杉並で始まった水爆禁止署名運動

発端はビキニ環礁での水爆実験だった

杉並は原水爆禁止署名運動の発祥の地といわれている。署名運動は、1954年3月に実施されたビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験が発端で起こった。

水爆実験に反対して5月「水爆禁止署名運動杉並協議会」が結成され、ヒューマニズムの精神につらぬかれた、組織的な水爆禁止署名運動が杉並区から始まった。
この運動は燎原の火のごとく各地に拡がり、8月には「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、原水爆禁止署名運動として全国へ波及した。

杉並区立公民館の館長室を事務所とした原水爆禁止署名運動は、約1年半後、1955年9月には当初の目的を達成し、実質終了したが、この運動によって「杉並」の名が全国に知られることになった。

杉並区郷土博物館には杉並の水爆禁止署名運動に関する常設展示があり、イタリアの婦人たちからの「美しい旗」などが展示されている。
杉並には全国へ、世界へと、原水爆禁止の声を発信した歴史が、今も息づいている。

アメリカは1946年から1958年まで、60回以上の水爆実験を、マーシャル諸島で繰り返し行った。このうち1954年3月1日ビキニ環礁での水爆実験で、23名の乗組員が直接被爆した第五福竜丸をはじめ、近くの海域にいた漁船(被災856隻、政府発表)が被爆した。

当時はマグロや鯨など遠洋漁業による魚類は日本人の貴重な蛋白源であったため、魚類の放射能汚染は魚業関係者にとっては死活問題となり、また、魚を食する日本人にとっても、深刻な社会問題となった。水爆実験反対の声は国内各地にあがりはじめた。

1945年の広島・長崎への原爆投下による悲惨な犠牲とその記憶が未だなまなましく残っていた時代、再び核の恐ろしさを実感する大事件が起きたのである。

東京都は被爆した第五福竜丸を実物保存し、関係資料とともに展示し、原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いを込めて、昭和51(1976)年この展示館を建設しました。

東京都立第五福竜丸展示館HP
 

杉並の水爆禁止署名運動を称えてイタリアの女性団体から贈られた旗(1955)

杉並の水爆禁止署名運動を称えてイタリアの女性団体から贈られた旗(1955)

イタリアの旗と水爆禁止署名に励んだ女性たち

イタリアの旗と水爆禁止署名に励んだ女性たち

「杉並の市民活動と社会教育を記録する会」例会の様子

「杉並の市民活動と社会教育を記録する会」例会の様子

上:第五福竜丸被災の毎日新聞の記事(1954年3月16日)  下:第五福竜丸展示館30周年記念誌(江東区夢の島公園内)

上:第五福竜丸被災の毎日新聞の記事(1954年3月16日)  下:第五福竜丸展示館30周年記念誌(江東区夢の島公園内)

杉並区魚商水爆被害対策協議会の訴えと杉並区議会の決議

まず、最初に声をあげたのは魚屋さんたちであった。魚商たちは当時の高木敏雄区長や杉並区議会(議長宇田川鐐太郎)に、魚の売れない窮状や水爆禁止は漁民だけの問題でないことを訴えた。
直ちに4月区議会で水爆実験のことは討議され、1954年4月17日水爆禁止決議を行った。区議会がこの決議を満場一致で行った意義は大きい。
魚屋の菅原トミ子はその前日の4月16日、開館して半年の杉並区立公民館で開かれた婦人週間の講演会で発言した。その内容は「水爆問題を取り上げてください。被害で魚屋を閉めなければなりません。」という激しい訴えであった。

この4月講演会に参加していた多くの主婦たち、公民館長安井郁、杉並区長そして区議会など、みんなの決意により、杉並区における水爆禁止署名運動への取り組みが、一気に沸き起こったといっても過言ではない。

杉並区議会議事録より決議文案

杉並区議会議事録より決議文案

ガイガーカウンターとまぐろ(築地市場)

ガイガーカウンターとまぐろ(築地市場)

ついに結成された「水爆禁止署名運動杉並協議会」

水爆禁止署名運動に取り組もうという動きの中で、以下の団体から38名の参加を得て、5月9日「水爆禁止署名運動杉並協議会」が結成された。協議会議長には杉並公民館長・安井郁が選ばれた。

