謎の吉田園 杉並のスケート場

杉並にスケート場!?

杉並の古地図・下高井戸に記載された『吉田園』の文字。「あれ?これはいったい何?」から始まった謎。付近に在住の方の話を聞くと「昔、この辺に『吉田園』という屋外のスケート場があった」と言う。「う~む。杉並にスケート場とは!!それは、調べてみなくては!!」と始めた調査はその後、区内在住の上妻絢子さんの資料提供を得て大進展!スケート場の創業者の御子孫・吉田哲夫氏にも、お話を伺うことが出来、『吉田園』の実態が明らかに!!

PDF:東京交通社発行「大日本職業別明細図 昭和8年当時」 ※場所は、ニ、十三番(2.2 MB )

区内在住者が語る『吉田園』

上妻絢子さん談
【『下高井戸地域祭り』の企画が調査のきっかけ】

私が『吉田園』のことを調べたのは、平成8年に下高井戸区民集会所で『地域祭り』が開催された時でした。 当時、運営協議会の委員長の荒井和子さんは「杉並の古地図から下高井戸の『歴史起こし』をしよう!」という企画をたて、この地域に永く住んでおられる方々を尋ね、たくさんの古い写真を借りられました。その際、昔のお話も聞くことが出来「ご近所に昔『吉田園』というプールと遊園地があって、園の手前には吉田さん宅の人の名前がついたらしい『小菊橋』もあった。もっと前は、この辺の人はそこで氷の切り出しのアルバイトなんかもしていた」という話も伺えたんです。

うちの母は「第2次世界大戦が悪化して閉園になるまで『吉田園』にはプールがあって、下高井戸の商店街には、その昇り旗が立って賑わっていたんだよ」と言ってました。それで、それは面白そうだから調べてみましょうと、色々あたっていたら、創業者の御子孫に行きあたり「そこにはスケート場もあった」など詳しいお話が伺えたので、それを元にして『地域祭り』の目玉としてお借りした写真と古地図をパネルにして展示したんですよ。そしたら、住んで新しい方は「え~?ウチのところは昔こんなだったの?」って驚いて、お歳を召した方は「私は四谷の小学校の頃に遠足で来たわ」なんて、喜んでいただいたんですよ。


吉田哲夫氏談
【祖父が力を注いだ『吉田園』開園】

昔、ここら辺には玉川上水から綺麗な水が流れていて、寒冷地だったので祖父は製氷をやってたんですね。土着民だから土地を持ってたのでそこを公園にして、それから遊園地とスケート場に。この下高井戸に当時の流行の先取りみたいな所を作るって、爺さん張り切っちゃったみたいで(笑)、音楽隊とか作ってね。だから当時、わざわざ水道局に掛け合って玉川上水に橋を架ける許可までとって、『吉田園』までの道に私費で『小菊橋』を架けたんです。そうそう、その頃は爺さんが道で手を挙げると京王電車が停車し乗せてくれた、なんて今では考えられないような話も聞いたことがありました。

祖父が『吉田園』を作ったきっかけは、僕の想像ですけど、田舎料理の料亭も園内にあったし、広場で運動会なんかも開催されてたみたいだから、やはり市民の憩いの場っていうのかな、そういうのを目指してたんだと思う。あと、俳句で有名な人たちがよく『吟行』の場にしてたみたいだし。当時親しくしてた連中から、ハイカラなスケート場を作ってくれ、とか言われたりもしたんじゃないかなって思いますね。    

甲州街道ができたのは五街道の中で一番最後の1600年代初頭で、その後1698年(※)に内藤新宿ができてからは、この道を通って参勤交代をする大名は減ったみたいだけど、それでも下高井戸は歴史ある大きな宿場町で、大正・昭和の頃でも新しい文化の香りがする場所だったから、わざわざ都心からでも遊びに来る人が居たんだと思うよ。

※内藤新宿は1698年に設置され、開始は1699年、という説もある。

上妻絢子さん

上妻絢子さん

吉田哲夫氏

吉田哲夫氏

沿革・大正モボ達が集った頃からの話

大正モボ達の華麗なるスケーティング!?(※1)
『吉田園』創業者の子孫である哲夫氏によると、アイススケート場の以前は製氷場であったという。この頃の下高井戸は現在より気温は低く冬には霜柱ができる程で、特にこのスケート場あたりは杉並木に日光が遮られる北斜面で、玉川上水からの清水があったため良い氷を作ることができ、切り出された氷は都心宛に送られていた。創始者の甚五郎氏は、現在(2010年当時)総理大臣である鳩山由紀夫氏の4代前の方々(和夫氏など)と親しかったこともあり、吉田園のスケート場で貴族・華族の面々が三つ揃いや着物姿でスケートを楽しむ姿も記録され、東京名所の絵葉書にもなっていた。
腕前の、いや足捌きのほうはいかがだったのだろうか?興味深い。

