江渡狄嶺さん 【後編】狄嶺と交流した著名人

一流の人物と幅広く交流

江渡狄嶺は、同時代の著名人たちと幅広く交流していた。江渡家に残された資料や文献を読むと、学者や文筆家などの知識人から政治家、芸術家、宗教家まで、各分野で一流の人々が、狄嶺を慕って続々と高井戸の農場「三蔦苑」を訪れていた事実に驚かされる(※1)。
これほど多くの人々を引き付けた狄嶺の魅力とは、何だったのか。例えば狄嶺の友人で、大正期を代表するジャーナリストの長谷川如是閑(はせがわにょぜかん、1875-1969)は、狄嶺の弟子が編纂した『場の研究』の序文で、狄嶺の風貌を「狄嶺とは、いが栗あたまで、無精髭(ひげ)を生やして、(しまいにそれは胡麻塩の頬髭になった)百姓のふだん着のような装をして、腰にタオルをぶら下げて、東北弁でものをいって」と紹介している。さらに人柄については、「よく人を訪ねて、相手によって、哲学、文学、宗教、芸術、法律、政治、道徳、風俗等々、人間社会のあらゆる方面に亘って、豊富に語ることができるくせに、そのような顔もしないで、人のいうことをノートに書きとめている人で、しかし志ある人たちを集めて、だれのことばでもない、純粋に自分のことばを語っている人である。」(※2)と述べている。これを読むと狄嶺の独特な風貌が目に浮かぶとともに、人々を引き付けた人柄やマルチな資質がよくわかる。

野良着姿の狄嶺。1939(昭和14)年、三蔦苑にて撮影(出典:『江渡狄嶺選集・下』、資料提供:江渡雪子さん)

野良着姿の狄嶺。1939(昭和14)年、三蔦苑にて撮影(出典:『江渡狄嶺選集・下』、資料提供:江渡雪子さん)

高村光太郎ら、三蔦苑を訪れた芸術家たち

狄嶺が芸術家たちと交流を深めたのは、1916(大正5)年頃からである。この頃、狄嶺は作家の水野葉舟(みずのようしゅう、1883-1947)と知り合う。そして、葉舟と親交のあった高村光太郎(詩人・彫刻家、1883-1956)や、柳敬助(洋画家、1881-1923)、高田博厚(たかたひろあつ、彫刻家、1900-1987)らも三蔦苑を足しげく訪れるようになった。葉舟は、狄嶺と同様に自分の娘を学校に通わせず家庭で教育していたため、光太郎が葉舟の娘・實子(みつこ)と狄嶺の娘・不二に絵を教えるなど家族ぐるみの交際をしていた。なお、書道は中村不折(なかむらふせつ、書家・洋画家、1866-1943)が教えていたという。他に、津田青楓(つだせいふう、画家、1880-1978)、富本憲吉(とみもとけんきち、陶芸家、1886-1963)が三蔦苑を訪れている。

高村光太郎が設計した可愛御堂

高村光太郎が設計した可愛御堂

高村光太郎
狄嶺と光太郎が、高井戸で親しく交流していた事実は、これまで全くと言っていいほど知られていなかった。だが、1921(大正10)年には、三蔦苑の敷地内に光太郎が設計した「可愛御堂(かわいみどう)」が建てられ、1959(昭和34)年の伊勢湾台風で壊れるまで存在していたことがわかった。また、1924(大正13)年頃、高村家で食べていた「たくあん漬け」は全て三蔦苑で作っていたという。江渡家と光太郎の親交は長く続き、1944(昭和19)年に狄嶺が急逝したときに光太郎から狄嶺の二男・復(ふく)にあてた弔意を示す手紙が今でも保管されている。「殊に小生肖像作成のお約束も未だ果たさぬうちの事とて悲痛極まりなき思がいた志ます」(原文ママ)という文面からは、二人の深い友情がうかがえる。1960(昭和35)年、江渡家は、戦時中に預かっていた光太郎の彫刻作品「老人の首」を東京国立博物館へ寄贈した(※3)。
なお光太郎に師事した高田博厚が狄嶺をモデルに制作した「或る百姓の顔」という作品の写真が、狄嶺の著書『或る百姓の家』に口絵として掲載されている。

