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幼なじみが語る昭和の思い出

久我山に墜落したB29

佐藤さんは、生まれも育ちも杉並の大宮。佐藤さんの第二次世界大戦は、昭和16年の小学校入学時に始まり、卒業とともに終焉を迎えた。終戦間際の東京は、空襲による被災の中心地。熾烈な空襲を避けるための集団学童疎開も、佐藤さんは依るべき田舎・縁故がなかったため、昭和19年の終わり頃、長野県小諸市に疎開。昭和20年8月の終戦間際に東京へと戻ると、疎開で親元から離れていた数ヵ月を除き、ここ杉並の地で戦時下を過ごした。
玉村さんは、昭和22年頃、疎開先から杉並へ転入。終戦後の杉並の姿を知る。

第2次世界大戦中、アメリカ軍は東京にB29爆撃機による空襲を行う。佐藤さんら空襲下の住民は空襲の警報にではなく、高射砲が撃ち出した音を耳にしつつ防空壕に身を潜めた。高射砲は、今の松ノ木小学校の校庭の辺りに16門並んでいた。ところが、爆撃機の飛行高度ゆえに高射砲の弾は当たらず、自らが破裂した破片で住居の屋根は打ち抜かれ穴を開けるのみ。そんな折、B29爆撃機の一体が日本機の体当たりを受け、久我山に墜落した。
「(体当たりされた)飛行機がふらふらしながら、すぐそばに落っこちんのかと思って、どんどんどんどん追っかけてったら、最後は久我山の今のあの、日通の自動車教習所に落ちたの。すぐそばに落ちるような気がすんですよ。それでその勢いでそこまで駆けちゃっててね」
その時の様子を佐藤さんは鮮明に語った。

当時の様子を伝える貴重な写真の数々を、佐藤さんは1年ごとにアルバムで保管する。そのアルバムは今や50冊に及ぶと言う。これらがのこっている理由は、佐藤さんの家が戦火を免れたこと、特攻隊による敵機への突撃を記録するカメラマンが佐藤さんの家に下宿していたことによる。そのカメラマンも機上からの撮影中、グラマン戦闘機に撃墜された。

戦時中に撮影された佐藤氏のご家族の写真

戦時中に撮影された佐藤氏のご家族の写真

全部焦げてなくなって

佐藤さんが疎開から戻ってきたときの杉並の風景をこのように語る。
「(疎開先から帰ってきて)永福町の駅から降りたらね、私の家がすぐ見えるんです。何にもないんです。大円寺の森もみんな焦げてなくなっちゃっててね」
佐藤さんが一番驚いたのは、空襲で永福町駅と自宅との間、およそ1キロメートルにあった遮蔽物が全て焼き払われていたことだった。佐藤さん宅は、焼失から免れていた。その理由は、近くに変電所があったからだそうだ。
また玉村さんは、昭和22年頃から杉並で生活。さつまいもを育て、山羊の乳を飲むという暮らし。当時の食糧事情は配給制度が基本。通帳(米穀配給通帳)で買える米は籾のついたままのもの。だから、白くするため米を一升瓶に入れ、棒でつつく。「あんまりつつきすぎると、一升が七合くらいに減っちゃう」佐藤さんは、それが当時の子どもの仕事であったことを笑って語る。

戦後の1947(昭和22)年は、義務教育を小学校で6年、新制中学校で3年行う6・3制度の導入が始まった年である。佐藤さんも大宮中学校第一期生として通うこととなるが大宮中学校としての校舎はまだなく、男子は専修大学付属高校に間借りして、女子は大宮小学校の仮校舎で学んだ。一方、玉村さんはその6年後、同じ大宮中学校に入学するが、校舎だけでその時にも講堂はなかった。講堂の代わりに教室の壁をとり壊して作られた校舎は、全校生徒が集まるとみしみしと音がなって、なるべく行きたくなかったそうだ。

ところで、戦争が生活の中心となる前の和田堀公園界隈の様子はどのようだったのだろうか。佐藤さんが語ってくれた当時の様子は、現在からは想像するのが難しい郊外風景だった。そのいくつかを紹介してみたい。

玉村彰彦さん

玉村彰彦さん

善福寺川にダム !?

