トンボから見た杉並の変遷1 戦前~戦後編

トンボのふるさとを守る前に知っておきたい 杉並の水辺環境のお話

須田孫七(すだ まごしち)先生は現在、東京大学総合研究博物館協力研究員を務める昆虫博士。昭和6年荻窪生まれで江戸時代から続く旧家。みんなが知っている学研の「科学」「学習」の執筆もしていた。今回、トンボを通して杉並の水辺の環境が時代と共にどう変わっていったのかについてお話を伺った。

須田孫七さん

須田孫七さん

子供時代~昭和初期の杉並の風景

杉並は23区随一の水郷だった

須田さん(以下須田) 杉並区には北から井草川、妙正寺川、桃園川、善福寺川、神田川、玉川上水が東西に流れ、それらの支流の小川もたくさん流れています。昭和11年の地図を見ますと、中央線より北側は大正時代から区画整理が行われ宅地化されていますが、善福寺~神田川の区南部いったいがは田んぼばかりです。なので大雨が降る度に田んぼの周辺は氾濫していました。昭和14年の大雨ではまるで杉並が一面の海になったようでした。

子供の頃(昭和初期)の杉並はホタルがたくさん飛んでいた

―― では当時はホタルもたくさんいたのですか?
須田 たくさんいましたよ。ホタルは昭和40年頃まではいました。関東型の平家ホタルが多く源氏ホタルは善福寺池と井の頭池にいました。
―― 雨の日はカエルの大合唱も聞こえたのですか?
須田 子供の頃は夜になると近衛邸の池のカエルの声が聞こえたのですよ。
―― 近衛邸って荻窪街道(現・環八)の向こう側ですよね。ずいぶん遠いですね。
須田 それというのも昔は環八が今のように交通量もなくて夜は静かでした。とはいえ(約400m先の)カエルの声が聞こえるくらい当事はたくさんいたのです。

ザリガニは昭和6年以前、杉並には生息していなかった

―― では、子供の頃はザリガニ取りをして遊んだのですか?
須田 実はザリガニは昭和6年までは杉並にはいませんでした。
―― え!在来種のザリガニはいないんですか?
須田 在来種は東北~北海道に生息しています。だからそれまではいなかったのです。これは歴史がはっきりしていましてアメリカザリガニは大船で食用ガエルの餌として飼われていた約250匹が洪水で脱走して以来日本中に生息域を広げたんですよ。
―― じゃあ、ザリガニ取りは…。
須田 もちろん戦時中は食料としてよく捕まえましたよ。いつもバケツ一杯捕まえていましたよ。

日本のビオトープ第1号!桃井第二小学校は戦時下の「ノアの箱舟」だった

須田 日本のビオトープの原型は江戸時代の向島百花園があります。私はビオトープという言葉はあまり好きじゃないんです。これは新しい言葉ですから。
とはいえ日本のビオトープ第1号は私なんですよ。第2次大戦中の昭和17年に空襲で善福寺川の生きものが死滅しないように現在の桃井第二小の校庭にあった理科園に川の生き物を集めて放したのが最初です。
―― ええ!!まるで「ノアの箱舟」のようですね。それは須田少年がそのような危機感を持って始めたのですか?
須田 いやいや、小学校の西沢二郎先生というとても熱心な先生がいらして、その先生が担任となり一緒に作りました。
―― 戦時中の大変な時期に生き物の「種」の保存を考えるなんて素晴らしい先生ですね。その先生はその後、研究者かなにかなさってますか?
須田 最後まで学校の先生でした。杉並では桃井第一小と西田小の校長先生をなさってたかな。私がこうして昆虫の研究に関わるようになったのはやはり西沢先生の影響ですね。杉並区の自然環境調査は昭和60年から行われていますがそれも西沢先生の発案です。

左:富士見丘駅周辺昭 和30年撮影 右:神田川の堰(永福1丁目) 昭和16年撮影<br>(杉並区立郷土博物館所蔵)

左:富士見丘駅周辺昭 和30年撮影 右:神田川の堰(永福1丁目) 昭和16年撮影
(杉並区立郷土博物館所蔵)

DATA

  • 最寄駅: 荻窪(東京メトロ丸ノ内線)  荻窪(JR中央線/総武線) 
  • 取材:藤山三波
  • 掲載日:2009年05月01日