高井戸の地名の起原を探る

高井戸の地名由来

杉並区の南に位置する「高井戸」。1530年代の記録には、既に「高井戸」の地名をみることができます。その地名の由来には諸説あり、起源を確定できる資料は現在まで、発見されていません。
ここではその地名に関する新たな由来を、古い墓碑からひも解いていきます。

▼解説(すぎなみ学倶楽部編集部)
高井戸の地名には下記のとおり諸説あります。
1.武蔵野の伝説として知られる「堀かねの井」がこの地にあったから。
2.文政3(1820)年刊行の「武蔵野名勝図会」には「高井戸旧跡、村内小名堂の下というところあり。古えこの辺りに辻堂あり。ここは僅かなる丘地にして、辻堂の傍らに清泉ありければ、小高き地の冷泉なるを以って、衆人呼びて高井戸と称せし起こりなりと云。いまは清水も涸れて、その跡さえも定かならず、按ずるに天正以前まではその伝えの如くなるにやありし」と記されている。
3.「新編武蔵風土記稿」の高井戸宿の項には「北条分限帳に、大橋、廿貫文、無連、高井堂と記されてあり、無連は現在の無禮村で、高井堂は高井戸村である」と書かれている。
4.高台にお堂があり、高井お堂がある村が省略されて高井戸村と呼ばれるようになった。

道端の墓石の謎

私の家のすぐ向かい側に、昔、玉川上水を掘った土を積み上げたといわれる高さ2mほどの土手状の空き地がある。(下高井戸2-3、玉川上水公園、小菊橋の南側)昭和初期から戦後に掛けて,この場所は地元の子どもたちに、山、やまと呼ばれて格好の遊び場となっていた。

土手の西側の一角には数基の墓石が建っていたが、一部は倒れ、半ば土に埋もれ、傾いていたりした。墓石の脇に生える大樹の高枝に板を渡し、小屋を作り男の子たちは樹上の基地を作って遊んだ。大樹に登れない小さな子たちは墓石に足をかけ、或いは墓石の頭に乗って木に取り付いたりもしていた。

この墓の持ち主のことは誰も知らず無縁仏と思われていた。土手の土は次第に崩れ、墓の下から白い人骨がこぼれ出していた。隣接する家が駐車場を作る工事のために土手の側壁を削った時も、人骨が出て来て職人達が慌てて埋め戻し線香を立てて拝んだりもしていたが、不思議と少しも不気味な感じを持たなかった。

全く無縁墓地と思われていたこの場所に、ある時(昭和53年頃)乗用車2台で家族連れが訪れ、倒れていた墓石を立て直し、花を手向けて帰って行かれた。持ち主の有ったことに驚いたものの、特別に声をかけることもなく、その後はひっそりと墓石が佇むのみで、墓地の周囲は水道局用地を示す金網のフェンスで囲まれ、子どもたちは遠のき、近所の人でも墓があることさえ気づく人がいなくなった。ただ、この墓地の奥に以前住んでいた鈴木クリ-ニング店の弟さんが、何故か気にして春と夏には雑草を刈り、毎年暮れには墓石を水洗いし、お供え餅とみかんをそれぞれ墓に供えていた。

その後散策中の男性がわざわざ土手に上がり、墓石を眺めた後「これは位の高い僧侶の墓ですよ。」と言われたけれど、それ以上のことは判らなかった。

墓石脇に生えていたソロの木の大樹は大風で倒れ、今はない。当時もっと鬱蒼とした場所だった。

墓石脇に生えていたソロの木の大樹は大風で倒れ、今はない。当時もっと鬱蒼とした場所だった。

わかって来た墓碑の主・墓碑名を追って見ると

10年ほど前、友人から借りた「杉並区史探訪」の中に「下高井戸2-3に高井山本覚院という廃寺が明治の末頃まであった。」と書かれてあるのを初めて知った。この無縁墓地の有る場所だ。

さらに「境内の不動様を祭るお堂が高台にあったため、高井お堂、高井堂と呼ばれるようになり、高井戸村になったとの言い伝えがある。本覚院の創立年代 由緒等一切不明」と記されていた。
墓石を改めて眺めて見ると、一つの墓の側面に「高井」の文字が刻まれていた。

