すぎなみ学倶楽部 特設コンテンツ
ぼくたち、私たちが聞いた すぎなみ人 とっておき物語
えらんでね
仕事 私が「この道」を選んだ理由
転機:私の生き方を変えた、あの時
世界:世界へ視野を広げると見えてくるもの
人生:今の私につながる、ちょっと苦い思い出
社会:人とつながる、地域に生きることの意味
歴史:遠い昔の杉並のお話
特別編・杉並第五小学校 インタビュー名人になろう
全インタビュー一覧
『徒手空拳で日本初のロケットエンジンを開発した技術者の物語』
語り手:垣見恒男さん
成田在住・航空エンジニア

インタビュアー:
田中誠明さん(東田中2年・男子)
長谷川陽一さん(東田中2年・男子)

お話を聞いた日:2005年11月21日
1.中島飛行機のこと(前史)
 インタビューをした場所は介護老人施設 シーダウォークのロビーで行いましたが、この場所は旧日産自動車の荻窪工場です。まずはじめに、垣見さんが入社された会社とその前身である中島飛行機のことについて教えてもらいました。1917年、民営航空機工業の確立を志して海軍機関大尉を退役した中島知久平(当時33歳)が群馬県(現太田市)に「飛行機研究所」を設立したことに始まり、1931年、中島飛行機株式会社と改称しました。1941年に中島飛行機の一式戦闘機が陸軍に正式採用されました。日本の航空機・エンジンのメーカーとして、中島飛行機は、独自に機体やエンジンの開発を行う能力を持ち、自社での一貫生産を行う高い技術力を備えていた。 第二次世界大戦終戦までは、三菱航空機をしのぐ日本最大の航空機メーカーで、陸軍や海軍の戦闘機・偵察機、民間機など、約2万6千機もの飛行機を作った歴史をもつ会社でした。
 国産技術の育成に意欲的だった中島は、発動機(エンジン)の国産化を目指して、1924年、東京工場の建設に着手した。群馬太田で誕生した中島飛行機であったが、中島知久平は「優秀な人材を確保するためには東京に」とあえて機体と発動機を分け、発動機部門製造の地を東京近郊(荻窪)とした。 前年の1923年に関東大震災があったので東京の郊外で安全な場所ということで荻窪を選んだのではないでしょうか。
 第二次世界大戦の敗戦で、日本航空機の生産を禁止され、二度と軍需産業に進出できないよう、アメリカにより、中島飛行機は12の会社に解体された。同社の技術者の多くは自動車産業へ転進し、日本の自動車産業の発展に大きな貢献をした。後に垣見さんが入社するのはこの中の富士精密工業(後に日産自動車へ吸収合併される)でした。
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