山中武子さん

癌を乗り越えて、天命を知った

私は被爆したことを忘れたい、なかったことにしたいとばかり思って過ごしていました。被爆した14歳の夏以来ずっとそう思い、広島からも離れて過ごしてきました。結婚して子どもができて娘が結婚しても、今のように杉並光友会で積極的に活動するということとは縁遠い、あえて避けるような生活を送っていました。
そんな私が変わったというか、今のようにさまざまなところで被爆体験を語り、杉並光友会のみんなとともに積極的に活動するようになったのは4、5年前に大腸癌と肝臓癌を患ったことがきっかけです。癌を宣告されたときは、「あの時(被爆)で一度死んだんだ、それから数十年生きて来れたからもう十分」と死を覚悟していました。死を恐れることはありませんでした。それは原爆で家族や親戚、知人や友達などの仲間を数多く失い、死ぬことが珍しいことではなかったからだと思います。
2度の手術により治ったのですが、「あ、私死なないんだ、生きているんだ」と思いました。畏れ多いことですが「お前はまだ死ぬんじゃない」と言われているような気がしたのです。生きて何かをしなければと思い、「そうだ、私は被爆者として、もう2度と人類がバカなことをしないために、私の経験を話そう、杉並光友会で活動しよう」、そう思いました。

山中武子さん

山中武子さん

白い光とオレンジの閃光

昭和20年、戦況が厳しさを増すなか、女学校(現在の中学校にあたる)では学徒動員が始まり、市内中心部から2kmのところにある三菱重工業分室へ派遣されました。150人の同級生が3班に分かれ、私は事務員として働いていました。
8月6日のことはしっかりと覚えています。快晴の朝でした。朝礼が終わってすぐのことです。写真屋さんのマグネシウムのフラッシュのように部屋一面が真っ白に光ったのです。壁時計の針が15分を指していたことだけを覚えています。「あれっ」と思い、窓の方を見るとオレンジの閃光がバアーと広がり、こっちにものすごい風が向かってきた。ドーーーンという爆音とともに。「あっ大変」と机の下に潜ろうとしましたら建物が壊れてきて下敷きになったように思います。私はしばらくの間失神していました。そのときの記憶はところどころしかないのです。

みんなの後ろをついて小学校へ

意識がもうろうとし、何度か気を取り戻すがすぐにまた失神してしまう。そんなことを何度か繰り返しました。遠くから「返事しろー」という声が聞こえたような気のせいのような、でも私は声が出ません。また意識が遠のきました。また意識を取り戻すとトントントンと探しているような音が聞こえました。そういった音を何度か聞いたあと、ようやく私は気を取り戻しました。「誰かいるか」の声に「助けてください。ここにいます」と返事をしました。「大丈夫だからな」と返事をもらいましたが身体が動きません。「あれ? どうしたんだろ」と自分では訳がわからなかったのですが、救助の兵隊さんが助け出してくれました。窓ガラスの破片が背中に突き刺さり、柱の釘も刺さっていたので動けなかったそうです。自分ではケガしていることにも気付かず、痛みも感じていませんでした。
「もう大丈夫だからみんなといっしょに逃げなさい」と兵隊さんに言われました。先に助け出されていたクラスメートが2人いました。もっとたくさんいるはずですが、会えたのは2人だけでした。私たち3人はみんなについていくことにしました。時刻はわかりませんが暗かったです。爆音もしていました。そして粘っこい大粒の雨が降り始めました。バケツをひっくり返したような土砂降りでした。でも街全体は炎に包まれて、火は消えませんでした。
あの光景、今でいえばホラー映画でしょうか、廃墟の中を炎に追われるように、着るものも焼けてぼろぼろで裸足で。人間の肌って焼けただれるとびろーんと伸びるんです。みんな両手をだらりと前に伸ばしてゾンビのように逃げていました。友達の1人とはそこではぐれました。私の後ろを歩いていた友達が「武ちゃん、背中にガラスが刺さっているよ」と抜いてくれました。血糊が固まってガラスがなかなか抜けませんでした。