※1:モダンボーイ。現代的な若い青年。モダンガールに対して用いられた。


遊園地・『吉田園』
吉田園が存在したのは大正初期~昭和初期。大正8年に遠足に訪れた女学校の『遠足の栞』(※1)には「園は風光絶好にして丘あり。谷あり、池あり、滝あり、広き運動場、茶亭等もありて小遠足地として好適の場所なり」と掲載されている。遊園地がまだポピュラーでなかった時代の先端を行く施設であったことが伺える。

園内には蛇波美弁財天を有した池や、役者・芸者衆の多数訪れた瘡守稲荷、テニスコート、木製の滑り台などもあり、グラウンドでは運動会も開催されていた。近隣の住民・子どもたちだけでなく歌舞伎役者や文士も訪れ、句会も催し、前述の『遠足の栞』にもあったように、当時の文化人たちは桜や蛍を楽しめる景勝地でもあった『吉田園』に半日かけて訪れていた。その後、昭和初期になるとスケート場は夏季にはプールになり、京王線を利用して都心からたくさんの人が訪れた。

※1:大正8年・東京女子高等師範学校附属高等女学校校友会【遠足の栞】より


吉田園開園に向けて架けた橋~『小菊橋』
下高井戸2丁目にある『小菊橋』は、今は川の掛け橋としての役割を終えているが、元は旧玉川上水に実際にかかっていた橋。玉川上水は江戸の生活用水であったが、この付近は1966年に埋め立てられ(※1)、この時小菊橋の橋脚は姿を消した。その後、1994年に橋柱も取り壊された。
実はこの橋、開設当初は京王電車(※)2の下高井戸駅から吉田園の正門までに通る玉川上水には橋が架かっていなかった為、甚五郎氏が私財を投じて建造したもので、『吉田園』開園への情熱が伺える。

『小菊橋』という名は、当時この一帯に小菊が咲き乱れていたことから、明治・大正期の文豪である遅塚麗水によって命名され、橋名は2代目吉田甚五郎(書家・吉田雲芳)が揮毫(きもう※3)したもの。アーチ型の美しい石造りの橋は付近の住民から再建を望む声が高かったため元通りではないが1995年に復元が叶った。現『小菊橋』の橋名の字は創業者の孫哲夫氏の依頼により雲芳の愛弟子・池田芳州が揮毫。ひらがなの橋名の字は残されていた橋柱にあった文字を写し復元されたものである。「橋の名については『小菊』という可憐なネーミングから、祖父さんの恋人の名ではないか?などという浮いた噂があった(笑)」と哲夫氏談。

※1:1654年(承応3年)江戸市中への通水が開始された江戸の六上水の一つ、一部区間は現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。
※2:当時の会社名は京王電気軌道株式会社。京王笹塚駅~調布駅間は1913年(大正2年)に開通し、都心からの多くの客を運ぶ足となった。
※3:揮はふるう、毫は筆の意。毛筆で書画を書くこと。特に知名人が頼まれて書を書くことを言う。

吉田園でスケートを楽しむ貴族・華族

吉田園でスケートを楽しむ貴族・華族

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玉川上水の小菊橋

玉川上水の小菊橋

記録・大正の都新聞より

『下高井戸辺りと吉田園』
大正5年11月5日発行・都新聞より現代語にて抜粋
昔の武蔵野は次第に切り拓かれ、里は村に、村は町に、見渡す限りだった草の原はやがて、稲・麦・野菜・桑・茶の里と拓けて今は当時の面影は萩やススキに偲ぶのみになった。しかし、京王電車の下高井戸停留所からわずか二町(※1)のところにある1区域だけは、野生のタヌキやキツネ・ウサギや雉の生存する区域として残っていた。これは、実は、近隣に陸軍の弾薬庫を配していたため、通常は火薬の匂い等に敏感な野生動物は逃げ去る筈なのだが、その付近の住民は火器使用禁止であり、狩猟者は足を踏み入れられない地域だったため、却って身の安全を感じ、自然に集まってきたものだと考えられる。

