謎の吉田園 杉並のスケート場(2)

記録・大正の都新聞よりー『下高井戸辺りと吉田園』

(※大正5年11月5日発行・都新聞より現代語にて抜粋)
昔の武蔵野は次第に切り拓かれ、里は村に、村は町に、見渡す限りだった草の原はやがて、稲・麦・野菜・桑・茶の里と拓けて今は当時の面影は萩やススキに偲ぶのみになった。しかし、京王電車の下高井戸停留所からわずか二町(※1)のところにある1区域だけは、野生のタヌキやキツネ・ウサギや雉の生存する区域として残っていた。これは、実は、近隣に陸軍の弾薬庫を配していたため、通常は火薬の匂い等に敏感な野生動物は逃げ去る筈なのだが、その付近の住民は火器使用禁止であり、狩猟者は足を踏み入れられない地域だったため、却って身の安全を感じ、自然に集まってきたものだと考えられる。
そこに、今、吉田園という遊園地がある。まだ、追加の整備中だが、この辺りの地主「吉田甚五郎」が創設。昔は1面の槇山(※2)で、30年程前には木を刈りに来た男が天狗の笑い声を聞き、青くなって逃げた、などという風評もあるほどだった。さすがに天狗の話は眉唾ものだが、ここには、人を見ても恐れない雪のように白く太い尾を持つ古狐が生息していて、畑の作物や子どもの弁当を食べるなど縦横無尽に振る舞い、人家近くにも現れたという。甚五郎さんも12~3歳の頃、弁当を持って隣村の小学校に通う時度々、この狐に弁当をやったことがある、という。

下高井戸辺りと吉田園

下高井戸辺りと吉田園

下高井戸停留所(写真提供:山田芳江さん)

下高井戸停留所(写真提供:山田芳江さん)

記録・大正の都新聞よりー『アイススケート場の開始日』

(※大正6年1月7日発行・都新聞より現代語にて抜粋)
豊多摩郡高井戸村の吉田甚五郎氏は一族吉田末次郎同じく小常陸由太郎の連名で、その先祖畠山重忠一族江戸遠江の守太郎判官重永等の追福の為同村宗源寺に石碑を建て5日除幕式を行った。式典も終わり吉田園内の閑亭に引上げてから武蔵野名物と銘うった菜蔬料理(※3)で宴会を催した。ここでは、しょっちゅう京王電車で載り合わせはするが、名は知らぬ仲だった人々が挨拶を交わす光景などが見られた。その後、夕刻霜柱が出来た残雪の道を一行は歌ったりしながら停留所に向かった。ちなみにこの日から吉田園の製氷地のアイススケート場は開始された。

アイススケート場の開始日

アイススケート場の開始日

吉田園庭園(写真提供:山田芳江さん)

吉田園庭園(写真提供:山田芳江さん)

大正のスケート事情

記録に残っているものでは、安政元年に函館の子どもたちが下駄の底に割った竹を結んだもので坂道をすべる『氷滑り』が行われていた。だが、専用の靴は無く危険とみなされ後に禁止されていたよう。その為、日本のスケートの歴史は明治24(1891)年新渡戸稲造氏が札幌農学校へスケート靴を持ち帰ったことから本格的に広まったと言われる。しかし、やはり当時スケート靴はまだ高価で下駄の裏に竹や鉄の刃を付けた『ゲロリ』、ポックリ状の下駄に家を建てる時に使う鎹(かすがい)を取り付けた『ベッタ』や鉄棒を打ちつけた『ベンジャ』というスケート靴の代用品(※4)を使用する方が一般的だった。スケートが冬のスポーツとして急速に広がったのは大正5年頃で、帝国大学・慶応義塾の学生などが盛んにスケートを楽しみ、地方によっては、昭和初期頃まで盛んであった。

大正のレジャーと遊園地

産業や市民生活の発展とともに、江戸末期・明治から続く文化が花開いた大正時代。豊かになった生活とともにスケート場や遊園地も娯楽施設として発達。
古くからある遊園地としては、1853年(嘉永6年)に開設された『浅草花屋敷』(※5)や 1912年(明治45年)関西に開設の『宝塚温泉パラダイス』(※6)など。遊園地は最初は庭園だったが、万国博覧会などで発表された大型遊具などを取り入れていき、次第に現代型の遊園地へと変化していった。当時のモダンボーイ・モダンガール(モボ・モガ)は洋風にお洒落をして銀ブラなどが最先端の娯楽。演劇などとともに、西洋から受ける文化に刺激を受けた時代のニーズにこたえた施設の誕生だった。

浅草公園内の観覧車(国立国会図書館ウェブサイトより)

浅草公園内の観覧車(国立国会図書館ウェブサイトより)

区内在住者が語る「閉園後の吉⽥園」-山田芳江さん

私の記憶にある「吉田園」
「吉田園」の創始者、吉田甚五郎は私の祖父にあたります。下高井戸の吉田家は母が育った実家ということで、用事がある母に連れられて私も出向いていました。今から60年くらい前、昭和30年代のことです。すでに「吉田園」は閉園していましたが、吉田家の門には、昔の写真に見られるような「吉田園」時代の面影がありました。
大きな新館が残っており、吉田家の大家族はそこで暮らしていました。知り合いの学生さんが下宿していた時期もありました。⼦供ながらに、その建物が普通と違う感じがしたことを覚えています。部屋数が多く、台所が広く、⼆階に上がる階段が⼆つありました。⽞関もやたらに広くて、⽞関ホールが⼀部屋分くらいあり、それに続く幅の広い主階段には光沢がある⽊材が使われていました。もう一つの階段は大きな台所兼食堂に続いていました。平屋暮らしの私にはびっくりする景色ばかりでした。
スケート場があったという「吉田園」は、昔、製氷業も営んでいたといわれています。母は「氷の配達の手伝いで世田谷にある松沢病院へ行ったことがある」と話していました。また、かつて「吉田園」にはプールがありました。母は大正初めの生まれでしたが、プライベートプールさながらに自宅のそばにあったプールで鍛えた泳力は立派でした。

※1 二町:長さの単位。1町は約109m
※2 槇山:雑木林・倒木があったり薪になるような木が茂っている山
※3 菜蔬料理:野菜料理
※4 『ゲロリ』『ベッタ』『ベンジャ』など、地方によって呼び名や形状は異なる
※5 『浅草花屋敷』の正式開園は1885(明治18)年
※6 宝塚温泉パラダイス:現在は宝塚歌劇団に名残を残すのみになってしまったが、1912(明治45)年~2003(平成15)年まで営業していた「宝塚ファミリーランド」の前身

吉田園正面(写真提供:山田芳江さん)

吉田園正面(写真提供:山田芳江さん)

吉田園新館(写真提供:山田芳江さん)

吉田園新館(写真提供:山田芳江さん)

吉田園中之島(写真提供:山田芳江さん)

吉田園中之島(写真提供:山田芳江さん)

吉田氷製造所の水源地(写真提供:山田芳江さん)

吉田氷製造所の水源地(写真提供:山田芳江さん)

DATA

  • 取材:荒倉朋子
  • 撮影:資料提供:上妻絢子さん、山田芳江さん
  • 掲載日:2010年01月14日
  • 情報更新日:2020年10月12日

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