公園基本構想』より転載)

庭から見た荻外荘。1960(昭和35)年以降の様子。(『(仮称)荻外荘公園基本構想』より転載)

DATA

  • 住所:杉並区荻窪2-43
  • 最寄駅: 荻窪(東京メトロ丸ノ内線)  荻窪(JR中央線/総武線) 
  • 出典・参考文献:

    杉並区の資料『(仮称)荻外荘公園基本構想』
    東京新聞連載記事「東京探訪」

  • 取材:野見山肇
  • 撮影:野見山肇
  • 掲載日:2015年08月31日