狄嶺が急逝したとき、高村光太郎から届いた弔意を示す手紙(資料提供:江渡雪子さん)

狄嶺が急逝したとき、高村光太郎から届いた弔意を示す手紙(資料提供:江渡雪子さん)

高田博厚が狄嶺をモデルに制作した「或る百姓の顔」(出典:『或る百姓の家』、資料提供:江渡雪子さん)

高田博厚が狄嶺をモデルに制作した「或る百姓の顔」(出典:『或る百姓の家』、資料提供:江渡雪子さん)

中里介山、山村暮鳥ら文学者たちとの交流

文学者たちとの交流の記録も、多数残されている。狄嶺が帰農したときに世話になった徳冨蘆花(とくとみろか、小説家、1868-1927)、大正期に高井戸に住んでいた尾崎喜八(おざききはち、詩人、1892-1974)、ダンテの文語訳で知られる山川丙三郎(やまかわへいざぶろう、イタリア文学者、1876-1947)、日本にペルシャの古詩「ルバイヤート」を紹介した堀井梁歩(ほりいりょうほ、1887-1938)らと親交があった。また、同時代のトルストイ信奉者として知られる武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ、1885-1976)とは、立場の違いを踏まえて一定の交流があった。

中里介山
長編時代小説『大菩薩峠』で知られる小説家の中里介山(なかざとかいざん、1885-1944)は、狄嶺の特に親しい友人だった。、狄嶺は牛欄寮(ぎゅうらんりょう)を開設する際に介山に資金援助を頼み、快諾を得ている(※4)。1915(大正4)年に介山が初めて三蔦苑を訪ねた時の様子を書いた「江渡さんへ」というタイトルの訪問記を読むと、「江渡さん、あなたの農場はすべて私の気に入りました」(原文ママ)と言い切り、狄嶺の人柄にほれ込む様子がざっくばらんに書かれている。以来、二人は生涯にわたって変わらぬ交遊を続けた。江渡家の狄嶺文庫には、介山が狄嶺に宛てた2通のはがきが残されている。

中里介山が狄嶺に宛てた2通のはがき(資料提供:江渡雪子さん)

中里介山が狄嶺に宛てた2通のはがき(資料提供:江渡雪子さん)

山村暮鳥
狄嶺は詩人の山村暮鳥(やまむらぼちょう、1884-1924)とも交流があった。暮鳥といえば詩集『雲』(※5)が有名だが、この詩集を書いたのと同じ時期、狄嶺の著書『土と心とを耕しつつ』に、長編詩『燦爛(さんらん)たるもの』を寄稿している。暮鳥は詩に添えて「江渡さんの所願もまた、かうであらうと自分はおもふ」と前置きしつつ、頭上にまたたく無数の星に黄金の穀粒をイメージしながら「ひとびとよ/自分達は農夫として/ただ蒔きさえすればよいのではないか」「ただまけ/星のような種子である/そしてそれをまくところは/かうして天空のやうなうつくしい豊饒(ゆたか)な大地の上である」とうたっている。「ただまく」と繰り返す表現に、狄嶺の思想に対する暮鳥の理解を感じる詩だ。この詩が寄稿された後、狄嶺は病床にあった暮鳥を見舞っている。

暮鳥が詩を寄稿した『土と心とを耕しつつ』。後に狄嶺は、暮鳥の詩集『雲』について「真に日本の土から生まれた詩」と評価している(資料提供:江渡雪子さん)

暮鳥が詩を寄稿した『土と心とを耕しつつ』。後に狄嶺は、暮鳥の詩集『雲』について「真に日本の土から生まれた詩」と評価している(資料提供:江渡雪子さん)

