水道橋博士さん

日陰 -青春時代-

岡山県の倉敷の出身ですね。小学生の頃は、児童会長で成績もオール5、良い子でしたね。勉強も体育も成績が良かったから自分はすべてにおいて1番なんだと思っていた。
中学校は地元の公立に進むのではなく国立の中学校に進学しました。「自分がそうでもない」とわかったのは、そこからですね、おちこぼれてきたのは。ひきこもりになってしまう。いや当時はそんな言葉はなかったから不登校ですね。更に高校1年の時にダブってますから、その不登校にも拍車がかかった。
人生、割と袋小路にいたんですけど、19歳で聞いた『ビートたけしのオールナイトニッポン』(※1)で“お笑いがあるんだ!” と、出口を見つけました。

※1 多くの若者に影響を与えたビートたけしさんのラジオ番組。81~90年まで放送。

修行 -浅草フランス座-

東京で最初に住んだ場所は、兄が近くに住んでいたこともあり千歳烏山でした。当時の移動は、もっぱらバイク。電車とかは乗れなかった。ちょっとした対人恐怖症でしょうね。
東京に出て来て4年間のモラトリアムの後、1986年、23歳の時にビートたけしの弟子になりました。そう考えると弟子になるまで長かった。
たけし軍団に入り、浅草のフランス座というストリップ劇場で住み込みで修行しました。長い下積み時代を経て、やっと食っていけるようになり、新中野、中野坂上、 新中野を経て、高円寺に行き着きました。高円寺に家を持った理由は、スネークピッドジャパン (※1) に通いやすかったからだね。

※1 高円寺にあるスポーツ格闘技ジム

固執 -中央線沿線にしか住めない!-

中央線以外住めないんですよ。何日か前に裏原(裏原宿)を歩くロケがあったんだけども、めちゃくちゃ無口になりましたよ。「まだ、こんな苦手なのかよ!」と自分でビックリしましたもん。やっぱり中央線は気が楽なんだよ。
ウォーターフロントのタワーマンションに住んだらどうなんだろう?と妄想するけど、やっぱダメなんですよ。中央線沿線しか住めない性格なんだなぁ、と思いますね。それには、やっぱりサブカルの聖地といった感覚があるんでしょうね。だって、ここだって(博士の仕事場の大量の本を指差しながら)、中野ブロードウェイみたいな感じじゃないですか。
阿佐谷もウォーキングでしょっちゅう行ってました。ただ、阿佐谷は爆笑問題の街ってのがあるから。太田総理の官邸があるしね。

愛好 -高円寺と水道橋博士-

子供がいないころに建てた家なんで、子供と住む構造じゃないんです。カミさんは「マンションに住みたい、住みたい」といつも言うんですが、子供は「転校するのはヤダ、ヤダ」と言っているんで、しばらく高円寺から動くことはないですね。夏場は子供と一緒に和田小学校のプールにも行くし。区民プールで泳いでいる芸能人ナンバー1だと思います。子供がいるから、地域で子育てしたいな。「この子はAさんの家の子だな」とわかるような街が良いです。挨拶ができる街にしたい部分はあります。
「高円寺文庫センター」は店長もよく知っていて、サイン会もやったことあります。移転する時に「経営者でやってくれ」って話もありました。すごく考えたけどヤメましたね。文庫センターを失うことは高円寺にとっても損失だと思ったので何とか支援しようとはしました。
美容室「ジプシーウェイ」で髪を切った帰りに寄るのが「アムレテロン」。すごい量の本をまとめ買いしてる。一時、整理整頓や断捨離のブームがあったじゃないですか。あの頃は「そうか二度と読み返すことのない本もあるんだな」と思って、部屋がキレイに見えるように本を処分したんです。そしたら本の泣き声が聞こえるようになったんですよ。まぁ、幻聴なんですけどね。
高円寺で仲が良いのは、フリーペーパー『SHOW-OFF』の編集長でもある佐久間さん。けど、なぜか高円寺フェスで俺を起用してくれない。「なんで俺じゃないんだろう」っていつも思うよ(笑)。

写真上:移転前の高円寺文庫センター  写真下:アムレテロン

写真上:移転前の高円寺文庫センター  写真下:アムレテロン

転換 -表現者から観察者、そして文筆業-

若い頃は雑誌の仕事で食っていたような部分もあって、10誌以上連載をやっていたけど、なんか嫌になってくるんですよ。「俺の本業は売文家ではなく漫才師だ」と。そんな気持ちになったんで雑誌の連載は止めました。けど、石原慎太郎に褒められたのがキッカケで、割り切って文章を書こうと思いました。元々、芸能界に潜入しているルポライターだという自覚はあるんですよ。
文章は、韻を踏んでリズムを作ったりと、漫才がベースにあります。ダジャレが多いという書評を書かれるけど、そりゃ、そういうふうに作ってるんだもんと思いますね。

未来 -杉並に生きる若者へ-
若い頃に「本を読む!映画を見る!」というのは重要だと思ってる。作品は全部、人生というものを描いているわけだし。園子温(※1)の『非道に生きる』なんか読めばいいんじゃない!?特に俺は、園子温と出会ってから人生を方向転換してるから。ワーカホリックにして、子育てを一切やめた。自分で「非道に生きる」というルールを課したら、それをすごく守るんです。ルールを破る場合も、日記などでイチイチ宣言をしなければならない。それがすごく面倒くさい。でも、自分の中でツジツマが合わないのが嫌いなんです。ブレる瞬間は、「この人の影響でブレた」と言いたい。
最近は、「どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか 」 (※2) じゃないけど、いずれ死ぬという考え方があります。 次の世代に繋げるためのバトンという意識が明確にあります。 人生とは、みんな大いなる遺書を書いているわけだしね。

※1 映画監督。著書である『非道に生きる』は「園子温、書く語りき」な内容
※2 みうらじゅんさんとリリー・フランキーさんの対談集


取材を終えて
浅草キッドは、ビートたけしさんの二面性を表していると思う。たけしさんの研究者的な目線は水道橋博士さんが、べらんめえ口調の兄貴的な面は玉袋筋太朗さんが。そのことを質問すると「そういうふうにはなっていると思う、人生をトレースしようとしているからね。けど、器の大きさでは敵わないということは常に意識して生きている」と答えてくれた。”人生をトレースしようとしている”この言葉を語れる人、語る資格を持った人は多くはいないだろう。水道橋博士と対面し、堅い人だと感じた。また、私が作成した『水道橋博士MAP』 を褒めてくださったのが嬉しかった。

水道橋博士 プロフィール
1962年岡山県生まれ。 ビートたけしに憧れて上京する。弟子入り後、浅草フランス座での修行を経て、87年に玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。90年にテレビ朝日『ザ・テレビ演芸』で10週勝ち抜き。92年テレビ東京『浅草橋ヤング用品店』で人気を博す。 幅広い見識を持ち、執筆業も行う。主な著書として『藝人春秋』(文藝春秋)、浅草キッドとして『お笑い 男の星座』、同『2』(ともに文春文庫)などの著書がある。2012年に有料メールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』を創刊。

『非道に生きる』園子温著/朝日出版社

『非道に生きる』園子温著/朝日出版社

DATA

  • 取材:ヨシムラヒロム
  • 撮影:チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2014年04月07日