鈴木クリ-ニング店に聞いてみると、以前お墓を訪れた家族の中のおばあちゃんが自宅の電話番号を書き置いて行ったとのこと。小さな紙切れに書かれた番号に電話をかけて伺ってみたところ、程なくしてその方より達筆な毛筆の手紙と「高井家諸用書」と表題のある古文書のコピ-が送られてきた。文面に依ると、墓参に訪れたのは廃寺とされていた高井山本覚院の第二十世(二十代目)を継ぐ高井家の家族の方々で、この墓石は本覚院開山主からの歴代僧侶のものだそうである。

さらに、杉並区史に「創立年代由緒一切不明」と記されていたその創立(開山)年号、開山主の名前もはっきりと明記されていた。

高井家文書「諸用書」に依ると高井山本覚院の開山について次のように記されている。

「武蔵国 吉良頼貞公 末男(次男)、天文年中の頃より当所に住 高井隼人 源 頼澄 入道して明尊と云。当寺の祖也。
天文23(1554)年甲寅8月 大峯熊野 葛城三山奥駈し、当山の開山 明王法印金剛位を受く
天文23年10月14日寂 (開山の2カ月後の入寂)」
以下2世より14世までの法名 寂年月日が記されてあった。

諸用書を手に、土手に佇む墓石に刻まれた墓碑銘を追ってみると、4世から13世までの法名と寂年号が符号することがわかった。
1~3世と5、6世の名は見当たらなかったが、まだ埋もれている墓石もあるようで、1世2世のものと思われる宝篋印塔と五輪塔は、現在の高井家地所内に保存されている由である。

以上のことからこの場所が高井山本覚院の歴代の僧侶の墓地であることが明確になって来た。
また、高井家の祖先を辿ると吉良氏(世田谷吉良氏)であることも判った。

「高井」の文字が刻まれた碑

「高井」の文字が刻まれた碑

高井家「諸用書」表紙

高井家「諸用書」表紙

高井山本覚院のお堂はどこへ消えたのだろう

杉並区下高井戸2-3にあった本覚院は、明治維新の際、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動によって荒廃し、遂に明治44年に下高井戸4-2 宗源寺に合併され不動堂も同時にその境内に移築されたのである。

杉並区郷土史の「高井堂の話」の文中に「廃寺の堂内を清掃していたところ、不思議と宗源寺の額を発見した。宗源寺とは数丁(約800m)離れており、何等の交渉もないのに奇異を感じ宗源寺へ行きたいとの御神意であろうと解して、お堂ぐるみ宗源寺へ移した。」とある。

しかし、高井家諸用書に依ると「高井山 本覚院開山の高井隼人源頼澄は吉良頼貞公の次男」とあり、「宗源寺を開山した吉田宗利は、畠山重忠の末裔 江戸遠守太郎判官重永の末族」とある。
とあれば、吉良氏と畠山氏は縁戚関係にあり、また宗源寺開山当時(慶長初期1596頃)吉良氏の家臣であった江戸氏の末裔吉田宗利は吉良氏と極めて近い関係にある。

先に開山していた本覚院が家臣筋である宗源寺の開山のために額を作り与えるということは考えられる。しかし、ちょうどその頃吉良氏は秀吉軍に世田谷城を占領され(天正18年4月・1590)滅んでしまったために、額は宗源寺に渡されずに本覚院の中に残ってしまった。と考えるのはいかがでしょうか。

宗源寺に移築された現在の不動堂

宗源寺に移築された現在の不動堂

私が考える高井戸の地名の由来

高井戸地名の発生が想定される年代の高井戸(高井土、高井堂を含む)の地名が見られる古い記録で、現在明らかになっているものは次のとおりである。

1.「豆相記」の享禄3(1530)年から天文5(1536)年の7年間の戦記の中に「高井戸」の地名がある。

2.「北条分限帳」の弘治2年(1556)年から武蔵の地で集約的に検地を行った中に「高井堂」と記されている。

3.「関八州古戦記録」の永禄12(1569)年信玄勢 府中、高井戸…を経て小田原に迫る とある。

4.永福寺保存の寺宝古文書の「天正16(1588)年江戸廻永福寺分検地書出」には「天正16年に小田原北条氏の検地奉行 安藤兵部丞が永福寺村を検地した」記されている。
永福寺は大永2年(1523)8月に創建され、永福村の村名の基となったと「杉並風土記」に書かれている。