社会運動家たちとの接点

狄嶺は、学生時代に三宅雪嶺(みやけせつれい、1860-1945)が主宰する政治評論雑誌「日本人」に寄稿し、さかんに言論活動を行っていた。狄嶺自身は、社会主義思想とは一線を画していたが、同じく「日本人」に寄稿していた社会主義者や無政府主義者たちと交流があった。1908(明治41)年、散歩中に偶然幸徳秋水(こうとくしゅうすい、社会主義者、1871-1911)と出会い、秋水の自宅で議論を交わしたという狄嶺本人の記録が残っている。
また、千歳村船橋(現・世田谷区)で帰農した1911(明治44)年に、堺利彦(社会主義者、1871-1933)が設立した売文社の忘年会に参加。その夜、無政府主義者の石川三四郎(1876-1956)、渡辺政太郎(1873-1918)を自分の農場に招いてクリスマスを祝った。1917(大正6)年には同じく無政府主義者の大杉栄(1885-1923)、伊藤野枝(1895-1923)夫妻が三蔦苑を訪れている。女性運動家とも交流があり、山川菊栄(1890-1980)が三蔦苑のリポートを新聞に寄稿しているほか、山田わか(1879-1957)が牛欄寮で特別講義を行っている。
また、農村教育運動に参加していた大西伍一(※6)や下中弥三郎(平凡社の創業社長、1878-1961)など、農業関連の活動家とも交流があった。

1911(明治44)年12月24日、売文社の忘年会にて、大杉栄、堺利彦、渡辺政太郎らとともに。後列右から2人目が狄嶺(写真提供:江渡雪子さん)

1911(明治44)年12月24日、売文社の忘年会にて、大杉栄、堺利彦、渡辺政太郎らとともに。後列右から2人目が狄嶺(写真提供:江渡雪子さん)

狄嶺が師と仰いだ禅の高僧と牧師

多くの人と交流していた狄嶺だが、師と仰いだのはいずれも高名な宗教者だった。大学在学中は臨済宗の高僧、渡辺南隠(わたなべなんいん、1834-1904)の下で参禅し、その後キリスト教思想家の新井奥邃(※7)に師事している。1907(明治40)年には牧師の吉田清太郎(1863-1950)と出会い、翌年、洗礼を受けた。吉田牧師は、キリスト教と禅の同一の境地を知ったとして「禅者牧師」と呼ばれた人物で、その後、狄嶺は生涯を通じて吉田牧師を師と仰ぎ、家族全員が教えを受けた。吉田牧師の残した資料の多くは、狄嶺文庫に保管されている。なお狄嶺の没後、江渡家は老齢で体が不自由になった吉田牧師を引き取って世話をし、最期を見取った。

吉田清太郎牧師と狄嶺(出典:『地涌のすがた』、資料提供:江渡雪子さん)

吉田清太郎牧師と狄嶺(出典:『地涌のすがた』、資料提供:江渡雪子さん)

また、1923(大正12)年に曹洞宗(そうとうしゅう)の高僧、澤木興道(さわきこうどう、1880-1965)と知り合い、後半生は禅宗と農哲学を重ね合わせて思索を深めた。澤木老師は各地の禅道場を転々としながら、上京の折に三蔦苑を訪問していたが、1935(昭和10)年に駒澤大学の特任教授に就任してからは度々訪れるようになった。牛欄寮の特別講義で講師を務めたほか、狄嶺の没後も1955(昭和30)年頃まで三蔦苑で講話を続けた。江渡家には、現在も澤木老師の書いた短冊や書が多数残されている。なお、澤木老師の高弟で駒澤大学教授の酒井得元老師(1912-1996)は随行して三蔦苑を訪れた一人で、1978(昭和53)年、狄嶺文庫に銅銘版を設置した際に銘文を書いている。

澤木興道(左)と酒井得元。三蔦苑で撮影(写真提供:江渡雪子さん)

澤木興道(左)と酒井得元。三蔦苑で撮影(写真提供:江渡雪子さん)

