松葉襄さん

半世紀にわたり地元に愛され続ける、杉並のタウン誌『荻窪百点』

半世紀にわたり地元に愛され続ける、杉並のタウン誌『荻窪百点』

荻窪の魅力を伝えて55年!『荻窪百点』の編集長

荻窪の魅力を発信する杉並のタウン誌『荻窪百点』(※1)。2020(令和2)年1月まで荻窪駅やその周辺の『荻窪百点』加盟店、杉並区の各施設で配布されていたので、目にしたことがある方も多いのではないだろうか。創刊は1965(昭和40)年3月。全国のタウン誌の先駆け的存在として、半世紀以上も荻窪の歴史や文化、街の移ろい、人々の営みなどを刻んできた、B6判、隔月発行の情報誌である。
編集長の松葉襄(まつば じょう)さんは、荻窪に80年以上暮らし、かつては文豪・井伏鱒二とも親交があったという、まさに荻窪の歴史の生き証人ともいえる名物編集長だ。
『荻窪百点』は創刊から55年目、2020年1月の第331号を最後に松葉さんの体調不良のため休刊したが、取材で収集した15,000枚もの写真や資料を、後世のまちづくりに役立ててほしいと新たな活動を始めている。

▼関連情報
東京新聞>「荻窪百点」が記した55年(外部リンク)

『荻窪百点』編集長の松葉襄さん

『荻窪百点』編集長の松葉襄さん

紙面半分を使って、『荻窪百点』の休刊と新たな取り組みを伝えた新聞記事(「東京新聞」2020年6月6日付)

紙面半分を使って、『荻窪百点』の休刊と新たな取り組みを伝えた新聞記事(「東京新聞」2020年6月6日付)

杉並で育ち、学童集団疎開も体験

松葉さんは1936(昭和11)年、牧師の家の長男として東京府東京市麻布区(現東京都港区の麻布地区)で生れた。1941(昭和16)年に、父親が中島飛行機に徴用されたため、杉並区上荻窪(現南荻窪)に転居。「当時は家の周りは畑の広がる自然豊かな所だった」と語る。
東京市桃井第二国民学校(現区立桃井第二小学校)に入学し、戦時中は、長野県小県郡別所村(現長野県上田市別所温泉)で学童集団疎開も体験した。中学は区立井荻中学校、高校は東京都練馬区の都立石神井高等学校に通った。中学ではサッカー部を創部し、高校ではサッカー東京代表校として国民体育大会へ出場したという。
社会人になってからは本格的な登山に熱中した。「冬山で生死を分ける危険な状況に遭遇したこともあり、その時の対応や経験が、その後の仕事にも役立っていると思います」

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 歴史>【証言集】中島飛行機 軌跡と痕跡
すぎなみ学倶楽部 歴史>記録に残したい歴史>杉並の学童集団疎開

疎開先の長野県・別所村で、子供たちは励まし合って生活した(写真提供:区立桃井第二小学校)

疎開先の長野県・別所村で、子供たちは励まし合って生活した(写真提供:区立桃井第二小学校)

厳冬の穂高岳や剣岳、谷川岳などに登っていた頃の松葉さん(写真提供:松葉襄氏)

厳冬の穂高岳や剣岳、谷川岳などに登っていた頃の松葉さん(写真提供:松葉襄氏)

28歳でタウン誌『荻窪百点』を創刊

高校卒業後、アルバイトなどを経て、父親が創刊した農業雑誌「明るい生活」の出版社の仕事を手伝った。北海道や東北地方の農村部を営業で回るうちに、農家の人たちが地元や土地に対し強い愛着を持っていると感じるようになった。一方、荻窪に帰ると、ベッドタウン化が進み、家に寝に帰るだけの人が多いように見えた。
「28歳の時、私は農業雑誌よりも地元を活性化する地域情報誌に魅力を感じ、商店会の協力も得て、1965(昭和40)年3月にタウン誌『荻窪百点』を創刊しました」。雑誌名には、百点満点の街になってほしいとの思いを込めた。
発刊前には「そんなに記事はないのでは」と懸念の声もあったが、情報は口コミでどんどん集まり、時代の波にも乗って加盟店や発行部数も号を重ねるごとに増えていった。創刊20周年の1985(昭和60)年ごろには発行部数30,000部、創刊30周年の1995(平成7)年ごろのピーク時には43,000部にも及んだそうである。

