番傘

蛇の目傘・番傘

「雨、雨、ふれふれ母さんが、蛇の目でお迎えうれしいな。ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらんらんらん」という歌※を知っていますか?大正から昭和10年代生まれの方なら、この歌の通り、お母さんに蛇の目傘で学校までお迎えに来てもらって、うれしかった経験があるのではないでしょうか。あるいは、自分だけお迎えが来なくて、悲しい思いをした方もいらっしゃるかもしれません。
そのあとの世代になると、蛇の目傘は使ったことがないけど歌だけは知っている人、そんな歌があったことさえ知らない子どもたちもいることでしょう。
戦後の豊かでなかった時代に、家族が傘を通じて、どのように触れ合っていたかを、杉並区在住で昭和13年生まれの主婦・上妻絢子(こうづまあやこ)さんに聞きました。

※作詞:北原白秋 作曲:中山晋平の「アメフリ」という名の童謡の一節です。

小学校まで迎えにきてくれた母

わたし(語り手:上妻絢子さん)は、昭和39年に結婚し以来、杉並に住んでいますが、生まれは麹町です。戦中でしたので栃木県西那須に疎開し、小学校1年にあがるときに終戦を迎えました。その後は埼玉県大宮市で育ちました。
当時は、食べるものがなくて、ひもじい思いをしました。お米がなくて、学校にお弁当に持っていけませんでした。それで、わたしも含めて、学級の半分くらいの子どもは「食べ行ってきま~す」と言って、一度家に帰り、おじやをすすりました。水かぼちゃや「のうりん1号」というイモが入ったグズグズのおじやで、涙が出るほどまずかったですよ。でも母親が作ってくれたお昼ですから、我慢して食べましたね。
小学校の頃の思い出として、今でも心に残っているのは、お母さんが雨の日に学校までお迎えにきてくれたことです。
昇降口のところに、傘を持ったお母さんたちがずらっと迎えにきていて、自分のお母さんの顔を見つけると、うれしかった。
けれど、ふとまわりを見渡すと、お迎えに来てもらえなかった友達もいるわけです。かわいそうで、そっと自分の傘に入れてあげたこともありました。
そのころの傘は、番傘(写真左上)といって、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる「傘化け」のような傘でした。竹の骨に油紙が張ってある粗末なもので、とくに子どもの傘は、兄弟で使いまわすので、たいてい破れ傘でした。
傘を回すと、破れ目が目立たないので、傘をくるくる回して、水滴を飛ばしながら、差したものでした。

番傘のほかに、蛇の目傘と呼ばれる傘もありました。構造は番傘と同じですが、蛇の目模様になるように色紙が張ってある傘のことをいいました。

蛇の目傘(昭和の頃のもの) 杉並区立郷土博物館 所蔵

蛇の目傘(昭和の頃のもの) 杉並区立郷土博物館 所蔵

駅舎の外まで人があふれていた

高学年になると、父を駅まで迎えにいったこともありました。夕方、雨が降り出すと、父の大きな蝙蝠傘とゴム長を胸に抱いて出かけました。雷がなって、怖かったこともありましたが、お母さんが学校まで迎えにきてくれた嬉しさが心にしっかり植え付けられていたので、嫌だと思ったことはありませんでした。
大宮駅にたどりつくと、お迎えの人が大勢、駅舎の外まで扇状にあふれて待っていました。電車が到着し、改札から出てきた人波のなかから父を見つけて、傘を渡しました。父は無口だったので、「ありがとう」ともいいませんでしたが、わたしは、父に傘を渡せただけで満足でした。
思えば、こういうお迎えを皆がしてきたのも、どこのお父さんも時間通りに毎日きちっと帰ってきたからこそでしょう。家に電話がない時代ですから、帰る電車の便が決まっていなければ、お迎えに行くこともできません。そんな変わりのない普通の暮らしを、毎日積み重ねて、それが幸せだったんだなあと思います。

写真協力:杉並第二小学校(郷土学習室)

写真協力:杉並第二小学校(郷土学習室)

新素材で傘も変化

戦後、新しい素材が次々に使われるようになり、傘も変わりました。蛇の目傘や番傘といった和傘は姿を消し、蝙蝠傘が主流になりました。黒い木綿の傘で、コウモリに似ていることから、そう呼ばれていました。一部のお金持ちは、戦前から持っていましたが、庶民が蝙蝠傘を使うようになったのは、戦後しばらくたってからのことです。また、粋な人は絹の傘をさしていたようでした。
今のようなナイロン素材の傘が主流になったのは、それより後です。ちなみに、わたしが高校生だった昭和30年頃は、女子学生はたいてい木綿のストッキングをはいていました。おしゃれな子が、たまにナイロンストッキングをはいてきて、冷やかされていましたから、傘もそのころナイロンに変わったのかもしれません。

ナイロン傘

ナイロン傘

「家族の傘」から「自分の傘」へ

その後、お勤め時代に知り合った主人と結婚し、子どもは、みんな杉並の小学校にお世話になりました。
末の子が小学生のとき、雨がふってきたので、昔を思い出し、張り切って学校に迎えに行ったことがありました。ところが、昇降口にほんの数人の母親しか迎えにきておらず、かえって、恥ずかしい思いをしたので、その日を境に、雨の日に学校にお迎えに行くのは、やめました。
それからは、子どもたちに「折り畳み傘を持っていかなかった自分がいけないんだから、濡れて帰ってらっしゃい」とか、「朝、傘を持っていくかどうかは、自分で判断しなさい」などと言うようになりました。
時代の風潮が「子どもであっても、個人としての責任感を持つように躾をしなければいけない」というふうに変わってきたことも影響していたと思います。
物が豊かになって、よくなった反面、母と子のぬくもりを感じる機会は、減ってしまったなあ、と思います。

DATA

  • 取材:河合 美千代
  • 掲載日:2008年05月12日