ラストエンペラーの実弟に嫁いだ侯爵令嬢

嵯峨浩の結婚と大宮町

私(八巻俊雄)が杉並区大宮町1985番地に引越してきたのは、昭和13年3月のこと。嵯峨侯爵邸は、大宮町1556番地で我が家から70メートル程の距離でした。(現在、杉並区立郷土博物館・所在地)近所の方たちの話しでは、前年 昭和12年4月3日嵯峨実勝候爵令嬢 浩が満州国皇帝の実弟と結婚式を上げられたとの事。この日、浩はこの大宮町にあった嵯峨侯爵邸から結婚式場である軍人会館(現・九段会館)まで向かったそうで、大宮町の方たちが「今までに見たことのない、自動車の長蛇の列だった!」と驚いたように話していたのを幼心に覚えています。自動車の普及率が乏しい頃なので当然のことでしょう。ですが、この長蛇の列 を記憶している方も今はもうほとんどいらっしゃいません・・・。侯爵邸の前には、五本木さんというお宅がありましたが、私と同級の息子さんもすでに亡くなられてしまいました。

ご成婚の時の様子をもう少し知りたいと、当時の新聞報道を調べてみると、挙式当日の三日夕刊と翌四日朝刊は、各新聞社の申し合わせにより休刊、その為、前日二日の夕刊や三日の朝刊で結婚式当日の様子(予定されている内容)を伝えていました。一番詳しく取り上げていたのは読売新聞で、「日満・慶美その日―」との見出しで、「本庄大将夫人のお迎えを杉並区大宮町の嵯峨侯爵邸に受けられる浩姫は、この朝十時頃父母に伴はれて ―中略― 濱口吉右衛門氏邸に最後の暇乞いに立ち寄られたうへ杉並の侯爵邸に入る。かくして同十一時すぎ姫にはおすべらかしに袿袴の麗しい装ひに楕扇を手に晴れの姿も清々しく午後零時五分思ひ出の門を出られる」と浩様が結婚式の日に、大宮町嵯峨侯爵邸より出立されることを伝える内容の記述がありました。さらに翌日には号外が出て、その次の日には新婚旅行が報じられていました。

愛新覚羅夫婦の結婚の日

愛新覚羅夫婦の結婚の日

昭和12年4月3日 読売新聞より

昭和12年4月3日 読売新聞より

嵯峨浩-その生い立ち

満州国の興亡を身をもって体験し、激動の昭和史の数少ない証言者、そして、その波乱な人生から「流転の王妃・愛新覚羅浩」として有名となった嵯峨浩。彼女は、大正3年3月16日、嵯峨実勝・尚子夫妻の長女として誕生。祖父の嵯峨公勝は侯爵で、祖母の南加子は明治天皇の御生母、中山慶子(中山一位局)の姪という皇室に近い公卿華族でした。浩は、次々と兄弟が生まれた関係もあり(五人兄弟)、母方の浜口邸で過ごすことが多く、母方の祖父・容所は、ヒゲタ醤油を再興させた大実業家でした。そして、祖母の糸子は、彼女を大層かわいがっていたそうです。

学習院高等科の頃には、書を尾上柴舟・洋画を岡田三郎助・華道を西川一草亭・ピアノを幸田延子に学び、高等科卒業後から突然の縁談が持ち上がる23歳までは、油絵に熱中し画家気取りで、ガウンに絵の具をべたべたつけ呑気に暮らす日々だったようです。

当時、浩と洋画教室でご一緒だったという安積房子さん(旧姓・榎並)の思い出話を娘の白川治子さんが記した手記(*)にも、浩の人の良い気さくなお嬢様だった様子が伺える部分があります。
「妹たちや弟は両親と一緒に、別の所に住んでいるの。私はお祖母様の家にいるのよ」と浩さんは話していた。1度だけ、画塾の帰りに、「お祖母様」の家に寄ったことがある。立派なお屋敷で、何人ものお出迎えに、びっくりしてしまった。
「そんなご大層な家の令嬢だったら、言葉からして違うんじゃないの。よくつき合っていけたわね」と私は聞いた。
「そんなことなかったわよ。公家言葉なんて、もちろんお使いにならなかったわ」。ふたりとも女学校を出たばかりの同い年。ごく普通の女の子が交わすような、ファッションや本の話をしていた。画塾の行き帰りも、市電を利用し、お付きの人がお供するわけでもなかった。互いに、「ひろさん」「ふさこさん」と呼び合っていたという。  

