すぎなみ学倶楽部 特設コンテンツ
ぼくたち、私たちが聞いた すぎなみ人 とっておき物語
えらんでね
仕事 私が「この道」を選んだ理由
転機:私の生き方を変えた、あの時
世界:世界へ視野を広げると見えてくるもの
人生:今の私につながる、ちょっと苦い思い出
社会:人とつながる、地域に生きることの意味
歴史:遠い昔の杉並のお話
特別編・杉並第五小学校 インタビュー名人になろう
全インタビュー一覧
『いまはもう見られない、遠い遠い昔の杉並の風景』
【針田雅人さんの感想】
 いまでも早稲田から箕輪まで路面電車が残っているが、当時、青梅街道を走っていた路面電車は、荻窪が終点だった。荻窪から築地や銀座、新橋まで走っていた。その路面電車がなくなって、トロリーバスが走った。それもいまはなくなった。当時、荻窪の駅も木造だった。いま荻窪団地など建っている南荻窪の方は、田んぼと畑が広がっていた。 アスファルトの道は少なく、土の道だったから、雨が降ると地面にしみこみ、下水に流れることがなかった。 だから川の水もきれいで、どこでも水が飲めたものだ。
 お店の種類もいろいろあった。今はスーパーやコンビニに行けば、いろいろな商品を売っているが、昔は、お店ごとに違うものを売っていた。魚屋さん、八百屋さん、パン屋さんといった小さなお店がいっぱいあった。 そういうお店をやっている以外の家は、ほとんど農家だった。 そういう昔から住んでいる人たちは、大きな土地を持っていた。豪農というか庄屋さんなんかだ。
 昔は校舎が木造だったし、教室の床も机もみんな木でできていた。昭和35年以降に鉄筋の校舎に建て替えられた。
 テレビは登場したばかりで、よほどお金持ちでないかぎりテレビは持っていなかった。「街頭テレビ」というものがあり、みんな街頭でテレビを見ていた。その頃の楽しみは、マンガを読むくらいだった。でも、マンガだって高かったから、そんなにたくさんは買えなかった。冷蔵庫なども各家庭にはなかった。
 情報源はテレビではなくラジオ中心だけだったけれど、それほど多くの情報は必要なかった。地域のことを知っていれば生活ができた。杉並の中だけで一生暮らしても不自由しなかった。
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