高井山本覚院の開山年号は天文23年8月(1554)であるから、永福寺村検地の34年前には本覚院は存在しており、高井土(高井堂)の地名はあったと思われる。
永福寺が永福村の村名となったとあるのなら高井山本覚院の寺名が高井戸の地名になったとも考えられる。

「高井家諸用書」に依ると「天文年中頃(1540)よりこの地に住まう」とあるが、高井家の別の系図には「開山 頼澄の3代前より高井姓を名乗り、この地に住む」とある。吉良頼貞(後に頼康と改名)の3代前の吉良政忠、頼高の時、永享11(1440)年の永亨の乱により飽間の領地を没収されこの地に移ってきた時代である。
それは1.の豆相記よりも90年前、4.の永福村の検地より148年も前のことであるから、その頃に高井を姓とする者がこの地に移住して、その高井氏の土地「高井土」の地名が発生したのではないか。

「高井家諸用書」天保6(1836)年10月記 高井清純(本覚院十四世)写書きの中に「高井氏開住之地故高井土ト今ニ土ト云文字認メ候事」とあるので「高井堂」説は誤りと思う。高井土が後に高井戸と記されるようになったのではないだろうか。なお江戸時代の文書には「高井土」と書かれたものが多くみられる。

以上、私はこれらのことにより、高井山 本覚院の開山主 高井氏が住まう土地「高井土」が「高井戸」の地名の起源となったと考えて宜しいのではないかと考えます。

高井堂にまつわる話――お不動さまのご利益
その1 お不動さまのお告げ
「不動堂境内地の一部にカゴ作り職人の一家が住んでいたが、主人の梅さんがふとしたことから右腕を病んで困っていた。ある夜不動尊が現れて“自分を粗末にしておくから立腹している”とお告げがあった。そこで早速、村の有志と境内の不動堂内を調べて見ると、塵に汚れて本尊の右腕が折れて落ちていた。一同は驚いてお金を出し合ってこれを修理したところ、カゴ屋の疾はすっかり平癒して終わった。これを伝え聞いた世田谷の廻沢方面の人々が霊験あらたかな不動様を譲り受けたいと申し出ました。相当の金額が用意されていたらしく村人は異議なく承認したところが、その夜再びカゴ屋の主人は“この土地を離れて他の土地へ行くのは嫌だ”と夢で不動様のお告げを受け、村人は恐れをなして堂内を清掃したところ宗源寺の額が出てきた」と言うお話し。(富田啓温 記「西郊文化」第三輯)昭和25年頃まで、この場所に「竹屋」さんの家があり、この竹屋はかなり古くからあった店だそうです。

その2 お不動さまのご利益
今から10年近く前の12月30日の深夜、すぐ近くの鈴木クリ-ニング店の裏手から火災が発生した。石油が原因の火事で、火勢はものすごく火柱が2階のヤネよりも高く吹き上がっていた。火は隣りのビルの窓も破って燃え広がり大火となったが、不思議なことに火元と1mも離れていない手を伸ばせば届くほどの距離に建っていた木造の鈴木さん宅には全く被害がなかったのだ。鈴木さんが“なぜかお墓が気になって”と、日頃から雑草を刈り、年末には墓石を洗い、お供えものをしていたのできっと高井山のお不動さまが守って下さったのでしょう。お不動さまは火の神様だそうですから。
昭和20年、太平洋戦争末期、甲州街道下高井戸駅北側周辺は米軍の焼夷弾により軒並み焼かれたのだが、「花磯」のお店のある並びだけは焼け残ったのだそうだ。
「花磯」の曽祖父さんが子どもの頃、毎月お金とお供え物を持たされてこのお不動さまにお参りに行っていたと話していたので、これも信心していたお不動さまのご利益なのでしょうか。

不動堂

不動堂

甲州街道高井戸の家並 芹澤政一画 家並の前は甲州街道(昭和23年~25年頃)

甲州街道高井戸の家並 芹澤政一画 家並の前は甲州街道(昭和23年~25年頃)

「高井堂にまつわる話」の人たちや家など

「高井堂にまつわる話」の人たちや家など

DATA

  • 取材:上妻絢子
  • 掲載日:2007年03月27日