(団体名)教員組合、杉並区教職員組合、杉並魚業組合、荻窪土建労組、岩崎通信機労組、杉並婦人団体協議会、杉並婦人文化連盟、杉並文化人懇談会、濁話会、杉並区小学校PTA、気象研究所、杉の子会、上荻窪婦人会、中学高校PTA、都立大学、泉会、阿佐ヶ谷平和懇談会、東京魚商協同組合杉並支部、都職労杉並支部、蚕糸試験場労組、井草原・水爆禁止期成同盟、あざみ会、杉中農業協同組合、西松主婦の会、杉並生協、家庭学校

●杉並アピール
この時、後に「杉並アピール」と呼ばれる宣言が出されている。「全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう」で始まる一文には、この運動の根本方針が簡潔に示されている。「この署名運動は特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動であります」と。
署名簿の表紙には「水爆禁止のために全国民が署名しましょう。世界各国の政府と国民に訴えましょう。人類の生命と幸福を守りましょう。」の3つのスローガンが掲げられていた。

●瞬く間に集まった署名-その数は
運動の中心であった安井郁館長は、公民館で学びはじめた主婦たちの読書会「杉の子会」や婦人団体協議会(安井館長の呼びかけにより杉並の婦人団体が結集した組織)参加の42団体等をひろく横につなぎながら、この「杉並協議会」を核にして、原水禁署名運動に取り組んでいった。

婦人たちは、お互いに区域の担当を決め、署名簿をかかえて、戸口から戸口へと署名を求めて歩いたと言う。納得して署名してもらうという丁寧さだったが、一人で何千と言う署名を集めた人たちもいた。地域にねざす民衆運動(市民運動)の新しいタイプとして注目されるものであった。

1954年5月13日から始まった署名運動は、6月20日に259,508名に、6月24日には265,124名に達するという数字が記録されている。当時の杉並区人口は約39万、その7割に近い署名は驚くべき数である。二重署名を自戒していたし、他区の数字が若干含まれているとしても、地域からの平和運動に杉並区の住民が一丸となって取り組んできたことを数字は示している。

この時点での杉並協議会の実行委員は167名、参加団体は83団体に達していた。圧倒的な署名数を得て、杉並協議会は6月24日の段階で、杉並区内の活動から、第二段階の全国運動へすすめる方向を決定したのであった。

署名簿表紙

署名簿表紙

署名簿巻末「杉並アピール」と呼ばれる宣言の記載箇所

署名簿巻末「杉並アピール」と呼ばれる宣言の記載箇所

水爆禁止署名運動のポスター

水爆禁止署名運動のポスター

水爆禁止署名運動杉並協議会ニュース(1954年年6月27日発行)

水爆禁止署名運動杉並協議会ニュース(1954年年6月27日発行)

杉並から全国へ-「原水爆禁止署名運動全国協議会」

協議会は有田八郎(元外相)、植村環(日本YWCA会長)らが発起人になり、1954年8月8日結成された。安井郁館長は初代事務局長となり、杉並区立公民館館長室を事務所にしながら、実質的責任者として全国運動に取り組んだ。

館長室には宇山博明筆による宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の額が掲げてあった。とくに「…アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ…」の一節を心にきざんで、日々の署名集めや集計作業に献身的に励んだという。

全国協議会趣意書には「…いかなる立場または党派にも偏しないこと」「原水爆の脅威から生命と幸福を守ろうとする全国民運動」「一切の党派的、個人的エゴイズムによって汚されない清らかな組織でなければならない」ことが強調されている。これは杉並アピールの精神と同じである。そして、「各地、各団体の手で行われた署名を集計すること。署名運動の全国センターにすること」となっている。

運動体の名称は「水爆」禁止署名運動から「原水爆」禁止署名運動となっている。当初から「原水爆禁止署名運動」としてはという意見もあったが、ビキニ水爆実験が署名運動の発端であったことから、皆に判りやすい方がいいと「水爆禁止署名運動」とした経緯があった。全国にこの運動を広げようとした人々の間には、全ての原水爆・核兵器から人類の生命と幸福を守ろうという思いが共通し、国内だけでなく世界に拡がる反核・平和運動を呼び起こす署名運動となったのである。