前を女の人が歩いていました。女の人は赤ん坊を抱いていました。女の人はふらふらとみんなの逃げる列から離れていき、よろけて倒れました。私たちが振り返ると女の人は空(くう)をにらむ鬼のようにかっと目を開き、赤ん坊を抱いたまま死んでいきました。赤ん坊はそのずっと前に死んでいたようでした。女の人は死んだ赤ん坊を抱いて、みんなといっしょに逃げていたのです。

逃げる先は近くの小学校でした。私たちもその小学校の校門近くの中庭で休みました。校舎の中にはとても入れません。運動場にも行けませんでした、避難した人が多すぎて。それでも小学校へ避難した私たちは運が良かったのだと思います。市内にとどまり、防空壕にいた人たちは、焼け死んだと思います。今でも、あの時のみんなはどうしたんだろうと頭をよぎります。

いっしょに逃げた友達との別れ

夕方近くになって、私たちは家に帰ることにしました。友達は市内の子だったので「家においでよ」と言いましたが「何かあったときは父と約束している場所があるから」と彼女は市内の自分の家に戻りました。彼女とはその小学校を出て、己斐(こい)橋で別れました。
私の家は山手川ぞいにありました。私は山手川のほとりを歩いて家に帰っていきました。
当時の広島は大本営もあるような軍都で、兵隊さんも軍馬も多かったのです。その軍馬と人の死体が道と山手川に溢れていました。山手川の向こう岸が見えるのですが、土手も川も人と馬の死体で溢れていて、水面は見えませんでした。道も同じでした。死んだ人と死にかけた人でいっぱいでした。あとは爆風で飛んできたがれきや建物の残骸が至る所に散らばっていました。私はその死体をよけながら家に向かって帰って行きました。
その友達とはそこで別れたっきり再会するのは、57年後の2002年のことでした。彼女も私と同じように「忘れたい、忘れよう」と思い、訪ねていけば会えるだろうけれど、お互いに避けていたのだと思います。

しゃべれない男の子

家に帰ると、納屋は原爆の熱線で焼けていました。母屋は爆風により壊れていました。私の家には広い庭があり、戦時中でもありましたので万が一の時用に作っていた横穴式の防空壕の中に母と祖母がいました。
母はお腹以外の全身を火傷していました。祖母はひどい打撲でした。私を見ても母は何も言いませんでした。「お帰り、大丈夫だった」の一言もありませんでした。私も無言でした。私にはそのとき人間の感情を失っていたんだと思います
当時小学校6年生の弟もいました。弟は朝礼で原爆にあったそうです。校長先生のお話を聞いているときだったそうです。校長先生が爆風で飛ばされたのを覚えているそうです。そして自分も吹き飛ばされ、何が何だかわからないうちに、熱戦で焼かれた身体で帰宅したそうです。家路を歩いているときに、7、8歳くらいの男の子がついてきたそうです。そしてそのまま家に入ってきたそうです。防空壕の中には、母と祖母と弟とその男の子の4人が何も言わずじっとしていました。その男の子の名前はわかりません、口がきけないのです。口からつばのような、でももっとドローとした液体を垂らしていました。身体はもちろん、多分口の中も火傷していたと思います。
翌日の8月7日のことです。口がきけないけれども、きっと水が飲みたいに違いないと思ったのでしょう。母が目で私に「男の子に水を飲ませてあげなさい」と合図しました。私は、木の葉で水をすくって飲ませてあげました。男の子はお礼も言えず何も言えず、ただ口を開けていました。そのときはじめて男の子と目が合いました。男の子は私をじっと見ながら、やがてまぶたが腫れまくって細くなった目を閉じました。この両手でしっかりと抱いた瞬間、男の子は死んでいきました。
前日の被爆以来、感情を忘れていましたが、この時だけ、この男の子の短い命と最後に私を見たのはどんな気持ちだったんだろうか、お母さんと間違えたのだろうか、などという気持ちが出てきて、被爆以来初めて涙が流れました。被爆当時の数日間で人間の気持ちを持ったのは、この男の子が私を見ながら死んでいったときだけでした。ほかは何の感情も持たず、母や祖母や弟の世話をしたりしていましたが、まるで機械のように動いていました。