このように、ごく一般的といえる生活を送り、真剣に画家を夢見て縁談話しも断り続けてきた令嬢が、どのような成り行きから満州国皇帝の実弟と「親善結婚」をするに至ったのでしょうか。

左:嵯峨公勝夫婦(祖父母) 右:嵯峨浩幼少( 嵯峨家提供、郷土博物館『愛新覚羅浩展』より転載)

左:嵯峨公勝夫婦(祖父母) 右:嵯峨浩幼少( 嵯峨家提供、郷土博物館『愛新覚羅浩展』より転載)

満州国皇帝の実弟・愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の縁談

縁談話しに入る前に、満州国皇帝・愛新覚羅家について少々触れましょう。
1894年日清戦争が勃発、そして清がこれに敗れると、中国は分割の危機に陥りました。
この危機を脱するため、光緒帝が革新政治を断行したが、西太后ら保守派に阻まれ失敗。1908年、光緒帝が死亡。その後西太后も醇親王家の愛新覚羅溥儀を皇帝に指名し病死。こうして、たった3歳で溥儀は清朝最後の皇帝となります(ラストエンペラー)。しかし、その3年後、辛亥革命が起こり溥儀は退位し、清は滅亡。その後、溥儀・溥傑ら愛新覚羅家の人々にとっては[清朝の復興]が念願となり日本に近付くこととなりますが、結果として溥儀は、日本の軍部に担ぎ出される羽目になってしまうのでした。
さらに、溥儀には皇后や側室がいたのですがお世継ぎとなる子供は一人も生まれませんでした。

溥傑は、満州国留学生として日本の陸軍士官学校を恩賜の軍刀を授けられて卒業、縁談が持ち上がった頃は、千葉の歩兵学校で勉強中でした。日本の関東軍は、何とかこの皇弟と日本の皇族の王女を結婚させ日満一体を強化したいと考えたのです。しかし、皇族の王女を溥傑の妃とするには日本の皇室典範を変更しなければならず、それが無理とわかると極秘に公卿華族、大名華族の姫の中から「花嫁探し」を始めました。
その頃、浩の母もあちらこちらに娘のお見合い写真を配っている最中で、何気なく渡した一枚の写真(左上:嵯峨家提供、郷土博物館『愛新覚羅浩展』より転載)が、「この方なら・・・」と溥傑の目に止まり、数多くの中から妃第一候補者となったのです。
縁談は、本人や家族の意思とは関係ないところで急速に進んでいきました。その時のことを、浩は自分の著書『流転の王妃』文芸春秋新社にこのように記しています。
「私達は、最早、逃れられぬ巨大な蜘蛛の網にひっかかった、非力な虫けらでしかなかった。当時の軍部の威力は、絶大である。この力を背景に、私の縁談は、見えざる力関係の糸によって、容赦なくすすめられていった・・・。」
「こうなるとあきらめるよりなかった。ただ、相手の溥傑氏が、立派な人物であることを希うのみである。」
「だが、憂慮したほどもなく、この縁談を、身に振りかかった災難と初めのうちは考えていた私も、だんだん安心めいた気持ちになっていった。それは、結婚相手である溥傑氏が、いわゆる頭脳明晰型の秀才であるばかりでなく、部下想いのやさしい性格の男性であり、ちょっと真似の出来ない立派な人格を持つ方だということが、周囲の情報によって、はっきり確定付けられたからである。」

こうして極秘にお見合いも行われ、本人同士も互いに好感を持ち、家族もまた賛成と言う事で、縁談がまとまり、昭和12年2月6日・満州国大使館から婚約が発表されました。こうして、同年4月3日を結婚式と日本陸軍省が決定するのです。