創刊号。表紙の絵と題字は画家の宮田重雄による。題字は次号以降も受け継いだ

創刊号。表紙の絵と題字は画家の宮田重雄による。題字は次号以降も受け継いだ

ページ数は、記事の充実に伴って当初の約40ページから約70ページに増えていった

ページ数は、記事の充実に伴って当初の約40ページから約70ページに増えていった

驚きの内田秀五郎インタビュー

『荻窪百点』で印象に残る記事を聞くと、「1967(昭和42)年1月26日に実施した旧井荻村村長の内田秀五郎(うちだ ひでごろう)のインタビューだ」と実施日まで含む返事があった。話題は、内田の区画整理事業などの功績から、村長時代の思い出にまで及んだという。
「…東京女子大が開校した日。闘鶏に興じていた。シャモをけんかさせるあれである。そこへ警視庁から機動隊(※2)がやってきた。村長と村の衆は、けんめいになって逃げたそうである。公にあっては阿修羅のごとき内田村長に、これはまたなんと楽しい思い出であろう。訪れた日、九十二歳が信じられない位にお元気な内田さん。「もう三十年も昔のことで、忘れたねぇ」といいながら、実に淡々とした話しぶりであった。…」(『荻窪百点』第14号より抜粋)
内田から驚きのエピソードを聞き出して、ユーモラスに紹介した若き日の松葉編集長の腕と度胸に感心する。しかし、松葉さんは「今になってみると、あの秀五郎さんの記事をわずか2ページに収めてしまった。当時はそんなに偉い人だとは思わず、実にもったいないことをしてしまった」と、反省しきりである。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の偉人>内田秀五郎さん【前編】

破顔一笑、楽しそうに思い出話を語る内田秀五郎(写真提供:松葉襄氏)

破顔一笑、楽しそうに思い出話を語る内田秀五郎(写真提供:松葉襄氏)

内田秀五郎の名刺。裏面にはインタビューの実施日を記載(写真提供:松葉襄氏)

内田秀五郎の名刺。裏面にはインタビューの実施日を記載(写真提供:松葉襄氏)

杉並郷土史会の発起人に

1973(昭和48)年の5月末、「“杉並で郷土史の会を立ち上げるので、発起人になってほしい”と声をかけられてお会いしたのが、郷土史家の森泰樹(もり やすじ)さんとの初めての出会いだった。『荻窪百点』を発行していたので、荻窪界隈に詳しいと思われたのでしょう」。松葉さんは、タウン誌を展開していく上で、その地域の歴史に携わることができるのは願ってもないチャンスだと考え、即引き受けたと語る。
翌月に杉並郷土史会が設立されて活動が本格化すると、出版の経験を買われて運営委員に就任。会報の編集や校正を担当した。その後、初代会長となった森の著書『杉並風土記』などの編集も行い、歴史の面白さを学んでいった。「私は森さんの背中をずっと追ってきたので、その時々の荻窪という街を単に描くのではなく、歴史から解きほぐして、現在の荻窪を描くことができるようになったと思っている」

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の偉人>森泰樹さん【前編】
すぎなみ学倶楽部 特集>杉並の地域活動>杉並郷土史会
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>読書のススメ>杉並風土記

森泰樹は、仕事ぶりを買って各著書の編集と装丁を全面的に松葉さんに依頼

森泰樹は、仕事ぶりを買って各著書の編集と装丁を全面的に松葉さんに依頼

『荻窪百点』の裏表紙、「杉並の歴史の本を読みましょう」と呼びかけている

『荻窪百点』の裏表紙、「杉並の歴史の本を読みましょう」と呼びかけている

井伏鱒二との親交―『荻窪風土記』誕生の話―

井伏鱒二との初対面は1978(昭和53)年のこと。当時、西荻窪の「こけし屋」で開催されていた文化人の交流会「カルヴァドスの会」に倣って、荻窪でも交流会を立ち上げたいという話が持ち上がり、「“会長は井伏さんにお願いしよう”と詩人の竹下彦一さんと一緒に井伏宅を訪ねたのが最初」と語る。その時はあっさりと断られたが、この荻窪にできた異業種交流会「三つの神の会(※3)」の例会に井伏は毎回出席し、楽しんでいたという。
何回目かの例会の時に、松葉さんが井伏に「荻窪のことを何か書いてくれませんか」とお願いすると、意外にも「荻窪のことを話してくれる人を紹介してくれないか」との返事。そこで、杉並郷土史会の森と地元の古老たちを紹介し、『荻窪風土記』が完成したという。
井伏の生誕120年にあたる2018(平成30)年9月の『荻窪百点』第323号では、井伏との思い出の七つのエピソードを9ページにわたって掲載した。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の文士たち>井伏鱒二さん
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の偉人>森泰樹さん【後編】
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>読書のススメ―杉並ゆかりの本>荻窪風土記