そこに、今、吉田園という遊園地がある。まだ、追加の整備中だが、この辺りの地主「吉田甚五郎」が創設。昔は1面の槇山(※2)で、30年程前には木を刈りに来た男が天狗の笑い声を聞き、青くなって逃げた、などという風評もあるほどだった。さすがに天狗の話は眉唾ものだが、ここには、人を見ても恐れない雪のように白く太い尾を持つ古狐が生息していて、畑の作物や子どもの弁当を食べるなど縦横無尽に振る舞い、人家近くにも現れたという。甚五郎さんも12~3歳の頃、弁当を持って隣村の小学校に通う時度々、この狐に弁当をやったことがある、という。

※二町:長さの単位。1町は約109m。
※槇山:雑木林・倒木があったり薪になるような木が茂っている山


『アイススケート場の開始日』
大正6年1月7日発行・都新聞より現代語にて抜粋
豊多摩郡高井戸村の吉田甚五郎氏は一族吉田末次郎同じく小常陸由太郎の連名で、その先祖畠山重忠一族江戸遠江の守太郎判官重永等の追福の為同村宗源寺に石碑を建て5日除幕式を行った。式典も終わり吉田園内の閑亭に引上げてから武蔵野名物と銘うった菜蔬料理(※)で宴会を催した。ここでは、しょっちゅう京王電車で載り合わせはするが、名は知らぬ仲だった人々が挨拶を交わす光景などが見られた。その後、夕刻霜柱が出来た残雪の道を一行は歌ったりしながら停留所に向かった。ちなみにこの日から吉田園の製氷地のアイススケート場は開始された。

※菜蔬料理:野菜料理

下高井戸辺りと吉田園

下高井戸辺りと吉田園

アイススケート場の開始日

アイススケート場の開始日

大正時代のレジャー事情(開園の頃の話)

大正のスケート事情
記録に残っているものでは、安政元年に函館の子どもたちが下駄の底に割った竹を結んだもので坂道をすべる『氷滑り』が行われていた。だが、専用の靴は無く危険とみなされ後に禁止されていたよう。その為、日本のスケートの歴史は明治24(1891)年新渡戸稲造氏が札幌農学校へスケート靴を持ち帰ったことから本格的に広まったと言われる。しかし、やはり当時スケート靴はまだ高価で下駄の裏に竹や鉄の刃を付けた『ゲロリ』、ポックリ状の下駄に家を建てる時に使う鎹(かすがい)を取り付けた『ベッタ』や鉄棒を打ちつけた『ベンジャ』というスケート靴の代用品(※)を使用する方が一般的だった。スケートが冬のスポーツとして急速に広がったのは大正5年頃で、帝国大学・慶応義塾の学生などが盛んにスケートを楽しみ、地方によっては、昭和初期頃まで盛んであった。

※『ゲロリ』『ベッタ』『ベンジャ』など、地方によって呼び名や形状は異なる。


大正のレジャーと遊園地
産業や市民生活の発展とともに、江戸末期・明治から続く文化が花開いた大正時代。豊かになった生活とともにスケート場や遊園地も娯楽施設として発達。
古くからある遊園地としては、1853年(嘉永6年)に開設された『浅草花屋敷』(※1)や 1912年(明治45年)関西に開設の『宝塚温泉パラダイス』(※2)など。遊園地は最初は庭園だったが、万国博覧会などで発表された大型遊具などを取り入れていき、次第に現代型の遊園地へと変化していった。当時のモダンボーイ・モダンガール(モボ・モガ)は洋風にお洒落をして銀ブラなどが最先端の娯楽。演劇などとともに、西洋から受ける文化に刺激を受けた時代のニーズにこたえた施設の誕生だった。

※1:『浅草花屋敷』の正式開園は1885年(明治18年)
※2:現在は宝塚歌劇団に名残を残すのみになってしまったが1912年(明治45年)~2003年(平成15年)まで営業していた『宝塚ファミリーランド』の前身。

浅草公園内の観覧車(国立国会図書館ウェブサイトより)

浅草公園内の観覧車(国立国会図書館ウェブサイトより)

DATA

  • 取材:荒倉朋子
  • 撮影:NPO法人チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2010年01月14日