それを見た人達

著:川端康成(講談社文芸文庫『水晶幻想 禽獣』に収録)

川端康成さんの、 実際に武蔵野で起きた事件を題材にした短編小説。
中野の電信隊(※1)の一等卒(一等兵の旧称)が、演習地の雑木林で、夜半、「それ」(白骨化した屍体)を発見する。「緑のはげしい薫りだと思った。それはつかのまで、動物の腐る臭いが鼻を突いた。」熟練した医師の綿密な鑑識にもかかわらず、その身元は判明しなかった。警察の聞き取りは中央線沿線に広がり、古着屋、質屋、荻窪の歯医者が次々に呼び出され、残された衣類、首に巻かれ花結びにしてある細紐(ほそひも)、金歯を見せられる。呼び出された人々のそれぞれの推理の中で、「それ」が生前の姿で闊歩(かっぽ)しだす。
新感覚派(※2)の文学運動をリードしてきた川端さん。本作品は、浅草の風俗を描いた小説『浅草紅団』で人気を博し、『雪国』発表に至る時期に執筆した作品群のなかの一作品。叙情と非情が交錯するストーリーからは、1968(昭和43)年にはノーベル文学賞受賞、世界中の人々を魅了し読み継がれる川端文学の原型が感じとれる。また、短期間ながら、杉並で暮らした川端さんならではの、武蔵野の荒涼とした情景描写が冴(さ)えわたる作品だ。
おすすめポイント
川端康成さんは27歳から28歳にかけて、1927(昭和2)年の約1年間を、杉並町馬橋(現杉並区高円寺南)で暮らした。サイレント映画「狂った一頁」の制作に関わり、第二作品集『伊豆の踊り子』を発刊直後のことで、生涯連れ添った秀子さんとの新生活もここで始まった。新感覚派の盟友、横光利一さんの結婚式出席のため上京。そのまま東京にとどまり新居を探し、湯ヶ島で同棲していた秀子さんを至急の手紙で呼び出した(※3)。横光さんや、同郷で同窓の大宅壮一さんも近所に住み(※4)、川端さんの馬橋生活は、文学仲間たちに囲まれ、講演旅行、新聞連載小説の執筆と、活気に満ちたものだった。杉並での川端さんの若き日々に、このような本作品を通して触れてみてはいかがだろうか。

※1 電信隊:軍隊の電報を打つ部署。現在の中野駅北口付近に陸軍の鉄道大隊、気球隊、電信隊の駐屯地があり、中央線の北側、高円寺あたりまでは演習地だった

※2 新感覚派:1924(大正13)年に発刊された同人誌『文藝時代』に集った同人たちが掲げた文学運動の総称。自然主義中心の既成の文学に対して、感覚的手法、感情性が強い文学を主張。主なメンバーに、横光利一、川端康成、中河与一、片岡鉄兵、今東光など。プロレタリア(労働者)主体の社会理想、文学理想を掲げたプロレタリア文学運動と並び、当時の文学運動の二大潮流だった

※3 「病気せず、元気なり。実は阿佐ヶ谷にある由にて、明日見に行く。大抵明日きまるべし。きまつたら直ぐ上京待つ。」 昭和二年五月六日附 東京驛前丸の内ホテル 川端康成より静岡縣伊豆湯ヶ島温泉湯本館秀子あて(川端康成全集補巻2 川端康成ー秀子・痲紗子往復書信より) 

※4 横光利一さんは杉並町阿佐ヶ谷(現杉並区阿佐谷北)に、大宅壮一さんは川端康成さんの家の隣に、同時期、暮らしていた。

DATA

  • 取材:井上直
  • 掲載日:2017年05月29日