天皇行幸時の休息所
-明治天皇荻窪御小休所(おんしょうきゅうしょ)

明治天皇が休息をとった荻窪の旧家

荻窪駅南口から東へ徒歩約3分、住宅街に17階建ての藤澤(ふじさわ)ビルがひときわ目立つ。この建物の敷地の南側入り口に、格式ある門と、「明治天皇荻窪御小休所」と刻まれた石碑が残っている。かつてこの場所に、明治天皇が行幸(※)時に休息所として利用されていた建物があったことの証である。
東京新聞(昭和39年3月11日)によると、天皇が利用したのは、明治時代以前からこの地域の名主を務めていた中田家の屋敷内の建物だった。この頃の様子について、五十嵐(旧姓真中田)正子さんは『杉並区広報』(昭和46年7月20日号)で次のように語っている。「父の話によると、長屋門の入口からご休息の離れまで(約50m)朱の毛せんを敷きつめ、その上を天皇様がお通りになるのを有難く拝顔したそうです。」(原文ママ)
また、当時の当主、中田村右衛門氏の縁戚にあたり、荻窪の地を良く知る方にうかがったところ、 1946(昭和21)年春、中田村右衛門氏は家屋敷を藤澤乙安氏に譲渡。1987(昭和62)年、同地にアメリカン・エキスプレスなどがオフィスを構える高層ビルが建てられた。現在の御小休所と長屋門は、この建築の際にビルの南側に移築復元されたものだそうだ。

※行幸:天皇が出かけること

明治天皇が利用された御小休所。茶屋風の茅葺(かやぶき)屋根で、非常に簡素な造りだったと伝えられる(出典:『躍進の杉並』)

明治天皇が利用された御小休所。茶屋風の茅葺(かやぶき)屋根で、非常に簡素な造りだったと伝えられる(出典:『躍進の杉並』)

激動の生涯を送った明治天皇

明治天皇は各地へ精力的に行幸したことで知られる。明治神宮崇敬会によれば、これは「天皇を中心とする新しい時代の到来を国民に知らせるため、また立憲君主としての修学を目的として」のことだった。1883(明治16)年4月に荻窪小休所へ立ち寄られたのも、行幸の一環であった。

明治天皇(1852年9月22日誕生)は、日本の第122代天皇である。父、孝明天皇の崩御により、1867年1月、16歳(数え年)で京都で皇位についた。同年12月、討幕派の主導で王政復古の大号令が発せられて新政府が成立。明治改元と合わせ、東京遷都、地方巡幸など、従来の天皇制を刷新する取り組みがされた。1889(明治22)年には大日本帝国憲法を公布し、皇室典範を制定。翌年には、憲法の施行、帝国議会の開設、教育勅語発布など、天皇を中心とする中央集権体制の確立が進められた。1912(明治45)年7月30日、持病の糖尿病が悪化し崩御。

明治天皇(写真提供:宮内庁)

明治天皇(写真提供:宮内庁)

簡素ながら風格に満ちた史跡

現在、荻窪御小休所は公開されておらず内部を見ることはできない。
『杉並区史探訪』によれば、荻窪御小休所の面積は11.75坪。当時の屋根は茅葺(かやぶき)だったことが明らかであり、間取りは6畳2間に廻(まわ)り廊下と床の間と押し入れとなっていた。屋根を除くすべてに杉材が使用されているが、飾り金具一つない質素な様子に、著者の森秦樹氏は「ここに明治天皇や皇后様が、本当にご休憩になられたのかと疑う位でした」(原文ママ)と感想を残している。
また、前記東京新聞には、この御小休所に中田村右衛門氏は明治天皇の立像を飾り、天皇が小金井の桜について詠んだ御歌の軸を掛けるなど、天皇への深い敬慕を示していたと記されている。
この新聞記事及び『躍進の杉並』の記述によると、1925(大正14)年3月、東京府(※)は同邸前に史跡の標識を建て、さらに1934(昭和9)年11月には文部大臣が史跡名勝天然記念物保存法により「明治天皇御小休所」として史跡に指定した。