「当時は善福寺川にダムがあったんだよ。」と佐藤さんはいきなりサプライズ発言をして、一枚の写真を見せてくれた。小さな水門とその上に勢ぞろいした正装の男性たちが写っている。この水門が善福寺川にあったダムであり、写真はその完成式典に新聞社が取材に来て撮影したものとのことだ。確かに小規模とはいえダムの体は成している。場所は現在の郷土博物館裏の壁打ちテニス場あたりだったそうだ。
ではなぜダムが必要だったのだろうか。
「当時このあたりは、畑や田んぼが広がっていたんだが、善福寺川から和田の方まで水を引けなくなったんで作られたんだ。今の立正佼成会の建物のあたりまで水が行くようになり、大宮町、松ノ木町、和田本町界隈の農家が恩恵をこうむったものだ」。当時の生産活動に不可欠なダムだったのだ。
しかしこのダム、昭和30年代に地下鉄丸ノ内線の荻窪方面への延長工事によって掘り出された土の捨て場となり、その役割を終えたというエピソードがあった。同時に田畑も埋め立てられ、耕作地は住宅地へと姿を変えていくことになる。現在、善福寺川の遊歩道にダムを開閉するハンドルが記念として残っており、当時をしのぶよすがとなっている。

善福寺川にあったダムの水門

善福寺川にあったダムの水門

毎朝新鮮な絞りたての牛乳をめしあがれ

和田堀酪農物語。こんな言葉がぴたっとはまる風景が当時の和田堀公園界隈にいくつか存在していた。堀ノ内の済美教育研究所の裏手あたりにあった遠藤牧場である。乳牛を飼育し、生乳は業者に卸していたが、地元民は絞りたての牛乳を購入して味わうことができた。草を食む乳牛をながめ、絞りたての牛乳を味わう。何とも心なごむ牧歌的な風景ではないか。牧場には柵がなかったが、善福寺川がすぐ近くを流れていたため牛は逃げ出すことがなかったそうだ。
さらに佐藤さんは語る。
「私は赤ん坊の時に佐藤家に養子に行ったため、母乳をもらうことができなかった。母乳代わりになったのが遠藤牧場の牛乳だったんだ。遠藤牧場に育てられたようなものだな」
当時は冷蔵庫がなかったため、夏場には絞りたての牛乳をステンレスポットに詰め、深い井戸に吊るしておくことで暑さを遮断し、鮮度を保ったとのことである。まさに生活の知恵!
遠藤牧場は戦中になくなってしまったが、加藤牧場は戦後も存続していた。しかし、前述のダムが姿を消すと同時に閉鎖された。乳牛に代わって登場したのが豚である。学校給食が普及するにつれ発生した大量の残飯を餌として、加藤牧場で養豚業が始まった。しかし、周辺の宅地化が進むにつれ養豚場からの悪臭に苦情が集まり、加藤牧場は閉鎖された。跡地にはマンションが建ち、和田堀の酪農も宅地化の流れの中で姿を消すこととなった。

昭和27年 高円寺付近の牛の放牧

昭和27年 高円寺付近の牛の放牧

田んぼで魚つり?

佐藤さんは、少年の頃の忘れられない思い出としてこんなことも語ってくれた。当時の善福寺川は、現在のように護岸工事がされず曲がりくねっていたため台風の時など増水し、周囲が水浸しになることが頻繁にあったそうだ。ところが、この災難が子どもには楽しみを与えてくれたのである。「大雨で大宮公園の釣堀の池があふれ、鯉が逃げ出して田んぼに流れこんでくるんだ。それを捕まえるのが楽しみみでね。子どもたちは台風が来ると大喜びさ(笑い)」と、佐藤さんは童心に返ったかのような笑顔で回想をしめくくった。
佐藤さんの回想から立ち現れた当時の和田堀公園界隈の風景は、「ふるさと」という呼び名がふさわしいのどかな空気に満ちていた。聴く側に実体験がないにもかかわらず何か懐かしさを感じさせるような……「わがまち杉並」の過去にこのような風景が存在していたことは嬉しい驚きだった。だからこそ、そんな風景を一変させた戦争の過酷さが胸にしみた。より多くの人々に、過去の話に耳を傾けることで杉並の地での「戦争と平和」を考えるひとときを体験してほしい。

佐藤正三さん

佐藤正三さん

DATA

  • 取材:村田理恵
  • 掲載日:2008年12月15日