 |
| 『何もなかった、空腹だけを抱えていた〜戦中、戦後の暮らしと生活』
|
 |
Q:疎開中の生活はどのような生活でしたか? A:群馬の親戚の家に疎開していました。そこでは方言が喋れないということでいじめを受けました。
「〜だんべ」「〜ずら」という群馬弁が話せなかったからです。しかし空襲に比べればずっとましだと思った。
月1回の母からの手紙が何よりも嬉しかった。お守りだと思って、いつも身に付けていた。
戦争が終わったとき、これで親子がひとつ屋根の下で一緒に暮らすことができる、と思った。
Q:当時はどのような遊びをしていましたか?
A:疎開先の群馬では、山や野原、川で遊んでいました。戦後、東京に帰ってきてからは鬼ごっこ、缶蹴りなどをして遊んでいました。
Q:空襲を受けたときはどんな気持ちでしたか?
A:空襲サイレンが鳴ると頭に防空頭巾をかぶり、手をつながれて防空壕に逃げました。
Q:戦後の生活でよく覚えていることは何ですか?
A:青梅街道沿いにある桃井原っぱ広場周辺は、戦争中は軍需工場だったために、そこを狙って空襲があった。
その空襲で落ちてきた不発の焼夷弾の中身を出して遊び道具にしていた子どもたちがいた。
この焼夷弾は8角形の筒型で、足で焼夷弾を転がして遊んでいました。 断水、停電はよくあり水道もあまり出なくてお風呂に入れる状態ではありません。
戦後3、4年は食料も不足していて、各家庭の庭にはかぼちゃ、トマト、きゅうり、なす、とうもろこしなど栽培して食料を確保する努力をしていました。 |
 |
【徳満優さんの感想】
先日のインタビューはとても貴重な体験となり、これから後世に伝えなくてはならない事などもお話いただいて本当に良い機会に恵まれたと思っています。
なぜかというと、今の時代では目に触れることの少ない実物を見たり、お話を聞いたりしたので何もかもが僕にとって発見だったからです。
とても印象に残ったものは三つです。
1.蜂巣さんの家計簿には今の時代では考えられない1円玉よりさらに小さい「銭」という単位があることにびっくりしました。
今の時代で使い道がない1円玉が昔の人から見たら高価なお金だということに気付き、1円玉もお金だということをしっかり頭に入れ大切に扱っていきたいと思いました。
2.戦争中はみんな貧しかったということでした。映画「ほたるの墓」を見て少しは知識があったけれど「お金があっても、ものがなかった」という実感がありませんでした。
お金さえあれば腹一杯食べられるからと思っていたけれど、ものがなければお金の意味がないことに気が付きました。
また、食べものがなかったことは子どもの標準体格に現れて、今の同じ年の子供の体格と比べて全く違い特に体重が20kg近く少なかったことを聞いてびっくりしました。
3.疎開先で母親代わりのようにやさしくしてくれたおばあさんが入った土葬の棺桶を埋葬するときに土をかけてお別れすることが辛くて土をかけることができなかったそうです。
僕でも絶対できないと思います。
このようないろいろなお話を聞けてとてもよかったと思います。
蜂巣さんが最後に一言おっしゃった「自分なりにポリシーを持って頑張ってほしい」をしっかり頭に入れて行動していきたいです。
|
【谷優太郎さんの感想】
学校で、少しは戦争について勉強していたけど、今回のインタビューで今まで知らなかったことを知ることができよかったと思いました。
戦争を体験した人と話す機会もあまりないのでとてもいい経験になりました。
むごいことしかない戦争は二度と起こしてはいけないと思う。また機会があればもっと詳しく話を聞いてみたいと思います。 |
 |
|
1ページ目 | 2ページ目 | 3ページ目 | 4ページ目 |
 |