この運動の最中の9月23日、第五福竜丸の無線長・久保山愛吉が急性放射能症で死去した。彼の死は「三たび許すまじ原爆を!」の国民感情の奔流をつくり、全国の原水爆禁止署名運動を前進させる大きな原動力になったとされる。全国協議会の活動が活発に動いて1年後、1955年8月第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。この後、全国協議会は「原水爆禁止日本協議会」(原水協)に発展し、毎年8月に世界大会が開かれることとなった。

全国協議会がその役割を日本協議会にバトンタッチしたことによって、杉並での歴史的な原水爆禁止署名運動もようやく一つの段階を終えることとなった。署名運動による最終署名数は 32,590,907名(1955年11月)であった。

「雨ニモマケズ」の額

「雨ニモマケズ」の額

館長室で署名簿を整理する婦人たち

館長室で署名簿を整理する婦人たち

原水爆禁止全国協議会ニュース

原水爆禁止全国協議会ニュース

久保山愛吉さんの新聞記事

久保山愛吉さんの新聞記事

歴史の証―「オーロラの碑」

杉並の原水爆禁止署名運動の拠点となった旧杉並区立公民館は、今、跡地に区立荻窪体育館が建っている。その角地に「オーロラの碑」がある。
この「オーロラの碑」は、かってここに杉並区立公民館があり、この公民館から原水爆禁止署名運動が発祥したことを記念して建立された。公民館では開館と同時に公民教養講座、クラシックレコード鑑賞会、講演会や映画会などが(勿論、署名運動の最中も)多彩に催されていた。

そこで共に学んだ人々は、学んだことを単なる教養に終わらせることなく、生活の中に実践的に生かしていった。だからこそ、生活に直結していた水爆禁止署名運動に邁進して行ったと言える。
「オーロラの碑」は、国際法学者にして教育者、そして、実践家であり優れたリーダーだった安井郁公民館長を中心にし、原水爆禁止署名運動に立ちあがった多くの住民たちの記念碑とも言えよう。杉並区の平和を希求する人々の良心とひとすじの魂がここに宿る。

1950年  朝鮮戦争始まる        
1952年5月  杉並図書館移転開館(西田町―現荻窪3丁目)館長安井郁

1953年10月 杉並区立公民館開館(杉並図書館に併設)館長安井郁兼務
11月 公民館で社会科学の本の読書会「杉の子会」始まる(講師:安井館長)

1954年
1月  公民館にて、婦人団体協議会結成(42団体)
3月1日  アメリカのビキニ環礁での水爆実験で、日本のマグロ漁船第五福竜丸被爆 
4月  杉並区魚商水爆被害対策協議会、杉並区長高木敏雄に陳情請願書提出
4月16日  公民館における婦人参政権行使記念講演会のあと、会場で魚商菅原トミ子が水爆問題訴える
     安井郁、国際法学者として国会でビキニ核実験の国際法違反を証言  
4月17日  杉並区議会 水爆実験禁止決議
5月 9日 「水爆禁止署名運動杉並協議会」結成、「杉並アピール」作成(議長は安井郁、実行委員21人、参加団体29団体)
5月13日  杉並区で署名開始
6月20日  署名数259,508名
8月 8日  原水爆禁止署名運動全国協議会結成、常任世話人を置く(事務局長は安井郁)
9月23日  第五福竜丸 無線長久保山愛吉さん 放射能症で死去

1955年
4月17日 杉並区議会 水爆実験禁止決議一周年    
8月 6日  第1回原水爆禁止世界大会開催 於広島
9月18日 世話人総会にて全国協議会を発展的に解消し、業務を原水爆禁止日本協議会(原水協・理事長安井郁)に移管決議、全国の署名数3259万を突破

「記念碑の由来」

「記念碑の由来」

「記念碑の由来」案内文

「記念碑の由来」案内文

公民館講座室風景(中央 安井郁氏)

公民館講座室風景(中央 安井郁氏)

DATA

  • 出典・参考文献:

    杉並区議会議事録  
    杉並区立公民館を存続させる会編『歴史の大河は流れ続ける』1~4号(1980~84年)
    杉並の社会教育を記録する会編『学びて生きる-杉並区立公民館50年』(2003年)
    安井家保存資料
    『つながる―杉並の社会教育・市民活動』編すぎなみ社会教育の会(エイデル研究所)(2013年)

  • 取材:林 美紀子(杉並の市民活動と社会教育を記録する会・代表)
  • 掲載日:2007年02月14日
  • 情報更新日:2016年04月04日