浩の見合い写真

浩の見合い写真

浩妃を支えた杉並区民の旗

結婚後、溥傑・浩夫妻は、溥傑が千葉の陸軍歩兵学校に通学していた為、千葉市稲毛海岸に新居を借りましたが、その年の8月 溥傑が歩兵学校を卒業したのを機に、満州の新京市に移り住み、翌年2月・長女を出産。その後、昭和14年4月溥傑が、駐日大使館勤務となり、家族全員を連れ東京に赴任。結婚後数年間は、生活の場が満州と日本行ったり来たりとなります。それでも浩は、「この時期が、私にとっては一番楽しい黄金時代であったような気がしてならない」と前述・著書に記しています。

そして、昭和20(1945)年の終戦を夫妻は新京で迎えると状況は一転、溥傑は溥儀らとともにソ連軍に捕らえられハバロフスクの収容所に入れられ、浩たち(溥傑の乳母や浩の次女など)は、敗戦の満州にて逃避行、九死に一生を得る体験をし、監獄生活も送ります。このように辛く苦しい流転の日々の中、昭和22年1月やっとの思いで東京にたどり着くのでした。

軍の力に支配された政略結婚・結婚後も腹立たしい関東軍の横暴ぶり・そして苦しい流転の日々・・・。
そんな生涯の励ましとなったのは、あの結婚式の日、杉並区大宮町の嵯峨侯爵邸から式場に向かう自動車の中から見た、沿道を埋めるたくさんの人々のお見送りの風景だったそうです。
「わたしは、そのとき、沿道に並んで、盛んに日の丸の旗を振ってくださった小学生の方々や、町内の人々を見た。その旗の波、波、波。私は忘れなかった、その沿道の風景を。」       
「私は何度、その沿道を埋めた旗の波を思い浮かべたことだろう!〈あれだけ大勢の人々が、このふつつかな私の結婚を祝ってくださった。ここで挫けては、日満の親善は水の泡ではないか・・・〉緊張で記憶もおぼろげな私でしたが沿道の風景だけは、はっきりと瞼に焼きつき終生、私への無言の励ましになってくれたのでした。」『流転の王妃』より

この沿道のお見送りについては、当時、杉並区では地元の学校の対応として職員打ち合わせ会でお話しが出て、教職員が児童を引率したと記憶されている教員の方もいます。杉並区大宮尋常高等小学校は、全学年約九百人弱が参列、新泉尋常小学校・和田尋常小学校・杉並第三尋常小学校は5・6年生が中心に参列、大宮町嵯峨邸近くから八幡通りを経て青バス通り(現・環七通り)に整列し旗を振ったようです。そのほか沿道近くの住民にもお見送りの依頼があったそうですし、お見送りをしたかったが、人が一杯であきらめたと記憶されている方もあるようです。当時の事は、覚えていらっしゃる方がかなり少なかったり、曖昧な方も多い中、和田小で当時五年生だったという女性は、女の子らしく次のようにその時の印象を語っています。

「この日は、春のうららかな日差しが、並んでいる私達の背中をポカポカとあたためていた。時間はお昼をちょっとすぎた頃だったように思う。しばらくすると、方南町のほうから、黒塗りの自動車の列が、ゆっくりとしたスピードでこちらに向かってきた。私の目の前に差しかかった時、車の中を見ると、十二単衣に、おすべらかしの、それはそれはあでやかな、浩さんのお姿があった。私たち女の子はただただ、夢中で「日満両国旗」をふった。あの美しさや興奮は、五十年以上たった今でも忘れられない。」
『愛新覚羅展』~生涯の励ましになった沿道の見送り~ 杉並郷土博物館発行 より

一家団欒の3人(嵯峨家提供、郷土博物館『愛新覚羅浩展』より転載)

一家団欒の3人(嵯峨家提供、郷土博物館『愛新覚羅浩展』より転載)