澤木興道が狄嶺に贈った、直筆入りの袈裟(けさ)

澤木興道が狄嶺に贈った、直筆入りの袈裟(けさ)

※記事内、故人は敬称略
※1 1935(昭和10)年から1942(昭和17)年にかけて狄嶺が三蔦苑に開設していた私塾・牛欄寮の特別講義では、長谷川如是閑の他、狄嶺と交流のあった以下の知識人らが講師を務めている。安倍能成(哲学者・後の文部大臣、1883-1966)、浮田和民(政治学者、1859-1946)、木村謹治(ドイツ文学者、1889-1948)、暉峻義等(労働生理学者・労働科学の創設者、1889-1966)、三浦一雄(政治家・のちの農林大臣、1895-1963)、石黒忠篤(政治家・のちの農商務大臣、1884-1960)、森田重次郎(政治家、1890-1988)
※2 出典:『場の研究』序文「狄嶺の語る言葉」
※3 老人の首:1914(大正3)年の作品。東京国立博物館公式ホームページ上で画像が見られる http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0032618
※4 出典:「江渡狄嶺研究 第20号」
※5 『雲』:暮鳥の没後、1925(大正14)年に出版された詩集。「おうい雲よ」の一節で知られる「雲」や小学校教科書に掲載された「りんご」などの詩を収録
※6 大西伍一:1898-1992。兵庫県出身。民俗研究者。1926(昭和元)年から高井戸在住。狄嶺のほか、民俗学者の柳田国男や、昭和初期に農村教育運動で一緒に活動した平凡社社長の下中弥三郎らと親交があった。昭和40年代に狄嶺文庫の資料整理に尽力。杉並区の文化財調査協力員として数々の業績を残す
※7 新井奥邃(あらいおうすい):1846-1922。教派に属さず、独自の境地で活動したキリスト教思想家。高村光太郎や柳敬助にも影響を与えた

DATA

  • 出典・参考文献:

    『或る百姓の家』江渡狄嶺(總文館)
    『土と心とを耕しつつ』江渡狄嶺(叢文閣)
    『場の研究』江渡狄嶺著・山川時郎編(平凡社)
    『江渡狄嶺選集(上・下)』江渡狄嶺(家の光協会)
    「江渡狄嶺研究 第1号~第28号」(狄嶺会)
    『江渡狄嶺書誌』大西伍一編(狄嶺会)
    『ミキの記録』大西伍一編(三蔦苑)
    『新版 日本の思想家 下』朝日ジャーナル編集部(朝日新聞社)
    『続 春汀、狄嶺をめぐる人々』鳥谷部陽之助(北の街社)
    『江渡狄嶺 目で見るその生涯』狄嶺会五戸支部(三土社出版部)
    『日本思想の可能性―いま…近代の遺産を読みなおす』鈴木正、山嶺健二編(五月書房)
    『江渡狄嶺― 場の思想家』和田耕作(甲陽書房)
    『現代に生きる江渡狄嶺の思想』斎藤知正、中島常雄、木村博編(農文協)
    『新修 杉並区史 中・下』(東京都杉並区役所)
    『文化財シリーズ39 高井戸雑話― 昭和の農民史』(杉並区教育委員会)
    『音楽への愛と感謝』尾崎喜八(平凡社ライブラリー)
    『場の教育― 土地に根ざす学びの水脈』岩崎正弥、高野孝子(農文協)
    『ポリティコン 上・下』桐野夏生(文藝春秋)
    『農本主義のすすめ』宇根豊(ちくま新書)
    「日本読書新聞」昭和45年8月17日付掲載記事「江渡狄嶺 農業こそ原初的な聖業」大西伍一
    取材協力:江渡雪子さん、江渡まち子さん、大西路男さん

  • 取材:内藤じゅん
  • 撮影:写影堂、TFF
    写真提供:江渡雪子さん
  • 掲載日:2017年02月13日
  • 情報更新日:2023年08月20日