すぎなみ学倶楽部 特設コンテンツ
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歴史:遠い昔の杉並のお話
特別編・杉並第五小学校 インタビュー名人になろう
全インタビュー一覧
『徒手空拳で日本初のロケットエンジンを開発した技術者の物語』
2.垣見さんとロケットとの出会い〜ペンシルロケットの開発
 つぎに、垣見さんがロケット開発を行ったことについて教えてもらいました。戦後、日本のロケット研究がスタートしたのは、1953年です。東京大学教授であった糸川英夫先生がアメリカの研究所を見て回って「ロケット時代の到来」を宣言しました。ジェットエンジンの開発ではアメリカに先を越されてかなわない、ロケットエンジン開発なら追いつき追い越せると糸川先生は考えたということでした。
 東京大学生産技術研究所からの要請があり、1954年に当時の富士精密の荻窪工場内でロケットエンジンの地上燃焼実験をしたのが始まりで、その前年、1953年に垣見さんは富士精密へ入社する。元中島飛行機の技術者だった糸川英夫教授が、昔の仲間のいる富士精密にロケットエンジンの共同開発の話を持ち込んだということが事の発端になりました。当時、アメリカと日本のロケットエンジンの技術レベルは大きくへだたっていたが、糸川教授は「頑張れば追いつける」と本気で信じていたようだと垣見さんはおっしゃっていました。
 当時荻窪工場の全従業員は1600人。その中から、入社したての若い垣見さんが、その担当に指名された。当時は戦後の食糧難の時代、会社は、ロケットなど未知のものに手を出してもメシの種にはならない(もうからない)と考えていたから新米社員の垣見さんが糸川先生の担当となったとのことです。
 垣見さんもロケットのことは全く知らなかった。女性が胸につけるアクセサリーのことだと勘違いをして、「なぜ、私がそんなものを作らなければならないのか」と思ったという。開発リーダーである糸川博士に聞いても、「私もよく知らないから、君が勉強してくれ」と言われ、一からロケットのことを勉強した。当時の垣見さんの残業時間は250時間を超えた(勤務時間ではない!)。たとえば、千葉(注2参照)で研究開発会議がある。リーダーの糸川教授は参加メンバーから出るオーダー(要求)にすべて「はい、やりましょう!」と答える。しかし、その課題(技術の開発や各種の設計・計算など)をクリアするのは、すべて垣見さんの仕事である。千葉の会合から2時間以上かけて荻窪の会社に戻ると夜の10時過ぎ。そのまま朝まで仕事をした。会合の翌日、必ず糸川教授から会社に電話が入り「昨日の件はどうなりましたか?」と言われるからで、「まだやっていません」と答えると、糸川教授が怒るからです。

へー、これが日本最初のロケットなんだ!
小さいね。でも、カッコいいね。



 荻窪工場には、中島飛行機時代に使われた多くの材料が残っていた。飛行機の機体に使うジュラルミンもたくさんあった。これを利用すれば、試作機も含めて、多くのロケットが作れると思った。また、アメリカが朝鮮戦争のときに日本のメーカーに発注したバズーカ砲の燃料がたくさん残っており、これも利用できると考えた。当時はパソコンもなく、計算するには計算尺やタイガー計算機という手動式のものしかなく、肉体労働ともいえるようなきつい仕事だった。そして、2年足らずの後、1955年、垣見さんが開発したロケットエンジンを搭載した「ペンシルロケット」(直径1.8センチ、長さ23センチ、重さ200グラム)が完成し、1回目の水平飛翔実験が国分寺機関銃試射場跡(現在の国分寺の早稲田実業高校の校庭)で行われた。水平に飛ばしたのは、当時、郊外の荻窪といっても空にロケットを飛ばしては危険と考えての配慮でした。

注1.旧日産自動車荻窪工場跡に「ロケット発祥之地」と「中島飛行機・発動機発祥之地」の記念碑があるのは、このためです。
注2.1953年11月ロケット開発について富士精密から協力の約束をとりつけた糸川英夫教授は翌1954年2月、東大生産技術研究所の研究組織が横断的に協力しあう研究体制として、AVSA (Avionics and Supersonic Aerodynamics) (航空電子工学と超音速航空工学連合) 研究班を立ち上げ、この研究体制が以後のロケット開発について指針・方向性を立案した。
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