ちゃぶ台

家族を結ぶ丸い円「ちゃぶ台」

ちゃぶ台というと、「サザエさん」や、向田邦子さんのドラマ「寺内貫太郎一家」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。昭和50年代にダイニングテーブルにとってかわられるまで、ちゃぶ台は、昭和の暮らしの中心的存在でした。
ちゃぶ台は円形と角形があり、脚を折りたたんでかたづけられるのが便利でした。
ごくありふれた道具であったちゃぶ台の記憶を、昭和生まれの主婦・井上知子さん(杉並区・南荻窪在住)に、伺いました。

杉並区立西田小学校郷土資料展示室

杉並区立西田小学校郷土資料展示室

座席の変遷と家族の歴史

-まず、ちゃぶ台が使われていた場所を教えていただけますか?
玄関をあがって、廊下の奥の右手の和室が茶の間で、そこにちゃぶ台を置いていました。家族が揃う夕食はちゃぶ台でいただく習慣でした。実はダイニングキッチンもあったので、忙しい朝はそのテーブルを使いました。

-それでは、ちゃぶ台を囲んだご家族は?
主人と主人の祖母、主人の父母、それと長女です。主人の祖母が亡くなってから、次女が生まれました。

-すると、ひとつのちゃぶ台に6人ですか?
はい。うちのちゃぶ台は四角でして、祖母の座る場所は、祖母の部屋から一番近くの、神棚の下と決まっていました。それから時計まわりに、父母の席、主人の席、私と子どもの席となっていたのですが、昭和41年に祖母が亡くなると、そこは自然に父の席になりました。

-他のみなさんはどうなさっていたのですか?
みな、前の人に続いて、ぐるっと回りました。母が他界しましたのが、その十年後の51年ですね。

-すると、席もまた回った?
そうですね。父はそのまた十年後の昭和61年に亡くなりました。              
-それは、お淋しくなりましたね。ところで、食事が終わるとちゃぶ台はどうなりましたか?
部屋の隅に立てかけておきました。空いたスペースは、とくに何に使うということはなくて、テレビを見る場所だったり、あとは通路のように使っておりました。

脚を折りたたんだちゃぶ台

脚を折りたたんだちゃぶ台

ちゃぶ台を囲む風景

-ちゃぶ台での話題の中心はなんでしたか?
子どもの学校の様子を、詳しく聞いたりはしなかったように思います。ただ、家族が揃って夕食を食べて、子どもたちの元気そうな顔を見て、そんなことで安心してたんじゃないでしょうか。

-それはうらやましいですね。今は休日はともかく、平日に家族揃って夕食をとる家は、少なくなりましたから
いえ、家族揃ってといいましても、主人はほとんどおりませんでした。高度成長の時代でしたから、平日は夜遅くまで仕事でしたし、日曜はゴルフですね。                

-ご両親と同居の上に、ご主人があまり家にいらっしゃらないのでは、ご苦労も多かったのでは?
どこの家庭でも、当主不在が当たり前でしたから。
『寺内貫太郎一家』(*)では、あるじの貫太郎がよく怒鳴り、食事中の小競り合いも年中行事のようでしたが、井上家の場合はそうすると・・・
ちゃぶ台がひっくり返されるようなことは、なかったですね。だからといって、主人の存在感が薄いということではなく、何もかもが当たり前だと思っていたように思います。

*『寺内貫太郎一家』…1974年にTBS系列の水曜劇場枠で放送された人気テレビドラマ。昭和の東京下町の一家とそれを取り巻く人々との人情味溢れる風景がユーモラスに描かれた。
その脚本家である向田邦子氏は、昭和25~37年まで、杉並区久我山に、その後、二年間、本天沼にも居住した杉並人でもある。

長崎の卓袱(しっぽく)料理のちゃぶ台

長崎の卓袱(しっぽく)料理のちゃぶ台

よみがえる「ちゃぶ台」の暮らし

井上家は、その後、増築をして、リビングダイニングの生活を経験したが、また最近、ちゃぶ台の生活に戻られたという。   

-なぜまたちゃぶ台生活に?」
「もともと低い目線が好きなんですね。雪見障子をあげて、庭を眺めますと、高いところから見下ろすのとはまた違った庭の表情が感じられるんです。草花の中には、ほんの短い間しか花を咲かせないものもあって、そうした日々の変化を楽しめるのがうれしいですね」                
-今、ちゃぶ台を囲むのは?」
「主人と下の娘と私の三人です。娘は仕事で夜遅くしか帰ってきませんが、それでも、ご飯は家で食べるからというので、食事は残しておいてやっています」
 
今また、ちゃぶ台の暮らしを愉しまれている井上さん。ありがとうございました。  

雪見障子からの眺め

雪見障子からの眺め

DATA

  • 取材:河合 美千代
  • 掲載日:2006年04月24日