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| 『母から子へ、そして孫へ。"のれん"を作り、育て、守る』
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戦後、どこの地域にもあったバラック建ての家屋(間に合わせに建てる、粗末な家屋)をつくり、お母さんがお店を始めた。
はじめは、駄菓子やアイスキャンデー(1本5円)、せんべい、ラムネなどを売っていた、そこには近所の子どもたちが、親からもらった小遣い銭を握りしめてやってくる子どもの社交場だった。
やがて、ラーメンなども出すようになった。
夜もおでんなどを出して、勤め帰りの大人がちょっと立ち寄る、お酒も飲める店になった。
当時はまだ駅周辺には商家もなく、店から浜田山の駅が真ん前に見えた。
お父さんは蒲田にある会社に勤めをしており、蒲田まで電車で通っていたので、お店はお母さんが一人できりもりしていた。
営業時間は適当で、朝10時ごろにお店を開き、夜は終電の頃までやっていました。お母さんはとても働き者だった。
志村さんは、上の3人はお姉さんで一番年下の弟で一人だけの男の子ということもあり、高校時代には出前などの手伝いをさせられました。
自転車に乗り、片手にラーメンを3杯から5杯も入れた重い岡持(おかもち:出前に使う入れ物)を持つのは結構つらくて「因果な商売だなあ」と思った。
出前の範囲は南の杉並総合高校、塚山公園から北は、豊多摩高校のあたりまで行った。
当時は、信号が今のように多くなかったので案外早く出前を届けることができたそうです。
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戦後のバラック建てから始めたお店も、今はご覧の通り立派になりました。
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| 特に大変なのが大晦日です。昔はパーマ屋さん(美容院)で大晦日の夜に日本髪にゆってそのまま年明けの初もうでへ出かける女性が多かったので、各パーマ屋さんからの注文で出前は大忙し、
また各商店主、従業員から仕事の終わる深夜に年越しそばを出前してほしいと頼まれ、暗い夜道を出前に行った。
そして、各商店とも、正月は玄関に飾り付けするので、食べた後の器も早く取りに行かなければならず、午前3時、4時でもどんぶりを取りに走るような大変な晦日を過ごす高校生であった。
どんぶりは、とても重いし運びづらく大変であったと今でも思い出しますとのことでした。 |
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