「三つの神の会」の例会風景。井伏の後方左から5人目が若き日の松葉さん(写真提供:松葉襄氏)

「三つの神の会」の例会風景。井伏の後方左から5人目が若き日の松葉さん(写真提供:松葉襄氏)

『荻窪風土記』執筆中の井伏鱒二。荻窪のアトリエにて(写真提供:松葉襄氏)

『荻窪風土記』執筆中の井伏鱒二。荻窪のアトリエにて(写真提供:松葉襄氏)

荻窪の郷土史「荻窪物語」を執筆 

1996(平成8)年に松葉さんが書き下ろした荻窪の郷土史「荻窪物語」がある。
執筆のきっかけは、創立70周年を迎える旧区立杉並第五小学校(現区立天沼小学校)の記念誌の編集委員会から、「天沼地域と杉五小の歴史だけでなく、荻窪の街の歴史も語り継いでいきたい」という依頼があったからだった。
松葉さんは、「荻窪の発展は、“荻窪駅の開設”“内田秀五郎による土地区画整理”“新興マーケットやその後のタウンセブン、周辺の商店街の発展”と、大きく三つのステップがあるので、その観点から情報収集や聞き取り調査を行った。土地区画整理については、ページ数の都合でカットになったが、森さんの『杉並風土記』を意識しながら、自分なりに満足ができる荻窪の郷土史“荻窪物語”を書き上げることができた」と語る。
この「天沼と杉五」の歴史と「荻窪」の歴史が集約された記念誌『新 天沼・杉五物がたり 付荻窪物語』は、区立図書館に配架されている。

▼関連情報
天沼8町会>荻窪物語 荻窪駅の開設と中央線(外部リンク)
天沼8町会>荻窪物語 青梅街道の交通の今昔(外部リンク)
天沼8町会>荻窪物語 わが街、荻窪(外部リンク)

「天沼と杉五」と「荻窪」の歴史が集約された『新 天沼・杉五物がたり 付荻窪物語』

「天沼と杉五」と「荻窪」の歴史が集約された『新 天沼・杉五物がたり 付荻窪物語』

荻窪発展の起爆剤となった荻窪タウンセブンの前身、新興マーケット(写真提供:松葉襄氏)

荻窪発展の起爆剤となった荻窪タウンセブンの前身、新興マーケット(写真提供:松葉襄氏)

『荻窪百点』で培った「財産」を後世に伝えたい

2019(令和元)年の年末、松葉さんは急病で入院した。翌月に退院できたものの、体力の衰えを感じ、『荻窪百点』は第331号をもって休刊した。休刊の知らせは、公式SNSの動画で自ら伝えた。
しかし、活動をすべて休止したわけではない。2015(平成27)年11月から始めた荻窪の歴史講座「井伏鱒二「荻窪風土記」を読んで荻窪を知る」を継続して開催するとともに、『荻窪百点』で培った「財産」を後世に伝える活動も始めた。
取材で収集した写真や資料を今後のまちづくりに活用する荻窪百点の会を立ち上げ、ボランティアの協力も得て分類整理とデータ化に取り組み、「松葉襄・荻窪歴史写真コレクション」として、写真展を企画・開催するとともに、各種報道機関等へ写真の提供を行っている。さらに、「荻窪物語」の改訂版や写真集「『荻窪百点』の見た荻窪の歴史」、「荻窪検定」テキスト、「荻窪歴史年表」などの作成にも着手している。
「愛する荻窪のまちづくりのために、正しい情報や歴史を伝えていくのは、私のライフワークであり、役割だと思っています」

公式SNSで『荻窪百点』の休刊を伝える松葉さん

公式SNSで『荻窪百点』の休刊を伝える松葉さん

荻窪の歴史講座「井伏鱒二「荻窪風土記」を読んで荻窪を知る」の第10期募集チラシ

荻窪の歴史講座「井伏鱒二「荻窪風土記」を読んで荻窪を知る」の第10期募集チラシ

取材を終えて

「荻窪物語」には、中央線荻窪駅の高架化が立ち消えとなった経緯や、荻窪発展の原動力となった商店街の歴史などが詳しく記載されており、さらに最終章では荻窪の将来のまちづくりについての提言までも記されている。松葉さんの思いがこもった郷土史だが、「後世に残すには見直しが必要だ」として、さっそく改訂版「荻窪物語」の作成に取りかかる姿勢には驚かされる。
「俺も年を取ったな」と最近つぶやくようになった松葉さん。だが、氏の創作意欲と使命感には衰えを感じない。