姉を捜しに行く
家の庭にも死体が7、8体ありました。それまでかわいがられていた私は、重いものなど持ったことがなかったのですが、人の死体を抱えて近くの遺体焼き場に持っていきました。何の感情も持たずに人の死体を抱えて遺体焼き場に持っていきました。
そのあと母に「姉を捜してきてほしい」と頼まれました。姉は学校を卒業して、市内に勤めていました。自分の昨日(8月6日)の記憶から、被爆時には姉はきっと路面電車に乗っていたはずと推測し、市内に止まっていた電車をみんな見て回りました。当時の電車の運転手さんはみんな女の人でした。私はそこで運転席のハンドルを持ったまま黒こげになった運転手さんを見ました。座席に座ったままの黒こげの人(男女の区別もつきません)も見ました。そのときの私は人間の感情も尊厳も失って、「姉を捜す」という気持ちだけで行動していました。姉かどうかを識別するだけで、何人も何十人もの死体を見て歩きました。夕方になるまで一日中捜しました。あちこちで人を焼く臭いが立ちこめていました。そんな中を倒れいている人や死体を見て回りました。翌朝になるとまたその繰り返しです。市内中心部に出かけては、いたるところに倒れている人や死体を確認し、姉を捜しました。結局姉は見つかりませんでした。だから8月6日が姉の命日です。
私には3つ違いの兄がいました。兄は旧制中学に通っていましたが志願して兵隊になっていまして終戦の2日後くらいに帰ってきました。兄が帰ってきたのはとても心強かったです。

髪が抜けた
被爆してひと月後くらいでしょうか、9月のことでした。ある日髪をすくと、ごそっと髪が抜けました。その頃、下痢・斑点が出る・歯茎から血が出るとみんな死んでいっているという事を人から聞いて知っていました。抜けた髪を見て私は「あ、死ぬんだ」と思いました。私は10月が来ると15歳になるのでしたが、もう死ぬんだと思っていました。不思議に恐怖はありませんでした。被爆直後に何人も何十人も何百人も死んでいったのを見ていたので、今度は自分の番が来たのだ、と言う気持ちでした。
その頃の私はとても学校へ行く状態ではなく、ずっと家で家族や近所の人の世話をしていました。途切れていた連絡網がいつ復活したのかよく覚えていませんが、9月中旬に女学校の焼け跡に集まるようにとの連絡が私のところに来ました。まだ市電は復旧しておりませんから、歩いて女学校に行きました。私は抜けた髪を隠すために風呂敷を頭に巻いて行きました。こんな頭で行きたくないと思いつつ校門をくぐりました。すると私と同じように風呂敷を頭に巻いている人が何人もいました。「あー私だけじゃないんだ」と安心したのを覚えています。同病相憐れむではありませんが、不思議と安心しました。学校が再開したのは2月に入ってからでした。安浦海軍兵舎跡地に仮校舎が建ちましたが、私はとても通学できる状態ではありませんでした。

核兵器だけは何とかやめてほしい
私には娘がいます。今もそうですが、娘が咳をしたら、私のせい(原爆症)ではないか、体調を崩しても、私のせいじゃないだろうかとおびえていました。
広島には辛い思い出しかありません。いやな思い出しかありません。里帰りしてもお墓参りをするだけで、半日もいると早く広島から離れたいという気持ちになります。自分の故郷をそんな風に思わせたのは原爆だと思います。
私は戦争を肯定できません、戦争がないことを願っています。でも戦争が簡単になくならないことはわかっています。昔からずっと常に世界中のどこかで常に戦争が起こっていることも知っています。でも核兵器だけは何とかやめてほしいと思いますし、使ってはいけないんです。あの原子爆弾のような、一瞬に何万人も死ぬような、そして生き延びた人にその何万人も死んでいく、あの地獄を見せつけるような、核兵器だけは何とかやめてほしい。それだけは何とか考えてほしい。核兵器のテストもやめてほしいです。ニュースで核兵器実験のことが流れるたびに私は悲しくもあり恐ろしくもあります。怒りも覚えます。

地球を滅ぼす核兵器は作らないで、持っている核兵器は絶対に廃絶してください。苦しみ続ける被爆者から、切に切にお願いします。

DATA

  • 取材:野見山 肇
  • 撮影:NPO法人チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2009年08月18日