嵯峨侯爵邸と浩の弟・公元さん

嵯峨侯爵邸があったのは、現在の杉並区立郷土博物館の立つ場所です。ご近所に越してきた私が、嵯峨邸に遊びに行っていたのは小学校2~3年生の頃、浩が嫁いで一、二年後のことです。広い家で、少々ガランとした感じがしました。坪数4000坪といわれた所に、大きな池があり鯉や鮒が泳いでいたのも憶えています。今は、テニスコートとなっている辺りです。大きな藤棚もあり、桜・檜・クヌギなどの木々が森の様に茂り、西の方に善福寺川が流れており、水の流れがゆっくりでしたので嵯峨邸の上流で良く魚をとって遊びました。(さすがに、嵯峨邸脇での魚とりは気がひけましたので…。)このように、自然に囲まれた余りの広さのお屋敷に、失礼ながらお天気のよくない時は怖く感じたりもしたものでした。

浩の弟、嵯峨公元さんは1922年生まれとの事で、私より十歳も上でしたが、ごく普通の友人のように遊んで頂きました。公家の息子らしく、戦争前の私達とは格別違う服装をし、顔立ちもスマートで、言葉使いも違っていましたが、付き合い方はまったく普通の友人と同じでした。お金持ちでしたからか、いつも新しい買ったばかりの面子(メンコ)を手にいっぱい持っていました。そのほかにも、貝独楽(ベイゴマ)、かくれんぼ、鬼ごっこなどで対等に遊んだことを憶えています。昭和16年に近い頃でしたか、ある時嵯峨邸に防空壕が掘られました。その中には新しい材木で床と長椅子が作られ、本箱にはぎっしりと新品の子どもの本が並んでいたのには、本当に驚いた印象があります。

そのすぐ後、昭和16年・侯爵邸は、鈴木三郎助(味の素社長)に売却され、さらにその後弟の忠治氏にうつされました。私の小学校の同期生・滝幸子さんは、この時味の素に就職し、かつての嵯峨邸の中に居住していたという話をしています。(鈴木家の管理人の住む棟に社員用の部屋もあったようです)
さらに、その後は東京都に渡りましたが、平成元年5月に杉並区立郷土博物館用地として甦り、今に至っています。

最後に・・・
昭和22年にやっとの思いで焼け野原・東京にたどり着いた浩は、嵯峨家の両親・弟妹たちに再会し、ともに生活をはじめます。ハバロフスクの収容所に拘留されていた夫・溥傑の消息は、昭和24年頃から途絶え始めますが、浩は再会の日を信じ日々生活を送ります。その間に、最愛の長女を心中(真実は不明)事件で失うという衝撃的な悲劇にもみまわれました。そして、昭和36年5月やっとのことで特赦になった夫の待つ中国に帰り、再会を果たすのです。このとき浩は、なおまだ日中友好を念じてやまない気持ちを手記にして新聞社に寄せています。しかしその後、文化大革命の影響などもあり、まだまだ日中両国の国交は回復することはなく、日本で行われた次女の結婚式にも夫妻は参列できませんでした。

夫と再会を果たす少し前、浩は友人の薦めでこの波乱に満ちた半生を手記にします。昭和34年春『流転の王妃』文芸春秋新社・刊行は、ベストセラーとなり、大映により映画化されます。監督・田中絹代、主演・京マチ子、夫役・船越英二そのほかの出演者も今なお名前を知られる有名な方々です。そして、さらに平成15年には「テレビ゙朝日開局45周年記念ドラマスペシャル・流転の王妃 最後の皇弟~ラストエンペラーの時代を生きた夫と妻の波乱の生涯~」と題され、主演:常盤貴子・竹野内豊で五時間半の超大作として放送され、忘れかけられていた浩の生涯がまた注目されたのでした。

これほどまでに、人々の心に重き印象を残す事となる 流転の王妃・愛新覚羅浩。 
その出立点となったのは、この杉並の地だったのです・・・。

お雛様の前に座る嵯峨五姉弟(嵯峨家提供、郷土博物館『愛新覚羅浩展』より)

お雛様の前に座る嵯峨五姉弟(嵯峨家提供、郷土博物館『愛新覚羅浩展』より)

DATA

  • 取材:八巻俊雄
  • 掲載日:2008年03月28日