荻窪の歴史講座は5回に分かれて行われ、最終回では『荻窪風土記』の舞台を歩く

荻窪の歴史講座は5回に分かれて行われ、最終回では『荻窪風土記』の舞台を歩く

『荻窪百点』関連の写真と資料がぎっしりと詰まっている事務所の書庫

『荻窪百点』関連の写真と資料がぎっしりと詰まっている事務所の書庫

松葉襄 プロフィール

1936年11月生まれ。1965年3月、タウン誌『荻窪百点』を創刊。1973年、杉並郷土史会の発起人となる。1996年、「荻窪物語」を執筆。2015年3月、『荻窪百点』創刊50周年を迎える。同年11月、荻窪の歴史講座「井伏鱒二 「荻窪風土記」を読んで荻窪を知る」を開始。2020年1月、第331号を最後に『荻窪百点』を休刊。2023年12月、荻窪の歴史写真展「日本一若くして村長になった内田秀五郎と町づくり」を開催。
荻窪百点の会会長、『荻窪百点』編集長(現在 休刊中)、郷土史家、日本ペンクラブ会員、荻保存会会長、荻窪検定運営委員長、荻窪まちづくり会議副代表

▼関連情報
荻窪まちづくり会議
荻窪まちづくり会議>内田秀五郎と町づくり

※記事中、故人は敬称略

※1 『荻窪百点』は、区立図書館のうち中央図書館のみに配架されている。また、区立郷土博物館分館でも閲覧できる。なお、いずれも一部欠号がある

※2 ここでは、数名の警察官が出動してきたことを「機動隊がやってきた」と少しオーバー気味に表現したと思われる。警視庁の機動隊やその前身の警視庁予備隊が創設されたのは戦後で、内田の村長時代には設置されていない。インタビューが行われた1967(昭和42)年前後には安保闘争や大学紛争が頻発しており、「警察=機動隊」のイメージがあったのかもしれない

※3 三つの神の会:「バッカス(酒の神)、ミューズ(音楽の神)、ビーナス(美の神)の三つの神をあがめよう」という荻窪の交流会

「荻窪百点」創刊50周年記念祝賀会であいさつする松葉さん (写真提供:松葉襄氏)

「荻窪百点」創刊50周年記念祝賀会であいさつする松葉さん (写真提供:松葉襄氏)

荻窪の歴史写真展「日本一若くして村長になった内田秀五郎と町づくり」。主催:荻窪まちづくり会議分科会・荻窪百点の会

荻窪の歴史写真展「日本一若くして村長になった内田秀五郎と町づくり」。主催:荻窪まちづくり会議分科会・荻窪百点の会

DATA

  • 公式ホームページ(外部リンク):https://ogikubo.100ten.com
  • 出典・参考文献:

    『荻窪百点』創刊号、第2号、第14号、第62号、第122号、第182号、第300号、第301号、第302号、第303号、第323号、第330号、第331号 松葉襄(明るい生活社)
    『桃井第二小学校創立七十周年記念資料集 白旗桜』(桃井第二小学校 白旗桜編集委員会)
    『學童集団疎開の記録(杉並区桃井第二國民学校)』星田言
    『新 天沼・杉五物がたり 付荻窪物語』(杉並第五小学校創立七十周年記念事業実行委員会)
    『開業130周年を迎える荻窪駅 写真と記憶画が語る、その誕生』松葉襄(明るい生活社 荻窪百点の会)
    「東京新聞」2020年6月6日付
    「東京新聞」2012年5月26日付
    「毎日新聞」2014年10月28日付
    「朝日新聞」2015年8月4日付
    荻窪百点Facebook
    https://www.facebook.com/ogikubo100ten/
    荻窪地域区民センター協議会>荻窪の魅力を発信!!創刊55周年、杉並のタウン誌「荻窪百点」
    https://ogikubokyougikai.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/2019/05/2.pdf
    荻窪ナビ>1965年創刊のタウン情報誌「荻窪百点」
    http://www.ogikubo-navi.com/news/column/live/column12003.html
    J:COMチャンネル>杉並人図鑑 第91回 松葉襄さん
    https://www.youtube.com/watch?v=-_62Jm-9FVc

  • 取材:進藤鴻一郎
  • 撮影:進藤鴻一郎
    写真提供:松葉襄氏、区立桃井第二小学校
    取材日:2023年11月07日、14日
  • 掲載日:2024年02月19日