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| 『情けは人のためにある〜極寒のソ連で知った人の気持ちの暖かさ〜』
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2.ソ連での捕虜生活
久保田さんは馬の管理をやりましたが、ロシア語で指示された意味が分からず、けとばされました。ほとんどの
人は山で木を切り倒す伐採の仕事でした。ノルマを達成したら仕事を終わりにして良かったそうです。ロシア語を
知らなければ損だと考え、1日に30語ずつ覚えようとしました。先生がいなかったので物をロシア人に見せ、日本
語で言いロシア語で、ロシアの兵隊に発音させては、メモして覚えました。5,6ヶ月後には、だいたい覚え、1年後に
は不自由しなくなったそうです。捕虜の間は、それ以後、馬屋では、通訳として重宝されたそうです。日本に帰った
後もロシア語は通じたそうです。また、若いころに覚えたことは忘れないと言っていました。でも、年取った今は、昨
日のことでも忘れる、と笑っていました。中高生の皆さん、今のうちにいろいろなこと(勉強など)を覚えましょう!
ロシアの食糧の分配は公平でしたが、少なかったのでスミレ・タンポポなど、ほとんどの草を食べていたそうです。
ネズミ・カエル・イモムシは美味しかったそうです。また、キノコやイナゴも食べましたが、毒キノコには当たらなかっ
たそうです。大きなフキがあったのでそれも食べましたが、ヘビだけは、苦手で食べなかったそうです。ほかの人は、
食べたそうです。排泄物は、草を食べていたので緑色だったそうです。
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昔の地図を広げて 満州時代の思い出を語る 久保田さん |
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2年目位から穀物が出ました。精製していない麦で作った黒いパンやコーリャン(中国の穀物)です。久保田さん
は馬の管理をしていたので、馬の飼料を失敬して食べたそうです。今思うと馬には申し訳ないことをしたと思っている。あるロシア人将校の家のペーチカの薪運びをした時、たばこをくれたり、すごい格好の日本人捕虜を家にあ
げてくれた上に、食事をさせてくれたので久保田さんは感動したそうです。お風呂に入れないので、体も顔もまっ黒
に汚れ、人の肌色をしているのはまぶたと唇だけ、そんな久保田さんを差別することなく、家族と一緒のテーブル
で食事をふるまってくれたそうです。そんなロシア人に接したからでしょう、久保田さんは、「共産主義は嫌いだが、
ロシア人達は人種差別がなくて、お人好しで大好きだ」と言っていました。
捕虜生活では、ずっと「もうすぐ帰れる」という噂が数え切れない程流れたそうです。その時は、噂が、なぐさめになったそうです。そして、昭和23年12月1日ついに帰る時がきました。鉄道に乗り、港で船に乗り舞鶴港に到着しました。
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