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| 『徒手空拳で日本初のロケットエンジンを開発した技術者の物語』
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ペンシルロケットは、その後、ベビーロケット、カッパー、ラムダ、ミューといったロケットに発展し、現在の大型ロケットにもその技術は継承されている。
ゼロからロケット(エンジン)の開発に関わってきた垣見さんは「小さなペンシルロケットの様々な実験で、以後の大型ロケットに役立つ基礎データを取得した」という。
特に、「宇宙探査衛星系ロケットは国産技術で開発されたものだから、たとえトラブルが発生しても原因を特定し、検査、修理、新技術に発展させることができるようになっている」と垣見さんが力強い口調で言っていたのが印象的でした。
3.垣見さんがロケット開発から学んだこと、若い人たちに伝えたいこと
垣見さんはロケット開発から学んだこと、若い人たちに伝えたいことを次のように語りました。
糸川博士には「できない」という返事は通じなかった。「計算する道具がない」と答えると「それなら、計算する道具を作れ」と言われる。やろうと思えばできる。
「こうだからできない」とできない理由を言う前に、どうすればできるかを考えることが大切ということを糸川先生から学んだ。
ロケットの開発で一番苦労したことは、原理はわかっていても、目の前に実物がないこと。今なら新しい自動車を開発しようと思えば、周囲にいくらでも自動車があるから、分解してみるなどもできるが、ゼロからの開発では、それは不可能でした。
また、事故が起きた場合には、技術者には、その原因を究明する義務がある。
しかし、ロケットの場合には、遠く宇宙の果てに、事故を起こしたロケットがあって回収できないことも多い。
だから、日頃から、徹底して"データ"を残すことが大事だということ。
詳細なデータがあれば、事故の原因解明にも役立つ。 データを残す方法として、毎日かかさず「日記」をつけることから始めてはどうか。 |
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壮大な宇宙を旅する夢。
夢の実現への第一歩はこの小さなロケットからスタートした。
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かつては「匠(たくみ)」と呼ばれる熟練した技術者がどこの会社にも、どこの工場にもたくさんいました。中島飛行機でも多くの技術者を社内で教育した。また、代々、そうした技術の伝承がされてきたから、日本の技術は優れたものになった。
ロケット作りには、多くの技術者のチームワークが必要で自分の専門分野(得意分野)だけでなく、他の分野のことも勉強しようと互いに競い合って勉強し協力し合った仲間がたくさんいました。
糸川さんみたいに号令をかける人、垣見さんみたいに、理論を整理して、必要な技術を駆使して設計図を書く人、設計図をもとに、0.1ミリ以下の誤差も生じないような正確さを保って試作品を作る熟練した加工技術者(この方々は、尋常小学校、中学を出たら会社に入り、
旋盤・研磨・加工・切断等に技術の匠になるために社内学校で勉強する)、このような人たちがチームワークよく心を一つにして試作品を作る。
これが富士精密の強み(旧中島飛行機の後継会社でのち日産自動車と合併)であったと垣見さんは誇らしそうに話をしてくれました。
ペンシルロケット開発から50年。
ようやくここまで来た、という思いがある。
これからの50年、どんな時代になるのか、若い人たちに大いに期待している。
注3.2003年5月に鹿児島県内之浦町のロケット発射場から飛び立って小惑星「イトカワ」に向かった宇宙探査衛星「はやぶさ」は2005年12月に「イトカワ」に到達し最近話題になっている。探査衛星「はやぶさ」は糸川先生が戦争中に戦闘機「隼」の設計者であったこと、日本の小惑星探査の対象である「イトカワ」も、同じく糸川英夫さんにちなんで命名されたものです。また、独立行政法人の宇宙航空研究開発機構(JAXA)の宇宙飛行士の野口総一さんはスペースシャトル「ディスカバリー号」にペンシルロケットの実物を持ち込み糸川英夫先生の英知を披露しました。 |
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