※東京府:1868(明治元)年から1943(昭和18)年まで存在していた日本の府県の一つ。現在の東京都の前身に当たる

御小休所平面図。明治以前の建物で、間口4間、奥行3間のシンプルな構造だった(出典:『杉並区史探訪』)

御小休所平面図。明治以前の建物で、間口4間、奥行3間のシンプルな構造だった(出典:『杉並区史探訪』)

江戸時代にさかのぼる、長屋門建造のいわれ

各資料および古地図『東京近傍図』によると、江戸時代、この場所のすぐ北の道路は青梅街道の旧道であり、街道沿いには一帯の名主を務める中田家が屋敷を構えていた。当時、杉並付近には善福寺池を中心として野鳥が多く、鷹狩(たかがり)の地であり、中田家は、第11代将軍徳川家斉(いえなり)が寛政年間(1789-1801)に鷹狩で度々訪れた際、休憩に立ち寄る場所だったと伝えられる。その折、地域の名家といえども農家に将軍が立ち寄るのでは威光に関わると、将軍家が中田家に命じ、特別に武家長屋門を造らせたとのこと。『杉並区史探訪』には、前記、藤澤乙安氏の家族が中田氏から伝え聞いた話と前置きした上で、「このようないわれから明治天皇行幸の際も御小休所として指定されたのではないでしょうか。」と語ったことが記されている。

移築復元された長屋門。現在、門の裏はビルのガレージとして使用されている

移築復元された長屋門。現在、門の裏はビルのガレージとして使用されている

史跡を代々大切に守り継いだ関係者たち

『明治天皇行幸年表』および前記東京新聞によれば、荻窪で明治天皇が休息されたのは、1883(明治16)年4月16日に埼玉県飯能の近衛師団演習統監に向かわれる途中。小1時間ほど中田秀吉(村右衛門)邸で休息された後、名馬「金華山」に乗り換え、飯能に向かわれた。また1週間後の同年4月23日には、小金井の観桜会へ向かわれる途中で同邸に立ち寄られた。この2回の行幸に際して金計七拾円が下賜(かし)され、感激した村右衛門氏は小金井の桜を買い、青梅街道経由で荻窪の邸に荷馬車で運んだという。以降、明治天皇が崩御する1912(明治45)年まで、侍従らにより毎年行われた小金井観桜遠乗会の折にも、必ずこの御小休所が利用された。
戦後、村右衛門氏は藤澤乙安氏へ同敷地を譲渡し三鷹市に移ったが、その際、長屋門と御小休所をこのまま残してほしいと涙を流さんばかりに依頼したという。藤澤氏はこの約束を守り、太平洋戦争後に文部省史跡指定が解除され、石碑取り壊しを命じられても応じず、長屋門と御小休所についても原状の保持に努めた。
その結果、ビル建設に伴い移築されたとはいえ、全体として今もなお昔の御小休所の姿をとどめており、その重厚感は当時を彷彿(ほうふつ)とさせるものである。

江戸時代に長屋門の建造を許されたのは、多くの場合、上級武士だった

江戸時代に長屋門の建造を許されたのは、多くの場合、上級武士だった

移築後、現在残っている御小休所の建物。内部は公開されていない

移築後、現在残っている御小休所の建物。内部は公開されていない

1964(昭和39)年当時の御小休所。手前は、中田村右衛門氏が小金井から運んだ桜(出典:東京新聞)

1964(昭和39)年当時の御小休所。手前は、中田村右衛門氏が小金井から運んだ桜(出典:東京新聞)

DATA

  • 住所:杉並区荻窪4-30
  • 出典・参考文献:

    『杉並区史探訪』森秦樹著
    『躍進の杉並』南雲武門編
    『東京新聞』(昭和39年3月11日)
    『杉並区広報』(昭和46年7月20日号)
    『明治天皇行幸年表』明治天皇聖跡保存会編
    『東京の歴史名所を歩く地図』ロム・インターナショナル(河出書房新社)
    『東京近傍図』(古地図史料出版株式会社)
    『明治天皇聖跡』(HPより)明治神宮崇敬会

  • 取材:山中悠
  • 撮影:山中悠
    写真提供:宮内庁 
  • 掲載日:2017年06月05日